パソコン絵画徒然草

== 1月に徒然なるまま考えたこと ==





1月11日(火) 「安住すること・冒険すること」

 新年のお祝いを申し上げるには、少々時期を逸してしまった。しかし、年の初めの抱負を述べるのには、未だ遅くないだろう。抱負といっても大それたことではない。以前、年の初めに大層な企画を発表して、結局実現できなかった苦い経験があるから、もう夢物語は語らないことにした。その代わり、最近パソコンで絵を描くことについて考えていることを若干述べてみたい。

 最近つくづく思うのだが、パソコンでの絵の描き方が、よく言えば安定化、悪く言えばマンネリ化して来た。これは、構図や色合いのことを言っているのではない。山、川、森、木といった個別パーツについての表現方法についてである。

 例えば山の描き方。私の場合、まず1枚目のレイヤーを作って山の輪郭線を描く。そこに色を流し込み、色の付いた面を作る。これだけだと、平坦かつ均一に色を塗られたパネルのようなものに過ぎない。次に、このレイヤーを何枚かコピーして加工を加えたり、新しいレイヤーを追加して特殊な効果を付ける。例えば、コピーしたレイヤーの色を滲ませ模様を付ける。これは山の表面の凹凸を表すことになる。また別のコピーには、色にグラデーションを加えて、麓と頂上との色の違いを出す。新しく作ったレイヤーでは、森の陰影を描き加えたり、細かい木の表現を部分的に付ける。これらのレイヤーは、1つの山につき最低でも5〜6枚にも及ぶが、最後にそれぞれのレイヤーの透明感を調整して混ぜ合わせ、1つの山が出来上がる。

 他のパーツも同じである。湖面を描くとしよう。1枚のレイヤーに基本となる色を置く。これは通常、空の色との兼ね合いで決まる。あとは山の描き方と同じで、様々な表現をかもし出すレイヤーを幾枚か制作する。例えば、あるレイヤーでは水面の微妙なグラデーションを表現し、またあるレイヤーには、エアブラシで波模様を描く。岸辺の影や、対岸の景色が水面に映っているレイヤーも当然用意する。かくして出来上がった数枚のレイヤーの透明度を調整しながらミックスし、湖面が出来上がる。

 これら1枚々々のレイヤーはそれぞれ、完成後の絵に所定の効果を与える役割を担っており、一枚として無駄なレイヤーはない。しかし、パソコンで絵を描き始めた頃は、そうではなかった。毎回試行錯誤の繰り返しだから、結果的に意味のないレイヤーを作ってしまい、後で削除するという虚しい作業を何度かやったことがある。こうした度重なる失敗の賜物か、最近では作業の無駄はかなり排除された。ただ、そうして煎じ詰められた作業だけをやるようになると、妙に描き方が定型的・機械的になる。山や森の輪郭線を置いた後は、流れ作業のようにレイヤー作成が行われる。効率的なのだが、何かワンパターンの繰り返しで、制作手順にマンネリを感じてしまう。

 そんなことを書くと、一体お前は何が不満なのかといぶかる向きもあるかもしれない。安定した制作手順が確立出来たのだから、結構なことではないかと思われる方も多いだろう。確かに自分なりに制作技術を高められ、思うような描写もしやすくなった。無駄が減った分、作業は効率化した。しかし、絵画制作は工業製品の大量生産とは異なる。同じ物を正確に無駄なく作ることが出来れば、それでよしというわけではないのである。

 私が最近感じていることを率直に言えば、試行錯誤していた初期の制作過程が妙に懐かしいのである。ああでもない、こうでもないという逡巡や、次回はこういう描き方をしたらうまくいくのではないかという期待感、そして新しい表現方法を編み出したときの達成感、いずれも喜怒哀楽に満ちた浮き沈みのある制作過程だったが、毎回冒険の連続のようで、振り返ってみると楽しい修行時代だった。それに比べて今の描き方は、安定感が出て来た分、予定調和的で、思わぬ効果が得られたときの驚き・喜びがない。ある意味で贅沢な悩みかもしれないが、冒険がないということかもしれない。最近「習作」の制作数が減ったことが、それを如実に表しているような気もする。

