パソコン絵画徒然草

== 3月に徒然なるまま考えたこと ==





3月 2日(水) 「もし…」

 歴史に「もし…」は禁物だと言われるが、話としては面白いので、様々な場面でこの謎掛けが交わされる。一番有名なのは、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら…」というヤツだろうか。シーザーやアントニーなどローマの英雄達を魅了したエジプト女王の美貌に「もし…」を持ち込んだ辺りに、作者であるパスカルの機智を感じるが、日本の歴史でも、この種の話は多々語られる。「もし、織田信長が本能寺の変で死んでいなかったら…」というのは、よく聞く話である。

 私も時々、絵の世界で「もし…」を考えることがある。例を一つ挙げるとすれば、明治時代に来日して日本画の価値を見出し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)設立に尽力したアーネスト・フェノロサがいなかったら、その後の日本画の歴史はどうなっていただろうかということである。

 日本に限らず世界中どこでもそうだが、昔の職業画家というのは、金持ちのパトロンの庇護の下で、何とか生計を立てていた。日本の場合には、幕府御用達とか、藩お抱えといった後ろ盾付きで生活していたのであって、庶民に絵を買ってもらって日々の糧を得ていたわけではない。従って、どんなに才能のある職業画家でも、パトロンに見放されれば路頭に迷うことになる。現に明治維新で幕府が崩壊した後、伝統的な日本絵画の流派は、多かれ少なかれこうした運命に翻弄された。

 東京美術学校の教官候補としてアーネスト・フェノロサに見出されなければ、狩野芳崖だって赤貧の中で息絶えたであろうし、東京美術学校がなければ、語学学校の生徒だった横山大観は、違う道に進んでいたかもしれない。あの西洋化の波が激しく押し寄せる時代、次々に作られた官立の学校は、西洋の進んだ技術を取り入れ普及するためのものだった。しかし、最初に出来た官立の東京美術学校だけは、油絵習得のためではなく、後世に日本画を伝えるために設立され、当初は日本画科しかなかった。これはひとえに、フェノロサの熱意によるものだったと私は思う。

 庶民の目から見れば、幕府お抱えの絵師集団なんて、なくなったところで何の関係もなかったし、明治維新で人々の目が西洋文化に向いていたご時世に、日本の旧支配階層が庇護していた伝統文化を守ろうなんて酔狂なことに賛同してくれる人は、いなかったに違いない。私は、仮にフェノロサが現れなければ、日本画は浮世絵と同じようにすたれたか、ごく一部の狭い世界で誰にも注目されずに細々と生き延びた程度だったのではないかと想像している。

 そもそも日本画というのは、他の絵画に比べて描くのが大変である。油絵なら、好きなサイズのキャンバスを画材店で普通に買えるが、日本画の場合は、自分でドーサ液という滲み止めの薬液を作り、絹や和紙に塗布した上で、木枠に貼らなければならない。絵具も、チューブからパレットに出して筆に付けるというわけにはいかず、まず絵具を自分で作るところから始めなければならない。岩絵具や泥絵具に接着剤替わりの膠液を混ぜるのであるが、この膠液も保存が利かないので、自分でそのつど湯煎して作らないといけない。私も昔日本画を描いていたが、我ながらよくこんなことをやっていたなぁと、今更ながら感心するくらいである。

 幕府お抱えで庶民と接点がなかった日本画。油絵や水彩と比べて圧倒的に描くのに手間がかかる日本画。フェノロサが頑張らなければ、歴史の波に埋もれていたように思う。そして、一度そうやってすたれると、後からその技法を発掘するのは容易なことではない。世界に冠たる浮世絵も、継ぐ者がいなくなった今では、その詳細な製法が分からなくなっているという話を何かで読んだことがある。

 フェノロサのお蔭で救われた日本画だが、フェノロサに当たる人がいなかったために歴史の闇に埋もれてしまった伝統的な日本美術もあったかもしれないと時々思う。我々は、歴史の大きなうねりの中で、改革の波に揉まれると、いともたやすく貴重な伝統を捨ててしまう。フェノロサのような外の人に指摘されない限り、その重要性に気付かないのである。明治維新ほどではないにせよ、時代はまたもや変革のとき。人々の価値観が大きく変わりつつある現代において、新しいものに目を奪われて、本当に重要なものを捨てないよう、我々もよく目を凝らしていかなければと思う。




