パソコン絵画徒然草

== 3月に徒然なるまま考えたこと ==





3月 6日(火) 「花紀行」

 花の知識が乏しい私がこんな題名で文章を綴るなど、噴飯もののそしりを免れないかもしれない。花の絵はよく描くが、名前や生態にはとんと疎い。見るに見かねてか、女房がクリスマスに「花おりおり」という本をプレゼントしてくれるようになったが、ついに年を重ねて5巻全部が揃うことになった。これをパラパラ紐解きながら「あぁこの花は見たことあるなぁ、○○と言うのか」なんてそのときは勉強した気になるのだが、次に現場で出くわした時には、もうその名前を忘れている始末である。

 そんな私がこういう題名で文章を書こうと思ったのは、今年は花の咲くのが早くて、何だか新鮮な気持ちで花を見られたからである。健康管理を兼ねて週末ごとにウォーキングをやっているのだが、いつもと違うタイミングで花が咲いているものだから、しげしげと見てしまう。そして、何だか季節をタイムスリップしたような気分になるのである。

 もちろん花紀行というほど遠くに旅をしているわけではないが、週末になると方々へ出掛けるものだから、色々なところで花を見る。この前の土曜は、たまたま乗った電車の窓から、線路沿いに咲く菜の花を見た。既に春と言ってもいいような暖かな日差しの下で、気持ち良さそうに揺れていた。

 日曜は、午前中ずっと外を歩き回っていたのだが、行く道々で梅のいい香りが漂って来た。まず香りに気付き、ふと辺りを見渡すと近くで梅が咲いている。香水などない時代の人々は、この香りに魅了されたに違いない。

 また、青い空を背景にまぶしいくらいに白木蓮が咲いていた。白木蓮が咲くと桜もすぐのはずだが、実際今年の開花は早いのかもしれない。桜は、卒業式や入学式のために取っておいてあげたい気がするのだが、果たしてどうなるのだろうか。

 ウォーキングで出掛けた先の公園では、既に蝋梅が終わり、水仙も黄水仙しか見なかった。かわりに、美しく咲くしだれ梅が迎えてくれた。ボケの花も咲いていて、暖かい感じの赤が、如何にも春らしかった。三脚を立てて一生懸命写真を撮っているアマチュア・カメラマンの姿が目に付いた。例年ならこの季節、たいした被写体もないのだろうが、今年はちょっと様子が違う。お蔭で写真家の出足も早いというわけである。

 もう一つ気付いたのは、園内に高齢の方が多かったことである。イベントをやっているわけではなかったが、近くで何か催しものがあったのかもしれない。私はそうした人達に混じりながら、園内をぐるりと一周したのだが、聞くともなしに聞いていると、皆さん実に花に詳しい。地面の小さな花についてまで、これは○○の花だと言って熱心に観察しておられる。今の若者に花の名前を訊いても、ここまで分かるまい。そういう私にも分からないので、「近頃の若者は」なんて非難する資格はない。こうした日常的な知識というのは、世代を越えて受け継がれることのないまま、次第に廃れていくのかもしれない。何より、子供を連れて野を歩き、植物の名前を教える機会など、今やめったにあるものではない。若い世代が花の名前を知らなくとも、無理からぬことなのかもしれない。

 池の近くに来ると、小さな橋の上から女の子が熱心に池を覗いている。傍らにいた母親が、おたまじゃくしはまだよと言っていた。私もつられて池の中を覗いてみると、小さな魚が水面を元気に泳ぎ回っていた。水の色は明らかに春のもので、確かにおたまじゃくしが泳いでいてもおかしくない雰囲気だった。

 いつの間にか春が充満している公園であったが、私は見逃した幾つかのものに気付いた。今年はついぞ椿が咲き誇るのを見なかった。一つ二つは今でも咲いているが、どうにも元気がない。お蔭で、毎年冬になると椿を題材に一枚くらい描いているのだが、今年は機会を失してしまった。次々に春の花が咲くものだから、押されて出番を失ったのかもしれない。

