パソコン絵画徒然草

== 2月に徒然なるまま考えたこと ==





2月 7日(水) 「古い作品と向き合う」

 以前、日本画家の上村松園のエッセイを読んでいたら、なかなか興味深い話と出くわした。

 上村松園のことはご存知の方も多いだろうが、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家で、女性初の文化勲章受章者でもある。彼女の息子上村松篁、孫上村淳之は、共に有名な日本画家である。松園の代表作である「序の舞」は、絵の好きな方なら誰でも一度は目にしたことがあるはずだ。人物画中心なので、風景画を守備範囲とする私とはちょっと縁遠いところがあるが、それでも松園の引く優美な線には、見るたびに感嘆のため息が出てしまう。

 松園は絵にまつわるエッセイも遺しているのだが、その中に、自分が若い頃に描いた作品にどう接すべきかについて語ったものがあった。内容は、画家のところに若い頃の作品の箱書きが回ってきたとき、作品がつたないあまり箱書きを断るのはけしからんという話である。箱書きというのは、掛け軸などの作品を収納するための木製の箱に、題名や作者名を記すことで、絵を手に入れた収集家が、作品を描いた画家本人に箱書きをしてくれと求めることがある。松園が問題にしたのは、そうした折り、箱書きを求められた作品が若い頃に描いたつたないレベルのものだった場合、「世の中で認められる前の修行時代の絵だから」といって断る画家がいるということである。

 松園の主張は明快である。どんな大家にも修行時代があり、最初はつたない作品から出発して成長していく。つたない絵しか描けなかった時代には、つたないなりに一生懸命努力しているはずで、少しも卑下することはない。むしろ、そうしたつたない時代の作品に目を留めて購入してくれたファンの存在を大切にしないといけない。自分も修行時代の作品の箱書きが回ってくると、当時の苦労など思い出しながら懐かしい気持ちで箱書きに応じている。大要、こういうことを書いていた。

 私は、松園の言うことはもっともだと思うし、さすがに時代を代表する大家らしい見識だと感心したが、同時に箱書きを断った画家の気持ちも分かる気がするのである。

 私自身もそうだが、以前に描いた作品というのは、一旦手放すとイメージが曖昧になる。こんな絵だったと心の中には残っているのだが、実は自分の描画技術が向上するにつれて、心の中のイメージも向上していくのである。現在の自分は対象をこんな感じで描写できる、だから多少技術的に劣っていたとしても過去の作品はこの程度だっただろう、と皆勝手に想像してしまう。しかし現実は残酷で、作品を実際に見てみると、想像していたよりはるかにつたないのである。

 私もこういう経験は何度かある。求められて人に差し上げた作品を、あとになってその家を訪れて向かい合ってみると、こんなだったかなと思うことがある。少なくとも、それを制作した時点ではかなりよく描けたと思っていたもので、だからこそ差し上げたということなのだが、歳月を経て再会するとかなりイメージが違うのである。私の描画力の向上とともに、私の心の中にあった作品のイメージも、勝手にグレードアップしていたのだろう。

 おそらく、松園のエッセイに登場する画家も、この残酷な現実に向き合ったのだと思う。あるとき箱書きの依頼が回って来て、久し振りに自分の若い頃の作品に向き合うはめになる。それはおそらく、今の実力からすると、無残なまでに下手な作品である。現在成功していればいるほど、下積み時代の作品は未完成品に見える。現在名をあげて一定の地位を占めた自分が、それに箱書きしなければならない。それは言い換えれば、今の自分がそのつたない作品を認めるということである。出来ることなら描き直してしまいたいと思うこともあるだろう。しかし、それを世に出したということは、松園の言う通り、その時点では一生懸命努力して制作し、満足のゆく仕上がりだったということになる。不出来だったら失敗作として売りに出さなかったに違いない。絵を描く身としては、いずれの主張、立場も痛いほど分かる気がする。

