パソコン絵画徒然草
== 1月に徒然なるまま考えたこと ==
1月 2日(木) 「初夢」 |
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明けましておめでとうございます。本年も「休日画廊」を宜しくお願い致します。 さて、新年というのは不思議な区切りで、つい先週のことが「昨年の出来事」になる。慌しかった年末の雰囲気が一気に改まり、静かな年明けとなる。気持ちを入れ替え、新しい活力を生み出すという点で、先人達が作り上げた生活の知恵だと思う。 どの国でも新年を祝う習慣があるが、日本人はその中でも、新年の迎え方をことさら大切にしているような気がする。正月にまつわる様々な家庭行事、年の初めの出来事を「初○○」として縁起をかつぐ風習など、新年の大切さを感じさせる習慣が生活の中に埋め込まれている。私はその中でも、「初夢」を重視する慣わしというのは面白いと思う。「初夢」で何を見るかによってその年の運が分かるなんて話は、西洋にはないのではないか。 実のところ、今年の初夢に何を見たかはもう忘れてしまったのだが(笑)、折角本年初めての徒然草なので、パソコン絵画にまつわる私なりの夢でも書いておこう。 かねてから考えているのだが、絵の題材を探しに遠方まで出掛けてみたいという夢を持っている。私は想像を交えながら風景画を描くことが多いが、その創作の裏には、どこかの現実の風景が核となっていることが多い。ある情景に触発され、そこから想像が膨らんで絵になっていくのである。 そうした核となる風景を、私は日常生活の中で見つけ、絵にしていくことが多い。しかし、生活パターンが単調なせいか、いつも行くようなところに繰り返し出掛ける傾向にある。「小石川後楽園」や「小石川植物園」、「六義園」、「旧古河庭園」など、春夏秋冬を通じ幾度となく散歩に出掛け、沢山の画題を拾った気がする。おそらく今後も、行けば何がしかの画題を拾うことは出来るだろう。しかし、いくら素晴らしい庭園でも、繰り返し行っていればマンネリズムに陥る。散歩をするうえでは何ら問題なくても、絵の題材を探す立場からは、新しく目にするものがなくなり、得られる印象も以前と大きく変わらなくなる。つまり、風景に対する新鮮な感動がなくなるのである。 そんなときに、ふと何かの都合で今まで行ったことのない場所に足を運ぶと、何か新しい感覚を覚えることがある。そこが観光名所でなくとも、心に響いて来るものに出会うことがある。それは大抵の場合、そう珍しいものではなく、何かちょっと心惹かれる光景に過ぎない。しかし、そんなものでも具体的イメージを伴って絵の題材へと昇華していくことがある。要するに、絵の題材として特別な風景がいるわけではなく、何か目新しく心に訴えかけて来るものであれば、ほんの些細な光景で構わないのである。 それならわざわざ遠くまで出掛けなくとも、テレビ番組や雑誌などで色々な観光名所の紹介をしているじゃないかという声もあろうが、私の場合、それだとどうも絵に結び付いていかないのである。現場の空気というのであろうか、その場所に自分が立った印象というのが大切なのかもしれない。 日頃出無精で休みの日にも遠出しないのがいけないのだが、今年は一つ足を伸ばして、今まで行ったことのないところまで、絵の題材を探しに出掛けたい気がする。別に名所や観光地である必要はない。日頃見慣れた風景とはどこか違うものを持っているところであればいい。東京都心部は、行けども行けども同じようなビル群が続くので、いっそ電車に乗って遠出した方が、収穫がありそうな気もする。 誠にささやかな初夢だが、そういう何気ない夢ほど、日常生活に流されて実現しないものである。まぁ、実際どの程度実行可能か定かではないが、今年1年の成果を楽しみにしよう。 |
1月 7日(火) 「安全性の代償」 |