3月10日(木) 「独創性に潜む罠」

 芸術には独創性が必要だという意見がある。その通りだとは思うが、その独創性という言葉には、曖昧な面がある。そして世間には、それに基づく誤解もある。

 新しいものは常にいいものかというと、必ずしもそうではない。逆に古いものは時代と共にダメになっていくかというと、そうとも言えない。我々の日常生活の中でも、あるいは広く社会を見渡しても、そう思えることは幾つもある。独創性というもっともらしい言葉で語られるものについても同じことが言える。つまり、独創的と言われるものの中には、他の人々の共感を得るようなものもあれば、新しいだけというものもある。

 これは、新しい商品の企画に当てはめて考えれば、誰でも分かることであろう。開発現場には様々なアイデアが湧いては消え、幾多の試作品が作られ、そしてその中から選ばれたものだけが、「全く新しい商品」といった宣伝文句とともに世に出る。しかし、そのうち世間で評価されヒットするのは、ほんの僅かである。新しさという点では、商品段階まで至らず、あるいは世に出してみたがヒットせず消えていった無数のアイデアも、ヒット商品同様、今までにない新しいものだったと言える。ただ、それらは、社内で価値を認められなかったか、世の人々の共感を得られなかったのである。

 現代アートの世界は、様々な独創性が華々しく開花した実験場のようなものであるが、このうち、人々から共感を得て生き残っていくものは、ヒット商品の例と同じく、ごく僅かであろう。現代に限らず、こうした新しい芸術の試みは、いつの時代にもあったのだと思う。しかし、そのうちの僅かしか人々の共感を得られず後世に伝えられていないので、我々がそうした動きについて知ることが出来ないというだけではないか。印象派もフォービズムも、そうして生き残った僅かの例であろうし、今に伝えられることなく歴史に埋もれた新しい芸術への動きは、実際にはごまんとあったに違いない。

 独創性という以上、今までのもの、あるいは一般の人が考え付くようなものとは違った要素がなければならないのは事実だが、違う要素があれば何でもいいのかというと、そういうわけではあるまい。古いものを壊し新しいものを作れば、それは従来のものより必ず改善されたものになるという考えは残念ながら正しくないと、幾多の先例が教えてくれている。しかし、独創性という言葉が過大評価され独り歩きするようになると、従来のものや他の人の発想と異なるものなら何でも価値があるという誤った考えに陥りかねない。これは制作する側にとって、とにかく新しいものを作っていきたいという気持ちばかりが先走りすると陥りがちな発想であるし、時として鑑賞する側も、新しいものをありがたがる世間の風潮に流されて、ついついそうした思考に走りがちである。これは独創性という言葉の響きに、悪い意味で惑わされているのである。

 我々は、他の人と違った発想、従来にはなかったものというだけなら、いくらでも思い付くことが出来る。絵に関しても、物珍しさ、新しさだけでいいのなら、僅かの時間に幾つもアイデアが浮かぶ。問題は、それに自分自身が心から価値を認め、かつ他の人々が共感してくれるかである。それがなければ、幾ら新しくても、単に奇をてらった作品というだけに終わる。

 独創的なものを作っていくことに自己抑制的であってはいけないが、今までと違うものを作ったからといって、それだけで自己満足してはいけない。ましてや、何故人々から認められないのかと嘆いてもいけない。認められないのが当たり前であって、認められることの方がよほどすごいことなのである。




3月16日(水) 「3DCGで学ぶ」

 世の中で「コンピューター・グラフィックス(CG)」というと、大抵の人は、映画の特殊効果などに使われるバーチャル・リアリティーの世界を思い浮かべるに違いない。そこで使われているのは、3次元(3D)のコンピューター・グラフィックス(3DCG)であり、私が絵を描くのに使っている2次元(2D)のコンピューター・グラフィックス(2DCG)とは世界が異なる。