 私はパソコンで絵を描くようになってから、この痛いほどの現実にいつも向き合っている。パソコン絵画は、自分の所蔵から手放すということはない。作品を人に差し上げるときでも、原版から印刷して額装するだけで、あくまでオリジナルは私のパソコンの中に存在し続ける。そして、描画ソフトを立ち上げ作品を一覧表示するたびに、私は全ての作品と向き合うのである。

 パソコンで描き始めた頃の最初の数作は、この「休日画廊」にも展示されたことのない試作的なものだが、今見ると出来は確かにひどい。何点か代表作を出して下さいと言われても、最後まで選ばれない作品だと思う。しかしそれは、思うようにペンタブレットを操れ、描画ソフトの機能にも慣れて来た今になって初めて言えることで、松園ではないが、その頃としては一生懸命描いていたし、自分なりに満足のいくものだった。ある作品は額に収めて一時期部屋に飾っていたし、またある作品は人に乞われて差し上げた。

 私はそんな残酷な現実を見ているうちに、ある納得の仕方を覚えた。作品というのは、人に乞われて差し上げた後は、もはや作者としてどうかではなく、作品を所有する相手方にとってどういう位置付けを占め続けるかで評価すべきではないかということである。何年も経って後相手方の家を訪れて、それでも自分の作品が壁に飾られていたとすれば、それは、自分の作品が相手の心の中でなお色褪せていないということではないか。私自身は自分なりに腕を磨きレベルを上げたとしても、それは私自身のことであって、作品を所有する相手方にとって、ある意味どうでもいいことである。所有者にとって重要なことは、歳月を経てなお、私の作品が価値あるものとして存在し続けるかどうかである。

 ある人の手元に長らく存在し続けた古い作品と、今現在自分が制作した作品とを比べたときに、相手がどちらに軍配を上げるのかは、実は分からないのである。仮に技術水準の高い現在の作品よりも、その手元の古い作品を相手は愛してくれていて、それに箱書きを求められたら、作者として喜んで応じる。これは当たり前かもしれないし、それこそ画家冥利に尽きるということかもしれない。その作品の技術水準が低かろうが、出来が悪かろうが、そんなことは一切関係ないのである。




2月15日(木) 「冬の日に」

 私の描く風景画は、心の中における想像の産物である。実際の風景の通りに描かれたものはほとんどない。しかし、現実の風景が核にあって、そこから膨らませて構図を練った例はあまたある。従って、そうした絵の題材になり得る風景を探すことは、作品制作のうえで重要なファクターとなる。

 風景を漫然と眺めるのは、ストレス解消につながり私は好きなのだが、何かを探しながら色々な景色を見て回るのもまたいいものである。それは外出の楽しみにもつながる。かくして休日に、ウォーキングも兼ねてふらりと画題探しの小旅行に出掛けることになる。

 今年は暖冬なので、例年に比べると外出は楽なものである。身を切るような冬の北風を堪えながら歩くことはないし、次々に花が咲いて自然の風景が明るい。ただ、そうは言っても冬のことゆえ、絵になる題材などそうそう転がっているものではない。この季節に見るべきものがあるとすれば、街角にせよ公園にせよ、殆ど人のいない風景に出会うことが出来るということだろうか。

 先日、光が丘公園までウォーキングがてら出掛けたときのことである。園内のジョギング・コースを一周し、隅の方を遠回り気味に歩いていたところ、ふと誰もいない一角に出た。そこは、季節のいいときには子供連れや家族で賑わうところで、たいていは小さな子供たちが入り乱れて遊び、弁当をつつく家族の歓声が至るところで聞こえる場所である。

 その日がたまたまそうだったのか、この季節の午前中はいつもそうなのか定かではないが、朝の日を浴びて、辺りが静まり返っていた。私は、余りにもその場所の先入観が強かったせいか、イメージの差に面食らって暫し呆然と立ち尽くした。そして、本当はこんな場所だったのかと改めて思った。