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ホームページを持つと、インターネットへの関わり方がそれなりに深くなって来る。メールを戴くこともあるし、ネット上の付き合いも生まれ、こちらから色々なサイトを訪問したり、書き込みをしたりと、双方向で付き合いが深まる。しかし、そうしてインターネットへの関わりが深くなればなるほど、ウイルス対策をはじめとするセキュリティー・チェックに力を入れなければならなくなる。これは、いわば宿命のようなものだ。 ウイルスをはじめとするネット上の危機は、年を追うごとに巧妙になり、ホームページを見ただけで感染するウイルスもあると聞く。インターネット・ブラウザやメール・ソフトのセキュリティー対策、あるいはウイルス対策ソフトの機能向上とイタチごっこを演じているわけである。最新版のアウトルック・エクスプレスだと、そもそもメールの添付ファイルはセキュリティー解除をしないと開くことすら出来ない。ここまでやる必要があるのか、と私なんかは思ってしまうが、現実にそういった危機があるのであれば致し方ない。そこまで危ないなら、いっそメールにファイルを添付出来なくしてしまえばいいではないか、と考えるのは過激すぎるだろうか。そう思うのは、パソコンの素人でアウトルック・エクスプレスのセキュリティー解除の方法を知らない人だと、どうやって開けばいいのか分からなくて困惑するだろうと思うからだ。仕事に関する大切なファイルを自宅で受け取って開けなかったら、一体どうするのだろうか。 最近、もう一つのセキュリティー関連問題に気付いた。ウイルス対策ソフトである。私は、ある有名なウイルス対策ソフトをインストールしているが、そのバージョンは今から2〜3年前のものである。ところが、最近マザーボードを入れ替えた際、その2002年版が無料で付いていた。英語版だったが使い方は前のものと変わらないので、こちらに入れ替えてみた。新しい版は、ウイルス対策だけでなく、インターネットのセキュリティー機能まで付いている。どんなものかと思って、インストール後にインターネットにつないでみて驚いた。今まで見ていたページが正しく表示されないのである。 インターネットに詳しい方はご存知だろうが、動画など華やかな演出が凝らされているサイトは、簡単なプログラムが埋め込まれ動作している。そうしたプログラムとともに危ないウイルスを仕掛け、そのサイトを見た人のパソコンにウイルスを送り込もうとする輩がいるわけである。それを阻止するのがインターネットのセキュリティー機能なのだが、安全を見込んで、本来問題のないプログラムまで動作させないようにしたり、向こうのサーバーに向けて発信すべき信号を止めたりすることがある。その結果、作者が意図した通りにはページが表示されない、という現象が起こるのである。 私は、興味を持って色々なサイトを見てみたのだが、インターネット・セキュリティー機能がオンになっているのといないのとで、サイトの構成自体がガラリと変わってしまうサイトがあることに気付いた。さすがにプロが作った大手のサイトでは問題ないが、凝った作りの個人のサイトでは、見るも無残な表示になってしまうものがある。ついでに言うと、掲示板によっては書き込みがエラーになるものもある。 そんなことが気に掛かっていたものだから、大手家電ショップのソフトウェア売り場に行った際、ウイルス対策ソフトのコーナーを覗いて見た。そうしたら、このソフトの2003年版が、ウイルス対策ソフト売上げの第1位になっていた。おそらく2位、3位のウイルス対策ソフトにも同じような機能が付いているのだろう。ということは、世の中の少なからぬ人が、インターネット・セキュリティー機能をオンにしたまま各サイトを見ていることになる。 慌てて、インターネット・セキュリティー機能をオンにした状態で「休日画廊」をじっくり見た。シンプルな作りのせいか、見えないのはカウンターだけだった。ふと、昔はやった「シンプル イズ ビューティフル」というフレーズを思い出した。ホームページの作りが簡単だと、得をすることもあるらしい。それ以後、私は自分のサイトのカウンターがどれくらいになっているのか、分からないことが多い。 自分のサイトがどう見えるのかご心配な方は、一度自分のサイトをチェックされたら如何か。安全性の代償というのがどういうものか実感出来るかもしれない。 |
1月10日(金) 「絵画制作のバイオリズム」 |
