パソコン絵画徒然草

== 2月に徒然なるまま考えたこと ==





2月 3日(火) 「高価な伝統文化の代償」

 フランスに行くと、本場のフランス料理が比較的安価で食べられるし、イタリアに行ってもそうである。ひるがえって、日本料理はどうだろうか。町中の気楽な和食屋さんならともかく、名の聞こえた一流の日本料理店で食べるとなると、恐ろしく高かったりする。また、店によっては、一見さんはお断りというところまである。お蔭で、伝統的日本料理を外に食べに行く機会は、我々日本人といえどもめったにない。そうこうしているうちに、一流店できちんとした会席料理を食べたことのある人は、どんどん減っていくのではないか。

 これは、食事に限ったことではない。日本の伝統的なものは、おしなべて高い。着物や家具、陶器などの伝統工芸品に限らず、歌舞伎や能、狂言などの演劇、お茶やお花や踊りなどの習い事、全て相応のお金がかかる。私が昔やっていた日本画も例外ではない。日本画を描こうと思って道具一式そろえるとなると、油絵や水彩画よりもお金がかかる。また、例えば家に絵を飾りたいと思って、画材店に装飾用の絵を買いに行ったとしよう。同じ号数の絵なら、間違いなく油絵の方が安い。

 こうした高値傾向が、日本文化に固有なことなのかどうか知らないが、その高価さゆえに、日本の伝統自体が我々の生活から抜け落ち、どこか見知らぬよその文化のようになってしまった。本格的な伝統工芸品の中にも、本来は普段使いの生活必需品があったはずだが、今やへたをすると、一般の日本人は、デパートの展示や博物館・美術館など特別な場でしか、こうしたものを見たことがないという事態となりつつある。歌舞伎だって、江戸時代は庶民の楽しみだったはずだが、今現在、歌舞伎座で歌舞伎を見たことのある日本人の割合は、一体どれくらいのものなのだろうか。こんなことが続けば、全体として日本の伝統自体がすたれていくのではないかと、私は時々心配になる。

 現に、様々な伝統文化の領域で後継者難だという話を聞く。むしろ、外国人の方が興味を示し弟子入りしているケースもあると、テレビや雑誌などで紹介されている。これだけ我々の日常生活と伝統文化が乖離してしまえば、むべなるかなという気もする。そもそも、見たこともないものに興味を示せと言われても、無理である。

 皮肉にも、全ての伝統文化は「一種の芸術」と認定された瞬間から、一般人の生活と乖離し始めるように思う。芸術的で高尚なものだとされれば箔が付き、値段も上がるから、その文化の担い手にとってはありがたいことなのだろうが、たいていの場合、そうした幸福は長くは続かない。いずれ、高嶺の花となり、一般人から見向きもされなくなるからだ。一部の熱烈なファン、しかも金銭的に余裕のある人々によってかろうじて支えられながら、どうやって生き延びていくのか思案しなければならなくなる。現に、バブル崩壊以降、伝統的郷土料理を扱う地方の高級料亭が、多数店を閉じたと聞いたことがある。一部の金持ちのスポンサーがいなくなれば、誰も支えなくなる。一般人の関心が離れた後に老舗がたどる、何ともお寒い事情が垣間見えるようである。他の分野でも、多かれ少なかれ、そうやって伝統文化はすたれて来たのではないか。

 「これはもはや芸術ですね」というレポーターの言葉に喜んではいけない。それは、滅び行く文化に対するイエローカードなのかもしれない。ただ、一番恐いのは、仮に日本の伝統分野の一角が滅んだとしても、馴染みの薄い我々が、それを一向に気にしないことである。




2月11日(水) 「バージョンアップ」

 パソコンで絵を描いておられる皆さんは、パソコンのスペック(仕様・性能)について、どの程度気にしておられるのだろうか。絵を描くのに使うソフトウェアは、CPUやメモリー、ハードディスクの空き容量が一定水準以上であることを要求している。こうした情報は通常、ソフトウェアの箱の裏面か側面に記されており、誰でもソフトを買うときには、自分のパソコンが必要なスペックを満たしているかどうか確認しておられることと思う。しかし、買って来たソフトをインストールし正常に動けば、そのままこの件は忘れ去られてしまうのではないか。

 このスペック問題が再び頭をもたげるのは、ソフトウェアのバージョンアップを考え始めたときだと思う。皆さんは、このバージョンアップにどう対応しておられるのであろうか。

 私は、現在絵を描くのに使っている「Paint Shop Pro」を、常に最新のものにバージョンアップし続けている。現在はVer8だが、Ver7からVer8になったとき、推奨動作環境は、CPUが500MHzから1.0 GHz以上へ、メモリーは128MB以上から256MB以上へとかなり上がった。Ver8にバージョンアップしたときには、私のパソコンはこのスペックを満たしていたが、そもそもVer7を使い始めたときに使用していたパソコンだと、Ver8の推奨動作環境を満たしていなかった。つまり、ソフトウェアを常にバージョンアップし続けようとすれば、パソコン自体もある程度スペック向上を目指さなければならない。これは、パソコンで絵を描くうえで、絵具で描くのと異なる1つのハードルではないかと思う。