 というのは、人がいないときに見ると、実に感じのいい空間だったからである。多少うねりのある草地の上にまばらに木が生えている。少しひんやりとした空気が漂う中、朝の頼りなげな日が柔らかく降り注いでいた。そこに暫く立っている間、誰も来なかった。ただ、小鳥が何羽かやって来て、地面をつついていた。都会の中でも、季節を選び時間を選べば、こんな贅沢な空間に身を置くことが出来るのかと感慨にふけった。

 私の作品が生まれるのは、こんな瞬間である。まるで神の掲示が天から降り注ぐように、幾つものイメージが去来する。その僅かの間、私は幸福な気分になり、完成した絵のイメージを思い浮かべる。

 大切なのは、如何にしてそのイメージを崩さずに家路に着くかである。あるものは、帰り道の自動車の騒音にかき消されてどこかに行ってしまう。またあるものは、道路脇の店などを外から覗いているうちに忘れてしまう。かくして、ようやく1つ2つのイメージを小脇に抱えて家までたどり着く。だが、テレビを見ながら昼ご飯を食べているうちに、また1つくらいは消えてしまうのである。そうして最後に残ったイメージを大切にしながら、午後にパソコンに向かい作品を制作し始める。

 歩留まりの悪い私の創作活動ではあるが、それでもいいと思っている。三歩進んで二歩下がる程度が、趣味としての絵画制作にはちょうどいいリズムなのである。




2月20日(火) 「解説」

 評論家の手になる絵の解説を読んでいてときどき思う。絵に託した作者の意図が、文章の形できれいに整理できるのなら、いっそ作者自身がきちんと解説を書き加えた方が良いのかもしれないと。評論家の解説が的外れだと揶揄するつもりはないが、その推理が当たっているのかどうか分からないからだ。以前、現役の画家が、自分の作品に対する評論の中に如何に的外れなものが多いかを嘆くエッセイを寄稿していたのを読んだことがある。それならいっそ、作者による制作意図の表明があった方が、鑑賞のよすがになることは確実だ。

 しかし他方で、作者がそんな解説を予め付けること自体、自分が描いた絵では思いがうまく伝わらないことを、作者自身が認めて諦めているようで、何だか敗北主義的だという考え方も出来るだろう。先ほどの例で言えば、作品の意図を評論家が正しく汲み取れなかったのは、評論家の眼力に問題があるのか、画家の力が未熟なのか、どちらとも言えないからである。

 いずれが正しいのか議論のあるところだが、私自身は、それぞれの掲載作品に簡単な解説を付している。個人的には、絵の中に託した感動を、見る人が作品からそのまま汲み取って下さることが理想ではあるが、私の拙い描画技術でそれが可能とも思えないので、鑑賞の一助として駄文を書き加えているのである。

 それでも多少の意地はあって、絵を描くに至った経緯や周辺事情を中心に載せているつもりである。作品にこめた思いの一端は語ることがあるが、全てを説明してしまうことはないようにしている。何を表したいかは、出来るだけ絵の中から察して欲しいからである。でも、もしかしたらこれは、中途半端な敗北主義かもしれない。

 考えてみれば、こうして作品に解説が付けられるのは、ホームページに展示しているからである。画廊だったら作者が一々作品解説など付けないだろう。いや、そもそもつける必要がないのかもしれない。

 画廊だと、作者と鑑賞者が同じ空気を吸っている。画廊につめている限り、面と向かって話をしないまでも、作者には鑑賞者が見えるのである。人々の動きを見ているだけで「あぁこの絵には何か感じてくれているんだな」とか「ちらりと見ただけで終わってしまったな」とか反応が窺える。自分が直接見ていなくとも、代わりにつめていた人があとで伝えてくれることもある。