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義務感で絵は描けない。というか、いい絵は描けない。時間があるからといって、キャンバスや紙の前、あるいはパソコンの前に座っても、気乗りがしないとうまく描けない。これはテクニック的な絵の巧拙のことを言っているのではなく、描きながら出る絵の雰囲気や味わいなど、内容に関してのことである。 絵は、私にとって仕事ではなく趣味である。気が向かないときには描かない自由があるのだから、別に無理に描く必要はないのだが、時間に制約のある生活を送っていると、まとまった時間の空きは、そうそうあるものではない。それで暇が出来るとついつい、絵でも描こうかとパソコンの前に向かうのだが、描けないときにはやはり描けない。絵画制作のバイオリズムが合わないということだろうか。 これと同じような話を、小説家のエッセイで読んだことがある。誰の話なのかは忘れたが、「今日は朝から原稿用紙に向かうが一行も書けない」とかいった独白が出て来る。私は昔、それがどうしてなのかよく分からなかった。プロの小説家である以上、充分な時間と資料があるに違いない。しかも、これから新しい小説を書き始めるのではなく、途中まで書いた話の続きが書けないというのである。基本的なストーリー構成や登場人物の造形は既に出来ているだろうに、何故書けないのか、何に問題があるのか、私には理解出来なかった。しかし、これを自分の絵画制作に照らし合わせてみると、感覚的に妙に納得出来る点がある。ただ、論理的には、その理由をうまく分析出来ない。単にバイオリズムが合わないということだろうか。 絵を描きたいという気持ちの高まりが、一体どういうときに起こるのか、確たる法則性は見出せない。勿論、いい風景にめぐり合ったとき、あるいは味わいのあるイメージが心に浮かんだときに、絵を描きたくなるのは当然である。しかし、一度に全て描き上げてしまうわけではなく、基本的な塗りが終わった程度のところで、時間の制約上その日の作業を終える。問題は、その次に描き足そうとしたときに起こる。完成時のイメージは頭の中にあるのに、気乗りしないときにはどうにも思うように描けない。そうして呻吟した挙句に諦めて、そのまま放置しておくと、あるとき、ふいに筆ならぬ入力ペンを取りたくなる。そして今度は何故か、うまく筆が運びイメージ通りの絵が完成する。どうして、描きたい気持ちにそういったムラが出来るのか、本人にも分からない。 一つ、僅かな法則性を見出せるとすれば、忙しいときに限って絵を描きたくなることが多い、ということだろうか。これは学生時代、勉強しなければならなくなると、不思議と別の本を読みたくなったり、音楽を聴きたくなったりしていたのに似ている。俗に言う「現実逃避」というやつだろうか。あるいは、忙しくて心が疲れているときに、絵に救いを求めているということだろうか。とにかく、そんなときには、筆もスムーズに運びイメージ通りに描けるような印象がある。 私の絵を見ていると、心がおだやかになるという褒め言葉を頂くことがあるが、心を癒されたいのは、描いている私自身なのかもしれない。 |
1月15日(水) 「分類」 |
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「日本画と油絵の違いは何ですか」と訊かれることがある。その答は中々難しい。シンプルに言えば、「突き詰めれば画材の違いです」ということになるが、現代絵画では、一見して両者の差は微妙になっている。例えば、公募展では日本画の部と洋画の部が分かれているから、両者を当然のように区別しながら見ているが、仮にその仕切りを取り払って一緒に展示してあると、それが日本画か油絵か、分からない作品も沢山出て来ると思う。ついでに言えば、洋画部門のガッシュを使った水彩画と油絵との区別も、一瞬分からないものがある。 更に混乱に拍車をかけるのがアクリル画で、これは現在どういう取扱いを受けているのだろうか。私も使っているので知っているが、アクリル絵具は不思議な画材で、キャンバスにも紙にも、さらには板にも壁にも描けるし、混ぜるメディウムによってつや消しにも光沢にも仕上がる。油絵のような厚塗りも出来るし、水で溶いて描くので、ある程度ぼかしもきく。これを日本画で使う和紙の上につや消しで塗ると、日本画と見間違えるような仕上がりになるし、水彩画紙を使えば水彩画らしきものも描ける。キャンバスに描くと油絵で、エアブラシにも使えるから写真調のイラストレーションも描ける。プロの方も使っておられるらしいが、一体これを何と分類していいのか分からない。少なくとも公募展に「アクリル部門」はないから、作者の都合によってどれかに分類されているのだろう。日本画家でも使っている人がいると聞いたことがあるから、「日本画部門」で見た作品の中にも、岩絵具ではなくアクリル絵具で描かれた作品もあるのかもしれない。そうだとすれば「日本画と油絵の違いは何か」という最初の質問への答は、益々難しくなる。 