 ソフトウェアのバージョンアップは、CD-ROMをトレイに入れてインストールすれば終わりだから、たいていの方は問題なく出来るだろうが、パソコンのスペック向上となると、そう簡単にはいかない。主に問題になるのは、CPUとメモリーだが、場合によっては、ハードディスクの空き容量が足りないという方もおられるやもしれない。しかし、ソフトウェアのバージョンアップと違って、これらのパソコン・パーツを手軽に交換できる人は、ごく少数派のような気がする。

 私は、ソフトウェアのバージョンアップをしたいのに、自分のパソコンのスペックが要件を満たしていないので諦めている人が結構いるのではないかと思う。ソフトのバージョンアップのためだけにパソコンを買い換える人はめったにいないだろうから、結局ソフトはバージョンアップされずに、買ったときの状態で使い続けられるのだろう。それで何ら支障がなければいいのだが、不便を感じていたり、新しいバージョンに搭載された機能を使ってみたいという向きには、不満が溜まるに違いない。そうならないためには、やはりハードウェアに対する最低限の知識は、持っていた方がよいような気がする。

 我が家にある2台のパソコンは、私が自分で組み立てたものだが、私自身は決してパソコンを組み立てるマニアではない。出来ることなら、パソコンの中はあまり触りたくない。それでも自分で組み立てるのは、依然として使えるパーツを捨てるのはもったいないので、無駄なく使い続けたいという庶民的な経済感覚と、絵を描くという自分の用途に特化したパーツ構成にしたいという考えからである。お蔭で、私が絵を描くのに使っているパソコンは、CPUは廉価版の中堅クラス、ビデオカードは3世代前の遺物であるが、メモリーは1GB、ハードディスクはバックアップを考えて合計200GBと、ハイエンドマシン並みの容量を確保している。

 自分のパソコンのスペックが足りないためソフトのバージョンアップを諦めておられる方や、何とかソフトは動くがパフォーマンスが悪いと感じておられる方は、絵とは全く関係ない分野ではあるが、パソコン・パーツについて勉強を始められてはどうだろうか。マザーボードの交換となるとハードルは高いが、メモリーの増設程度なら、初心者にも取り組み可能である。多少の努力でソフトの動作が大きく改善する余地があり、やるだけの価値はあるような気がする。必要なのはメカの知識ではなく、新しいことにチャレンジする勇気である。




2月18日(水) 「絵と年齢」

 私が日本画を描き始めた頃に活躍しておられた画家の方々が、最近次々に亡くなられている。ここ5年間をとってみても、岩橋英遠、上村松篁、奥田元宋、小倉遊亀、関主税、東山魁夷と、知っている名前だけでもかなりの数に及ぶ。公募展に出掛けても、次第に馴染みのない名前ばかりになっていく。世代交代といえばそれまでだが、私が描き始めた頃にまだ元気に活躍しておられた方が一人また一人と亡くなられるのは、正直言ってさびしい気がする。

 著名画家が亡くなると、新聞の文化欄や日曜版で、回顧的な評論や追悼文が載せられる。たまたまそういう文章を見つけると、私は懐かしくなってついつい読んでしまうのだが、その中でよく語られるのは、画家というのは若い頃の一時期に、後々まで名作と語り伝えられる作品を集中的に生み出している、ということである。個別の画家ごとに具対例を挙げながら述べられているので、読んでいる方は、なるほどそういうものかと妙に納得してしまうのだが、これは誰にでも当てはまる法則なのであろうか。

 確かに、有名画家には、世に見出されていくきっかけとなる出世作というのがあり、それは、他の一般的な作品にはない何か非凡な要素を持っている。そして、その延長線上で描かれた一群の作品は新鮮で、当時の人々の記憶に強く残るであろうことは、想像にかたくない。

 実は、同じ趣旨の文章を、小説の評論でも読んだことがある。小説家も、若い時期の意欲的な作品に、人の心を強く惹き付ける魅力的なものが多い、とその評論は述べていた。若い柔軟な発想で書かれた作品は、既存の殻を破った新しい輝きを持っていて、印象に残るということなのだろう。

 しかし、こうしたステレオタイプな見方には、私自身、少々違和感を覚えるのである。それは、既に「若い時期」を過ぎてしまった私自身のことを非難されているようだというひがみもあるのだが、物事を逆に見れば、画家も小説家も、一旦認められたら出世作の系統に安住し、冒険しなくなってしまうと言っているに過ぎないように見えるからでもある。

 確かに路線を確立した後、安定軌道を進むのは楽である。同じ傾向の作品を描くのは、そう苦しいことではない。手慣れたモチーフに扱い慣れた色合いと技法。ある程度作品を量産することも可能である。そして、出世作として賞賛された作品の延長線上にある限り、そこそこ人気も維持出来るし、買い手も付く。勿論苦労もあろうが、全く新しいものを生み出すリスクや苦しみに比べれば、たいしたことではない。