 だが、ホームページになると作者と鑑賞者が空間的に切断されており、お互いの息遣いが聞こえにくい。「休日画廊」にいったいどれくらいの人が見に来て下さっているのか知らないが、殆どの方を私は存じ上げない。こんなことは画廊展示では考えられないことだ。作者と鑑賞者がかなり離れているわけである。そして、作品を通じて全てを伝えられているのか自信のない私には、鑑賞者が見えないだけに色々と不安がつのる。その距離感を埋めたいがため、わざわざ解説など書いて、何かしら伝えようとしているのかもしれない。

 絵を描くことは元々孤独な作業である。題材に向き合い、感じたことを小さな画面の中に凝縮して表す。しかし、自分が描いたものが意図した通りに理解されるかどうか、常に不安がつきまとう。それを克服するには、ひたすら描き続け腕を磨くしかない。この趣味にゴールがないと感じるのは、そんな点にも原因があるのかもしれない。




2月28日(水) 「挫折」

 挫折は、人を奈落の底に突き落とし立ち直れなくすることもあれば、従来以上に強くすることもある。それは仕事でも、勉強でも同じことである。

 人生の一時期に挫折や失敗を味わい立ち直って来た人を、世間では敬意を込めて「苦労人」と呼ぶ。そう呼ばれている人の生き方には味わいがあり、その言葉には含蓄が漂う。おそらく、大きな失敗もなくスムーズな人生を送って来た人と比べ、過去の道のりの陰影が違うのだろう。谷の深さを知る人間の言葉は、やはり重い。

 趣味の世界にも挫折はある。しかも、意外と打撃は強い。人生の挫折は誰しも予測の範囲内であり、立ち直った人の事例も多数目にするから、やり直しに向けての闘志も湧いて来るだろう。しかし、趣味という、いわば純粋の楽しみの世界での挫折は、たいていの人にとって予想していない事態ではないか。楽しいはずの世界にかげりが生ずると、人は投げやりになったり、バカらしくなって継続を断念することもある。しょせんは趣味の世界であり、楽しくなければ続ける必要はない。替わりの楽しみは、そのうち見つかる。やめたところで生活に支障が生じたり、家族に迷惑をかけたりするわけではない。

 ただ、そうは言っても、1つの趣味を満足のいくところまで全う出来なかったことに対して、忸怩たる思いを抱く人はいるだろう。一旦挫折してやめてしまった趣味を何かのきっかけで再開するということが、一般的なことなのか例外的なことなのかは知らないが、ある程度の時を経たのちに、もう一度気持ちを新たにチャレンジしてみるのもいいのではないか。挫折したところから続きをやるのではなく、その経験を踏まえて新しい取組みとして始めるのである。

 絵の世界で言えば、水彩画で挫折した人は油絵を始めてみるのもいいかもしれないし、静物画で行き詰った人は思い切ってデザインや抽象画に挑戦するのもいいかもしれない。過去の失敗の経験と、それからの歳月が、新たな取組みへのエネルギーとなり、また隠し味として深い余韻を作品に加えてくれるはずである。

 子供の頃絵がヘタで図工の授業が嫌いだった人も、時を経て人生の浮き沈みを味わった後に、改めて趣味として絵を描き始めてもみるのもいいのではないかと思う。描画技術の水準やテクニックにばかり目が行った子供の頃と違って、人生の様々な経験や自分なりに磨いて来た美学が、絵画制作の絶妙な隠し味となって、これまでと違った角度から自分の作品を眺められるようになるだろう。

 テクニックなど、いつから始めても一定の時間が経てば身に付くものである。それよりも味のある絵を描く方が何倍か難しい。だが、人間は浮き沈みを経験しているうちに、そんな味の素になるものを知らず知らずに得ていく。テクニックだけで描く若者より、多少拙いながらも年配者の絵の方が人を惹きつけるのは、そこに年輪のような深い美学が漂っているからだろう。こればかりは、若者にはなかなか身に付かないものなのである。




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