そうした混沌とした状況にありながら、今でも「日本画」「油絵」「水彩画」といった区別は、厳然とある。公募展だけではなく、インターネットの世界にもある。Yahooをはじめとする大手検索サイトでも、芸術系専門の検索サイトでも、絵画に関しては判で押したように、この区分を採用している。他に区分の方法がないから仕方ないのであろうが、現実の仕切りが曖昧になっているのに、そこまでこの区分を皆がそろって厳守する必要がどれ程あるのか、やや疑問も残る。 もう一つ区分の問題で前から疑問に思っているのは、私が描いているようなパソコン絵画系である。これは一体何と区分されるのだろうか。画材を軸に区分する従来の方法に則れば、コンピューター・グラフィックス(CG)ということになろうが、例えば検索サイトでCGとして登録されているサイトの作品を見ると、私が描いているような絵とは、どうも違うなぁという印象を受ける。しかし、絵画の部門のサブ・カテゴリーにCGはない。検索サイトを運営している人々の認識は、絵画とCGは別ジャンルのようである。私が描くようなパソコン絵画は、結局どこにも区分されない隙間分野ということになってしまう。 分類というのは、物事を整理して理解する上で重要な作業だと思うが、人間の想像力が次々に生み出す新しいものを、昔ながらのカテゴリー分けできれいに分類し尽くすことは難しい。我々は、新しく生み出されるものは古い定規では測れないかもしれないと、心の片隅にでも銘じておくべきである。そして、一見してどう分類してよいか分からないものを、従来の規格に合わないと排除してしまうのではなく、規格そのものを今一度見直す努力が必要である。測られる対象物が重要なのか、定規そのものが重要なのか、少し考えれば、答えは自ら明らかであろう。 私は、検索サイトで面白そうなサイトを探すとき、たまに「その他」の欄を覗いてみる。従来の区分ではどこにも分類されないものに目を向けるのは、そこに何か新しい芽がありそうな気がするからだが、パソコン絵画という隙間分野を抱える私自身の立場を省みて、そういうカテゴリーにしか分類先を見出せないサイトに、幾ばくか共感する部分もあるのかもしれない。 |
1月22日(水) 「豊かに生きる」 |
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今回は、パソコン絵画にあまり関係ないことを書きたい。 社会人になってから、もう随分と経つ。仕事を持ち、家庭を構えていくうちに、人は生き方や生活様式を少しずつ変えていかざるを得ないが、趣味もまた同じである。維持出来る趣味と、維持出来ない趣味がある。比較的時間のある時期に始めた手間のかかる趣味は、仕事が忙しくなるにつれて諦めざるを得なくなる。勿論、頑張って続ける人もいるが、そのためには、それ相応の気力と努力が要る。誰にでも出来ることではない。 悲しいことだが、仕事が忙しさを増すにつれて、趣味と胸張って言えるものはドンドン減っていく。気が付くと、何かの書類の趣味欄に「読書」という、趣味なのか実用なのか分からない言葉を書き込むだけとなる。それでは実際、仕事関係以外で、人生を豊かにしてくれる素晴らしい本を最近何冊読んだのかと訊かれると、ちょっと俯かざるを得なくなる。ある意味でわびしい人生であり、そうした仕事人間を揶揄するようなエピソードが面白おかしく語られたりするが、本人としては、必ずしも好んでそういう境遇になっているわけではなかろう。 我々はともすれば、生活の糧である仕事に流されて、人生の楽しみを探す努力を諦めがちである。あるいは、人生を楽しむこと自体を、罪悪感を持って遠ざけようとしている。真面目であることはいいことだが、それが直ちに禁欲的な生活を意味するわけではない。「仕事は尊いもののはずだ」とか「仕事を充実したものにしなければ」といった、一種の強迫観念に縛られてしまうと、人は身動き出来なくなる。充実した人生を過ごすというのは、ひたむきに仕事をし続けることと、必ずしもイコールではないはずだ。我々は何のために生きているのか、今一度自分に問い直してみることも必要かもしれない。 慌しい現代社会にあって、豊かに生きるということは、実際には中々出来るものではないが、別に大それたことをしないといけないわけではない。人々の尊敬を集めるような生き方をしないといけないわけではないし、ニュースになるような立派な足跡を残したり、他の人には真似の出来ないような趣味を持ったりする必要もない。ただ、自分の心に素直に生きればよい。