 シュンペーターにおもねるわけではないが、私の制作過程に必要なのは、彼が唱えた「創造的破壊」なのかもしれない。私が現在安住している制作手法よりも、更に優れた未知の技術がまだ沢山あるのだろう。その開拓に向けて、長い旅を目指すのも悪くはない。戒めなければならないのは、前進を止めてしまうことである。




1月19日(水) 「古くて新しい問題」

 最近のパソコン絵画制作過程での悩みについて、前回、新年の抱負にかこつけて思うところを述べたが、若干付け加えておきたいことがあって再び筆を取った。問題はモニターに関することであるが、これについては過去何度か書いており、旧聞に属する部分もあるかと思う。

 パソコンで描いた絵は、普通モニター上で見る。勿論、プリンターで印刷することもあるが、それはごく僅かの選ばれた作品についてだけであり、一度も印刷されないままパソコン内で保存されている作品の方がむしろ多い。皆様に公開するのももっぱらパソコン上であり、この「休日画廊」に限らず、直接我が家に来られた方にもモニター上でお見せしている。その際の最大の問題点は、以前にも申し上げたことがあるが、CRT(ブラウン管)モニターと液晶モニターとで、明らかに絵の見え方が違うということである。

 我が家には2台のデスクトップ・パソコンがあり、1台はCRTモニター、もう1台は液晶モニターを付けている。私がパソコンで絵を描いているのはCRTモニターの方であり、使う色もCRTモニター上で選んだものを塗っている。しかし、そうして制作した作品を液晶モニターで見ると、かなり色合いが違って見える。液晶モニターの方が、色が薄く出て、微妙な色合いの差が現れないのである。

 例えば、今年最初の作品として展示している「冴ゆる日」という作品を液晶モニターで見ると、水面や空の微妙な色が現れず、全体に露出超になった写真のように白っぽい画面になってしまう。こうした見え方の差は、コントラストのはっきりした映像の場合にはさほど気にならないが、薄めの近似色を多用した映像だと致命的な差となって現れる。私の絵は、こうした薄めの色の微妙な差を使ったものが多いので、作者としては神経質にならざるを得ないのである。

 以前はそれでも、パソコンのモニター売場に行くと殆どがCRTモニターだったから、こちらとしても気にしないでいたが、最近ではCRTモニターは少数派になってしまった。正確な統計は知らないが、そもそもノートパソコンは全て液晶モニターだから、世の中のパソコンのかなりの部分が、今や液晶モニターということになるのかもしれない。そうすると、確率論的には、私が選んだ通りの色合いで作品をご覧頂いている閲覧者の方は、むしろ少数派ということになる。よく考えると、これは由々しきことかもしれない。

 勿論、肉筆の絵だって、紹介される図録や雑誌の印刷の具合で、違った色合いに見えることはある。同じことではないかと言われるかもしれないが、肉筆の絵の場合には、れっきとした本物の絵がある。例えば、モナリザを写した図録や雑誌の写真にも色の違いが出ることがあるが、パリのルーブル美術館に行けば、自分の目で本物の色を確かめることが出来る。自分の目で美術館で見た色が、まさに本当の色ということになる。

 しかし、パソコンで描いた絵については、本物はパソコン内にあるデジタルデータであって、これを直接目で確かめるわけにはいかない。どうしてもモニターのような可視装置を通してしか確かめられないのである。そして、問題はまさにその可視装置にある。

 この問題は、パソコンで絵を描き始めてからずっと長らく付いて回っている問題であるが、液晶モニターの本格的な普及に伴って、そろそろ対応を考えなければならないと思い始めている。しかし、「今年から液晶モニター上で色を選択して絵を描きます」というふうに単純に割り切れないでいるのも事実である。それは、色の表現力の点で液晶モニターは、未だ々々発展途上のハードウェアだと思うからである。今後技術開発が進めば液晶モニターも、CRTモニターに劣らぬくらい微妙な色の違いを再現できるようになるだろう。そのときには、液晶で絵を描くようにしてもいいと思うのだが、現時点では今一つ満足できる水準には達していない。