 この「休日画廊」の中でも2DCGと3DCGの違いについて触れている箇所が幾つかあるが、端的に言えば、2DCGは絵の延長線上にあるもの、3DCGは工作の延長上にあるものと、私は割り切っている。我々がよく見る3DCGは写真並みのリアルさを持った絵なのだが、その絵自体は、人間が描くのではなくパソコンが描いてくれる。人間がやらなければならないのは、対象となる物をパソコン上で線や面を組み合わせて作ることである。一旦それを作りさえすれば、どの角度からどういう光を当てたらそれがどう見えるのかは、パソコン自身が計算して1枚の絵に描いてみせてくれる。つまり、絵を描く力は問われず、造形(モデリング)の巧拙が問われる。であるがゆえに、「工作の延長」というわけである。

 さて、その3DCGだが、実は私も3DCGのソフトを持っている。それは、随分昔に買った廉価版のソフトであり、ウン万円もする本格的なものではない。

 実は、私がその3DCGソフトを買ったのは、確たる目的意識があってのことではない。昔何かの雑誌で、映画制作に使われている特殊効果は、1本百万円以上するような3DCGソフトで作られているという記事を読んだことがあるが、店頭で見た3DCGソフトの中に1万円以内で買えて、作品が充分リアルなものがあったためである。自分で3Dの作品が作れるかどうか確信はなかったが、仮に上手くいかなかったとしても、その値段からいって悔やまれることはないだろうと思ったのである。いわば体験料を払った程度の認識であった。

 そんなわけで、興味本位で3DCGソフトをいじり始め、案の定、暫くして行き詰った。私に出来たのは簡単な小物を作るところまでで、雑誌の作例で見かける本格的な3DCGの作品を作るのには、それ相応の練習と忍耐が必要なことが分かった。そして、その修行のために僅かな自由時間を割くくらいなら、パソコン絵画に全力投球しようと決めた。ただ、その過程で思わぬ副産物を得た。

 私は必ずしも3DCGに通じているわけではないので正確でないかもしれないが、普通3DCGの制作は、対象物を作るモデリングと、それに特定の設定を施して2Dの絵を制作するレンダリングという2つの作業に大別される。例えば、粘土細工で人形を作るのがモデリング、それに照明を当てて写真に撮るのがレンダリングというイメージであり、モデリングは人間が、レンダリングはパソコンがやるわけである。

 私はモデリングの途中でつまずいたのであるが、かたやレンダリングの方には、目を見張る要素が多々あった。モデリングした対象物をレンダリングするに当たって、視点や構図、光源の種類や光の当たり方といったものを指定するのであるが、これはマウスでクリックして指定するだけで、操作方法を覚えれば誰でも出来る。後はパソコンが勝手に計算して絵にしてくれるのだが、そうして出来る絵はリアルで写真みたいに見える。私が素晴らしいと思ったのは、その設定の簡単さと自由度である。

 私が買ったソフトの中には、作例として様々な完成作品が収められていた。身の回りの小物から、建物、橋、乗り物といった人工の物、木や草、鳥、動物など自然のアイテムまで、作品が満載されていた。これを1つ1つ取り出して、視点や光の当たり方を変えて絵にしていく。立体のものを、現実には不可能な角度から見たり、様々な方向から光を当てて陰影の付き方を比べたり出来る。絵を描く者にとって、これは実に勉強になった。どの角度から見ればどう見えるのか、どういう方向から光が当たると、陰影がどう出来るのか。これだけのことを、実際の景色を観察して知ろうとすると相当の手間がかかる。それがパソコン上では、ごく短時間で確かめられるのである。

 本格的作品制作を諦めた今でも、時々3DCGソフトを立ち上げて、色々なものをレンダリングしてみる。既存の作品さえあれば自分自身でいちからモデリングする必要はないわけで、私のように入門段階で挫折した者にも充分扱える。ある建物をある角度から見ればどう見えるかは、遠近法の原理によって推測可能であるが、やはり本当の姿を見た方が早い。その点で、絵を描く者にとってこれはなかなか便利な道具ではないかと思うのである。

 デジタル時代が到来して、パソコンで油絵や日本画と同じような絵が描けるようになった。画材が進化するのなら、学び方が進化しても不思議はない。そういう意味で、3DCGソフトで絵の描き方を学ぶのは、新しい時代の1つの学習方法かもしれない。