 私が思うに、この安住路線から再び外れて新しい作品群を生み出せるか否かは、実は年齢的な若さによるものではなく、心の若さ、言い換えれば、チャレンジング精神をいつまで維持していけるかにかかっているように思うのである。多くの場合、自分の系統が確立し大家として祭り上げられてしまうと、それを外れて冒険をしにくくなる。画家の場合は画商が、作家の場合は出版社が、何よりもそうした冒険を望まないという問題もある。そして、プロである限り、生活を維持していくために安定的な収入を得なければならないという事情もある。それは全くもっともなことであり、責めるつもりはない。ただ、年を取ったせいで新しいものを生み出せなくなったわけではないという点は、強調しておきたいのである。

 ゴーギャンが、株式取引の仕事を辞めて画家になったのは35歳のときだったし、タヒチへ出発するのは43歳のときである。カンディンスキーがモネの「積み藁」を見て感銘を受け、モスクワ大学の講師を辞し、画家になるためミュンヘン王立美術学校に入学したとき、彼は既に34歳だった。そして、抽象絵画を生み出し絵画の歴史に全く新しい1ページを開いたのは、それから約10年後である。更に言えば、農家の主婦だったグランマ・モーゼスが絵を始めたのは75歳のとき、初めて個展を開いたのは80歳のときである。新しいことに挑戦し続ける心を持っている限り、年齢の多寡は殆ど意味を持たないのである。




2月26日(木) 「絵の対象を知る」

 先日、書店をうろうろしていた際、絵画制作の技法書のコーナーを覗いてみた。以前、この「パソコン絵画徒然草」に書いたように思うが、私自身は、絵を描くうえであまり技法書を重視していない。私の絵画遍歴は、独学の積み重ねである。絵の先生についたり、技法書をなぞったりして腕を研いて来たわけではない。従って、技法書のコーナーには元来あまり縁がない。

 こちらも暇つぶしなので、平積みにしてある売れ筋の入門書をパラパラとめくってみた。カラーページ主体で構成されており、眺めているうちにうまく描けるような気持ちになるが、現実には、決してそんな簡単な話でないことを、私自身よく承知している。しかし、入門者の気持ちをくすぐるような装丁はさすがで、見ていて感心した。

 そのうち、ふと思い立って、ある本を探し始めた。「ないだろうなぁ」と思いながらも、何となく気になって書棚をあちこち見たが、やはり見当たらない。ないとなると、妙に見てみたくなるのだが、おそらくどの書店に行ってもないような気がした。かれこれ20年以上前の本なのだから、仕方がない。懐かしい思いに駆られながら、書店をあとにした。

 実を言うと、ごく僅かの例外として、私が感心しながら学んだ技法書がある。それは、ハードカバーではなく、ある美術雑誌の別冊シリーズの一つだった。しかも、日本画ではなく油絵向けの本で、樹木を描くという一点に特化した技法書だった。何度も見たので、表紙まで覚えている。家に帰ってインターネットで見てみたら、大手書店のサイトでも「入手不能」のマークが付いていた。

 私がその本から学んだのは、表面的な技法ではない。勿論制作課程も描いてあるから参考になるのだが、それとは別に、木の種類ごとの特徴が簡単に解説してあった。同じ広葉樹でも、種類によってどう枝振りが違うか、葉の付き方はどうかということが、分かりやすく手描きの絵で比較してある。それを見て私は、目からウロコが落ちるような気がした。

 本格的に絵を描き始めたばかりの私には、筆で描き分けるといっても、針葉樹と広葉樹くらいしか区別していなかった。それでも針葉樹は、松と杉くらいは区別して描いたが、広葉樹はおしなべて一括りで、せいぜい葉の色合いを多少変えて変化をつける程度だった。

 枝振りも葉の付き方も異なると言われればその通りであり、改めて森や林に目をやると、同じ広葉樹でもはっきりと違いがあるのが分かる。それくらい理科の授業で習ったといえばそれまでだが、知識として知っているのと、絵を描くときに意識しているのとは、まったく別次元の話である。目を凝らして見ているつもりが、表面的なことばかり追っていて、本質を理解していなかったことに気付いた。見たままを目で追って描くのと、それぞれの樹木が種類ごとにどう違うのかを知って描くのとでは、明らかに筆運びも異なった。それまで目で追って描いていただけの私は、その後、対象物をよく知ったうえで描くという方法に徐々に切り替わった。お蔭で、絵の中の森が生き々々して来た気がした。

 絵を描くのは人間であってカメラではない。カメラは表面的な景色を写すだけだが、人は、見えない部分をも想像しながら見える部分を絵に描くことが出来る。但し、そのためには対象物をよく知らねばならない。私がその技法書から学んだことは、今考えればそんなたわいもないことだが、それは今でも絵を描くうえで、私の大きな財産となっている。




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