それは、とても小さなことからスタート出来るのだが、最初の一歩を踏み出すには、多少の勇気が必要かもしれない。 私が忙しさにかまけて長らく放置していた絵画制作の趣味を、パソコンを通して再開しようとしたときにも、少々勇気が要った。描画ソフトとタブレットで何万円かのコストがかかるが、多忙な日々の中で、うまく行くかどうか分からないような趣味を、手探りで始めるだけの余裕があるのか、あるいはいつまで維持出来るのか、正直言って不安だったのである。最終的には、そこを思い切ったがゆえに、ここに展示してあるようなパソコン絵画が生まれたのだし、忙しい日々の中にあって、一服の清涼剤になっているのである。私なりに考えれば、そんなちっぽけなことでも日々の生活を豊かにしてくれる。 しかし世の中には、そんな小さな迷いを飛び越えられない人が沢山いるように思う。仕事に振り回され、ある日、趣味欄に書くことが何もないことに気付く会社人間。日常生活に埋もれているうちに、昔打ち込んでいた趣味をどこかに置き忘れてしまった社会人。そんな人達から見れば、趣味を持ちながら豊かに生きる人達は、別世界の住人のように思われるかもしれないが、両者の距離は意外と僅かなのではないか。多少の勇気と思い切りで、あるとき何かを飛び越えたか否かの違いだけのような気がする。 そうして飛び越えることによって失うものとは一体何なのか。突き詰めて考えれば、意外と大したものではないのかもしれない。おそらくそれが分かった人が、人生の達人と呼ばれるのだろう。 |
1月28日(火) 「試作品」 |
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パソコン絵画は、その性格上大きさに制約がある。プリンターで打ち出すので、A4が実用的な限度となる。従って、私は長い間、大作を描いたことがない。最後に描いた大きな絵(と言っても30号だったが)は、既に15年近く前のことになる。 大きな絵を描こうとすると、本作の制作もさることながら、そこに至るまでの準備も大変である。6〜10号程度の絵なら、スケッチを取って構想をまとめれば、いきなりキャンバスに向かっても支障なく描き進められるが、100号以上の絵で、いきなり描き始める人は少数派ではないだろうか。おそらくは事前に、小さいサイズの試作品を描いて、構図や色合いをチェックする。「いや、私はぶっつけ本番だ」という、確固たる自信をお持ちの方もおられるかもしれないが、少なくとも私は、試作品を作らないと不安である。 大作の制作手順は、プロの画家でも同じようである。画集などを見ると、有名な作品の試作品や下絵が掲載されているが、それを見ていると、本作にたどりつくまでの長い道のりが垣間見える。昔、上村松園展で、彼女の試作品を何点も見たが、これが頭が下がるほどの綿密さである。様々な構図と色合いの試作品が並び、やはり名作の陰には、たゆまぬ苦労と努力があることを痛感した覚えがある。 こういった過程で大変なのは、幾つもの試作品を作るのに、結構な手間と時間がかかることである。思い悩んで、構図を組み直して描いてみる、あるいは、色合いを変えて描いてみる。そのたびごとに一から描き直すのは、小品とはいえ大変である。あまり粗雑なものを描いたのでは試作品にならないし、そうかといって一枚々々丁寧に描いていると、本作を描く前にうんざりして来る。プロの方ならそんなことはないだろうが、私なぞはそこまで根気が続かない。 パソコン絵画を描くようになってふと思ったのだが、パソコンで描いた絵は、簡単に色直しが出来るし、レイヤーを分けておけば、パーツごとに構図の組み直しや大きさの修正が可能である。これはひょっとして、肉筆画の試作品に使えるのではないか。最近、肉筆画を描く機会がないので試したことはないのだが、私の直感ではおそらくかなりの程度実用に耐えるのではないかと思う。 試作品をパソコンで描いて構図と色合いを決め、それを元にキャンバスや紙に本作を描くという工程にすれば、納得のいくまで試作品を作っても、トータルの制作時間は短くなるような気がする。制作時間に制約のあるアマチュアでも、大作を描くのが容易になるのではないか。 この文章を読んで興味を持たれた方は、一度お試し頂きたい。こういうのも、デジタル時代の新しい絵画制作の在り方かもしれない。 |
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