 もう一つ言えば、ナンテンが赤くならないまま春が来た。既に冬が終わろうとしているが、今でもナンテンは青々としている。端のほうにうっすらと赤くなった葉があるが、色が褪せていて美しくない。あのナンテンの赤い実と色付いた葉を見ると、如何にも冬だなぁと感じたものだが、今年はついぞ見かけなかった。

 春が早く来るのは喜ばしいことだが、冬の風物詩を見ないまま季節が過ぎていったことは、少々寂しくもある。早い春は多くのものをもたらしてくれたが、同時に失ったものもあったということだろうか。こうして見ると、自然というのは、いつもプラス・マイナスのバランスが取れていて、最後はキチンと帳尻が合うようになっているのかもしれない。

 椿とナンテンは、また来年楽しむことにしよう。




3月21日(水) 「花粉症」

 今年は早いうちから暖かかったので、休みになるたびにウォーキングを兼ねて方々に出掛けた。2月頃はそうでもなかったが、3月に入ると、スケッチブックを広げ、あるいはキャンバスを立て架け、熱心に絵を描く人を見かけるようになった。風もなくおだやかな日が多いから、外での絵画制作にはもってこいの気候である。一人で描いている人もいるが、どちらかというと、グループで来ている人の方が多いように思う。絵画サークルなどの集まりなのだろうか。

 自分も絵を描くせいか、そばを通ると何となく制作中の絵を見てしまう。描いている人の技量を見たいわけではなく、何をモチーフにして描いているのかが気になるのである。同じような風景を前にしても、描こうとする対象は人それぞれで違って来る。ある人は森の景観を全体的に捉えて描き、またある人は特定の木立だけを狙い打ちにして制作している。池を描いている人がいるかと思うと、その近くの巨木だけを画面一杯に描いている人もいる。こういうモチーフの違いは、風景に対する感じ方の違いによって生じる。人それぞれに個性があり、絵画制作の動機も違う以上、モチーフが千差万別であっても何らおかしくはないのだが、そばで見ている方は、何となく面白いと感じてしまう。

 さて、絵描きにとっては、そんな幸せな季節が巡って来たわけだが、中には折角の気候なのに不幸に見舞われている人もいるのではないか。いわずと知れた花粉症である。

 幸い私は花粉症ではないが、我が家には花粉症患者が2人いる。毎年暖かくなり始めるとクシャミが始まり、目をショボショボさせながら医者通いとなる。この時期暫くは、眼科と耳鼻咽喉科は大繁盛である。

 以前、有名進学校関係者に話を聞いたのだが、ご多分にもれず成績優秀者は医学部を目指すらしい。しかし、みんな真剣に考えて医者を志しているかと言うと、それほど切実な思いがあるわけではなく、頭のいい人は医学部へいくというステレオタイプ式の思考にはまって、医学部を目指す生徒も多いとのことだった。ホントは日本の将来を考えると、技術立国として食っていくために科学技術方面にもっと優秀な人材が行って欲しいのだが、そこまで強制は出来ないので仕方ないと諦めているとのこと。さして志を持たないまま医学部に進学した成績優秀者は、結局楽な道を目指して眼科や耳鼻咽喉科を選択するとも聞く。何のことはない、単に急患がいないという理由からである。そして、そうした人達を経済的に支えているのが、この季節の花粉症というわけである。

 また薬屋や大型スーパーに並ぶ花粉症対策グッズを見ていると、花粉症を巡って一大産業が出来上がっていることに気付く。横目で見ていると、毎年次から次へと新商品が登場するが、いずれも効き目はたいしたことなさそうで、翌年には別の新商品を試すことになる。みんな花粉症は完治しないと諦めているから、効果が上がらなくても大きなクレームには発展しない。そして業界側は、翌年には新しい商品を出して、今度は効きますよと宣伝する。花粉症が続く限り、無限に消費が続く仕組みである。仮に花粉症の特効薬が出来て完治するようなことになると、この時期の消費がガクリと落ちてしまうのではないかと私は推測している。

 春は、眠っていた生命が躍動し全てが輝いて見える季節である。そんな季節に戸外で楽しめないというのは、なんて因果なアレルギーなのだろうと思う。特に、絵を趣味にする人にとってはなんともうらめしいことだろう。