 ただ問題は、そのときまで今のCRTモニターが生き延びているかどうかである。テレビと違って、パソコンに色の再現性の精度を求める人は余りいないから、液晶モニターの価格が下がり続ければ、そのコンパクトさに人々が魅了され、CRTモニターは市場から駆逐されるおそれがある。液晶モニターの色の再現性の向上が先か、CRTモニターが滅びるのが先か、私にとっては悩ましい問題である。しかし、そんな悩みを抱えるあたり、パソコンで絵を描くのは、未だ々々マイナーな趣味なのかもしれない。




1月27日(木) 「最後の一枚」

 「こういう絵を描けたら死んでもいい」というフレーズをよく目にする。素晴らしい作品に巡り合えたときの感動を言葉に表すとすれば、これほどぴったりの表現はない。ただ、死んでもいいと思えるほどの作品は、実のところ描けないのである。それはアマチュアのみならず、プロだって同じだと私は思う。

 「思う存分満足の行く作品が描けたから、思い残すことは何もない」と言って死んで行く画家はまずいない。世の中でどんなに傑作と評価されても、描いた画家にしてみれば、ある程度時間が経つと何かしら悔やまれるところが出て来る。あるいは、他に描き残したものがあることに気付く。それが絵描きの人情というものではないか。つまり、絵を描く者は永遠に、「最後の一枚」を追い求める日々を送ることになるのである。

 そもそも「最後の一枚」というイメージは、みんなが想像しているのと現実とで、かなり差があるような気がする。大抵の人は、画家が最後の力を振り絞って渾身の傑作を描いて死んで行くというイメージが強い。小説などに出てくる画家の話は、ストーリー展開の都合もあろうが、多分にそういうイメージで作られている。

 例えば、オー・ヘンリーの佳作「最後の一葉」に出て来る無名の老画家ベーアマンは、窓から見えるつたの葉が全て散ったら自分も死んでしまうと思い詰めている肺炎のジョンジーのために、嵐の夜、最後の葉が散った壁の上に、絵具で一枚の葉を描く。ジョンジーは朝になって、嵐にも負けず残った葉を見て勇気付けられ、病気を克服して一命を取りとめるが、老画家はそれが元で急性肺炎となり死んでしまう。「あれがベーアマンさんの傑作なのよ−あの葉は、ベーアマンさんが描いたものなのよ。最後の一枚の葉が散った夜に」で結ばれるこの作品は、まさに、画家の「最後の一枚」を書いたものである。

 サマセット・モームの「月と6ペンス」でも、ゴーギャンをモデルとした主人公の画家ストリクランドが、人生の最後に傑作を残す。彼は、証券関係の仕事を突然辞めて画家を志し、妻子を捨てて、単身タヒチに渡り、ライ病にかかって死ぬ。死後に彼の住んでいた粗末な小屋を訪ねると、彼が最後の日々に描いた、素晴らしい壁画が残されていた。町の絵画教室で見込みがないと揶揄され、一人の理解者も得られなかった孤独なストリクランドが、既存の社会的枠組みを全て捨てた果てに、タヒチで新しい境地にたどり着いたという設定になっている。

 しかし、こんな劇的な例は、現実にはめったにない気がする。多くの画家は、見果てぬ傑作を夢見ながら、力ある限り描き続けて亡くなる。絶筆となる作品も、描いているときには未だ描き続けられると思いながら、制作していたのではないか。私は今まで、沢山の有名画家の絶筆を見て来たが、描きかけで未完のものや、明らかに力衰えて勢いが失われたものがある。いずれも、無念さが残る絶筆だったのではないか。こんな場合には、画家は死んでも、あの世で「最後の一枚」を追い続けている気がする。思えば因果な職業である。




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