3月23日(水) 「空を見る」

 絵を描くうえで大切なのは、よく対象を見るということである。この至極単純な教えは、風景画にも静物画にも人物画にも通ずる普遍の鉄則である。昔、学校の美術の先生が面白いことを言っていた。例えば、教室の前に彫刻を置いて、生徒にそれをデッサンしろと言い、自分は教室の後ろから見ている。身体の陰になって生徒が描いている内容は見えないのだが、後ろから皆を見ているだけで、出来の良し悪しが何となく分かるという。何故か。描写力の伸びる生徒は、何度も顔を上げて彫刻の方をじっくり見るからである。

 私が風景画を描くとき、作品自体は自分でイメージを練り上げ描いている場合が多いが、森にせよ山にせよ湖にせよ、元になる自然は、事前にじっくり見ている。それをそのまま絵にすることはなくとも、そこに森があれば、その外観、影の付き方、日が当たったときの色の違いなど、普通の人よりかなり丹念に観察する。そして、これを絵に描くとすれば、どういう描き方でどう表現すればよいのか、頭の中でシミュレーションをしている。おそらく絵を描くのを趣味にしている人は、多かれ少なかれ私と同じような習性を身に着けているはずだ。

 ただ、いつも見ようと思えば見られるはずなのに、意外と見ていないものがある。空である。

 空の表現は、風景画を描くうえで重要な要素の一つである。空は青いというのが常識なので、大抵の人は青と白の絵具を混ぜて水色を作り、空を塗る。その上に白か薄い灰色の絵具で雲を描くこともあるだろう。あるいは、夕暮れの風景を描くために、オレンジ色で空を塗る人もいるかもしれない。しかし、実際の空の色はもっと複雑で微妙なものである。

 時間によっても天気によっても、空の様子は微妙に変わる。真上に近い部分と地平線に近い部分とでも、色は確実に異なる。ただ我々は、その違いを仔細に見分けるほど熱心に空を見上げることはめったにない。風景画を描く人でも、空だけを描く人は殆どいないから、対象となる建物や森、木、川といったものに目を向けがちで、空の観察は二の次になる。これは致し方ないことかもしれないが、私は時々反省している。

 そう言えば、私が小学生の頃は、腕時計というものを持っていなかったので、戸外に遊びに出ると、日が暮れるまで遊び、暗くなりかけた頃、友達と家路を急いだ。それでも、めったに夕食の時間を逃すことがなかったのは、季節により日の傾きがどう違うのかを、経験により知っていたからである。頻繁に空を見上げて微妙な色合いを見分け、時間を測っていた。この季節のこの日の傾き、この空の色なら何時頃だなとおぼろげに分かった。

 何かと空を見上げていたせいか、変化する空の表情には、子供時代の色々な思い出が込められている。水平線に現れた入道雲を見て夕立までの時間を推測し、家に帰るのに必要な時間を見込んで友達と遊びに興じた。運動会の練習中、ひたすらグラウンドに座って出番を待っている間、空を見上げ、夏の雰囲気を残した雲がゆっくりと流れて行くのを眺めていた。秋の夕暮れは早く、日が暮れてから帰っても夕食までには間があることが分かっていたので、目でボールが追えなくなるまでキャッチ・ボールに興じた。今でも空を見上げるたびに、そういう子供時代の思い出の断片がおぼろげに甦ることがある。

 大人になるにつれて、空を見上げる機会が少なくなった。絵を描くのを趣味にしている私にしてからそうなのだから、一般の方々は、忙しい日々の中でじっくり空を見上げることは、めったにないのではないか。いつでも見ることの出来る空を、多忙な生活の中でぼんやりと見上げることは、ある意味時間の浪費であり無駄な行為だが、見方を変えれば贅沢な時間の過ごし方なのかもしれない。我々は大人になって経済的に豊かになったが、子供達のように贅沢に時間を使うことは許されなくなった。しかし、スケジュールに縛られてあくせくと生きる我々だからこそ、ひととき雲の流れていくのをじっくり見る心の余裕が必要なのかもしれない。それは、絵画制作を趣味としているか否か以前の問題である。




3月29日(火) 「町外れの風景」

 私が子供の頃、町外れまで出掛けるのはちょっとした冒険だった。普段は、家の前の路地や近くの児童公園で遊び、広い場所でボール遊びをしたいときは、歩いてすぐの小学校の校庭まで出掛けていた。ただ、休みの日に友達と遊ぶとき、日頃の縄張りを越えて自転車でちょっと遠出をしようかということになると、町外れまで出掛けることが多かった。