 と言いつつ、花粉症は誰でもある日突然発症する可能性のあるアレルギー反応らしい。私も来年当たり激しくクシャミをしていないとも限らないので、一期一会の気持ちでこの春を楽しみたいと思っている。




3月29日(木) 「情念の花」

 今年は、2月くらいからずっと春だったような気のする、不思議な冬だった。お蔭で、本来の季節を先取りするように、色々な花を早々に見ることが出来た。いつもなら北風に身を縮ませるはずの冬場の散歩も苦にならず、むしろなかなか楽しいものだった。

 だが、早咲きの水仙から始まって色々見てきた花も、やはり春といえば桜が咲かないことにはそれらしくない。3月に入ると梅も終わりかけ、いよいよ桜だなと思ってから実際に咲くまで、少々長く感じた。当初発表の気象庁の開花予想が間違っていたうえ、ちょうどその頃寒気が襲って来て、東京では雪までぱらついたため、お預けをくらったような格好になった。結局、例年よりも早い開花だったが、こちらの期待感が強かったものだから、待つ時間が長く感じられたということだろうか。

 さて、待ちに待った桜であるが、早速この前の休日に、ウォーキングを兼ねて光が丘公園まで見に出掛けた。まだ一、二分咲きといったところだったが、それでも桜が咲いていると人が集まって来る。歩いている人もジョギングしている人も、桜の前で立ち止まってしげしげと眺めたりしている。やはり桜は、日本人にとって特殊な花なのかもしれない。

 残念ながら天気の方はあまり良くなく、午前中から既に曇り空になっていた。空を見上げながらふと思ったが、花曇の日の桜というのは、何がしか幻想的であると同時に、胸騒ぎではないにせよ、何ともいえぬ不思議な気持ちにさせられることがある。

 桜の花が咲く頃は季節の変わり目なので、例年、天気の崩れる日が必ず来る。時として風も強く、春の嵐のようになることもある。天気の崩れる前触れとして、曇り空を背景にさぁーと生暖かい春の風が吹き、はらはらと桜の花びらが舞い乱れる。そんな光景を眺めていると、不気味というわけではないが、何かある意思をもった生命体がそこに静かに控えているような気分になるのである。

 桜が何故あんなに美しい花を咲かせることが出来るかというと、戦国時代などに人が死んだとき、桜の根本に死体を埋めて供養したからとか、墓石代わりに桜の枝を切って添えたものが根付いて大きく育っていったから、なんて怪談じみた話を、昔何かの本で読んだことがある。つまり桜とは、人の生まれ変わりだということを言いたいのだろうが、それが事実ではないにせよ、数ある花の中で、桜というのは何がしか情念のようなものを持った花である気がする。

 それは花自身が情念を持っているというより、我々日本人が長きにわたり桜をいつくしみ褒め称えながら眺めているうちに、人々のそうした思いが桜に乗り移ったということかもしれない。

 例えば、人形を長くかわいがっているうちに持ち主の気持ちが乗り移るなんて話を聞くことがあるが、対象が何であれ深い愛着を注ぎ続けるということは、魂の一部を共有するということなのだろう。桜だって同じことである。多くの日本人に長い間愛され続けた花には、多くの思いと魂とが注ぎ続けられる。そうした気持ちを一身に受けながら、桜は誇らしく咲く。花曇の日には、花の色がかげると同時に、そんな人々の思いの一端がほの見えるのかもしれない。

 こういう話をしていると何やら怪談じみて来るが、よく考えると、春はある意味ちょっと妖しい季節なのである。桜の美しさの本質とは、そんな少し妖しげなところをあわせ持っているところにあるのかもしれない。桜の絵も、晴天の下の明るい姿を描いたものより、どこか幻想的な雰囲気の中に咲く場面を描いたものの方が心に残るが、それは桜が持つこうした性格が反映しているのではなかろうか。

 さて、今週末の散歩がまた楽しみである。桜を眺めつつ、そこに託された人々の思いを静かにかみ締めてみよう。




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