 どこの地方都市でもそうだろうが、町並みが途切れる辺りに、少し不思議な空間がある。山・川と市街地との境目、あるいは田や畑などの田園風景が広がる手前の辺り。完全な自然の中というのでもなく、如何にも街中という感じでもない。両者が混ざり合った境界であり、一種の緩衝地帯のようでもある。川の河口に、海の塩水と川の淡水とが交じり合った汽水域というのがあるが、ちょうどそんな感じである。

 私の記憶に残る町外れの境界域には、奇妙な空き地が幾つかあった。人の手が入っているように見えるが、特に何かに使われている様子はない。私有地なのか公有地なのかもはっきりしないことが多く、立ち入っていいものやら迷うのである。しかし、その使途不明の空間には、何となく子供心を引き止め誘い込むような不思議な雰囲気があった。

 私が子供の頃に出掛けていた町外れの一つに、線路脇に広がる空間があった。町の外延部を囲うように走っていた線路をくぐると、田んぼの広がる地域との間に、空き地が続いていた。空き地といっても雑草が生え放題になっており、ボール遊びが出来るわけではない。不法投棄であろうか、所々に大型家電やら何かのガラクタやらが残骸となって転がっていた。線路脇を用水路が流れていて、カエルやザリガニを捕りに行くのが目的だったが、その辺りは市街地と線路で遮られた隠れ家のような場所で、不思議な静けさが漂っていた。

 今から思えば、ああいう場所に子供達が惹きつけられたのは、街中にも自然の中にもない独特の雰囲気があったからではないか。燦々と降り注ぐ太陽の下、自分達以外通る人もいない。時折風が吹くと、伸び放題の雑草がザワザワと音を立てるが、それが止むと静寂が辺りを覆う。草の合間に見え隠れするガラクタが、動物を狩るために仕掛けられた罠のように見えたり、捨てられ赤錆の浮いた冷蔵庫が、口を開けて転がる怪物の首のように見えたりした。そこは、やや非現実的な場所であって、静けさとも侘しさともつかぬ奇妙な空気が流れていた。それは大人には分からぬものかもしれないが、子供心に不思議な電波を放っているかのようで、時として異次元の世界にまぎれ混んだような錯覚を覚えた。

 今でも、あの不思議な場所のことを思い出すことがあるのだが、それは正確な記憶ではなく、どこかピースの欠けたパズルのように、イメージの抜け落ちてしまっている部分がある。あるいは、その記憶の断片が本当に現実のことだったのか、現実の風景に触発されてみた夢の一部だったのか、迷うこともある。

 今住んでいる東京には、こうした町外れがない。行けども行けども街並みが続き、果てることがない。家々のはざまに空き地がないことはないのだが、所詮市街地に囲われた空間に過ぎず、あの奇妙な静寂感を感じることもない。勿論、埼玉、千葉、神奈川とずっと突き進んでいけば、やがて街並みの途切れるところがあるのだろうが、そこはもう東京ではない。考えてみれば、東京というのは特殊な町かもしれない。私は時々、あの町外れの雰囲気が懐かしくなるのだが、それをこの東京で探すのは難しい。

 今になって考えると、あの非日常の場所で感じた静けさや侘しさの幾ばくかが、私の絵に、ある種の影を投げかけているような気がする。それは感傷というようなものではなく、もっと乾いた感覚である。現実の中の非現実、日常の流れの中にポッカリと口を開けたエアポケット、時間の止まった場所・・・。様々に言葉は浮かんで来るが、そのどれも、正確にあの場所の雰囲気を伝えていない。

 今でも帰省するたびに、散歩がてら町外れまで足を伸ばしてしまう。それは、あの頃に感じた不思議な感覚の断片なりとも、もう一度確かめてみたいという気持ちからである。しかし、幾ら歩いてみても、子供の頃に感じたあの感覚は蘇らないのである。当時と今では多少現場の様子が変わったという事情はあるのだが、それだけではあるまい。おそらく、私が大人になって失ってしまった何かが原因なのだろう。人は成長するに従って何かを得、そして何かを失う。私が絵を描きながら探しているのは、その失った何かなのかもしれない。




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