パソコン絵画徒然草

== 4月に徒然なるまま考えたこと ==





4月3日(水) 「写真はスケッチの代用になり得るか」

 写真というのは、どの程度スケッチの代用になるのだろうか。

 私が風景画を描くときは、現実の風景をそっくりそのまま写実的に描いたりしないので、スケッチに頼ることはない。しかし、絵に現実性を持たせるためディテールを描き込む必要が出てきた場合には、何がしかスケッチ的な資料が必要になってくる。現実にはスケッチ・ブックをのんびり広げるわけにはいかないケースが多いので、そういう場合には写真を撮って代用する。

 公園に行くと、アマチュアの(あるいはプロなのかもしれないが)カメラマンの方々が三脚を抱えて右往左往しておられる姿をお見かけする。私は、カメラはど素人で、ズームも何もないバカチョン・カメラしか持っていない。その見劣りするカメラを持って、いかにも高級そうなカメラを構える写真愛好家の傍らで、ディテールを描き込む際に参考にする資料用の写真を撮るのだが、彼らは「一体こいつは何を撮っているのだろう」といぶかっているのではないか、と思う。

 アマチュア・カメラマンの方々が、池に照り映える中の島の風情を撮っておられる傍らで、私は、木の肌合いだの、雑草の生え具合だのを近接撮影している。こちらの撮影目的がわからない彼らからすれば、およそ写すに値するものがあるとは思われない場所をパチパチ撮っている私の行動は、まさに「奇行」である。中には、何か凄い被写体があるのかと、後でわざわざ撮影個所を覗きに来ている方までいる。私にしてみれば、「何気ない自然のたたずまい」がどういう様子かを撮りたいのであって、きれいに手入れされた中の島の風情など、どうでもいいのである。

 しかし、そうして撮った写真が、絵を描くうえでどの程度役に立つかというと、余り頼りにならないケースが多い。私が現場において「絵を描くときの目」で見たディテールが、写真には写っていないことが多いからだ。カメラは、被写体をのっぺりと均質に撮るので「ここ一番」の部分がうまく写り込まないのである。仕方がないので、私は写真を撮る際に、忘れないよう、よくよく自分の目で確かめ、「これを絵にするにはどう描くか」を頭の中でシュミレーションすることにしている。後で写真を見たときに、その記憶が甦って来て助かることが意外に多い。

 例えば、絵にしたいようないい風景に出くわしたとする。それを写真に撮って、後で現像されて来たものを見ると、余りたいした風景には見えない、といった経験はないだろうか。こういうときに、「絵を描くつもりで見る目」と「カメラのレンズ」との違いを思い知るのである。

 結局、私がこれまで得た教訓は、絵を描く際に写真を利用するのは便利なことも多いが、逆に余り過度に期待してはいけないということ、また、写真を頼りにし過ぎると、見た瞬間の感動(すなわち絵を描く原動力)が二の次になりかねないということである。写真はあくまでも、ディテールに迷ったときの参考資料に過ぎない、と覚悟しておいた方がいいかもしれない。




4月5日(金) 「本物はどれだ」

 皆さんが、名画と言われるような絵を見るときは、実際の作品を目の前にするより、まずは画集や雑誌などに掲載された図版でご覧になることの方が多いのではないか。そうして気に入った絵を、展覧会などで実際に見たとき、「あれ、画集で見たのと少々色合いが違うなぁ」と思われた経験はないだろうか。あるいは、画集で見たのと雑誌で掲載されたのとで、同じ絵にもかかわらず印象が違うとか…。

 こういうのは珍しいことではない。例えば、自分で描いた油絵を写真に撮ると、実際の作品と違った感じに現像されてくることがあるが、それと同じである。図版作成や雑誌掲載のために実際の作品を写真撮影する際、撮影条件(特に光の当たり方)やフィルム、現像、焼き付けのコンディションによって、出来た写真の色合いは微妙に異なって来る。どれが本物の作品を一番忠実に再現しているかは、実際に自分の目で実物を見てみるしかない。本物の作品の前に立って「やっぱり本物はいいねぇ」と嘆息する人がいるが、それもあながち嘘ではない。

 しかし、絵画の場合は、実際の作品という唯一無二の本家本元があるから、まだいい。問題はネット上のコンピューター・グラフィックス(CG)である。CGの場合には、どれが本家本元か分からなくなる可能性があるのである。

 「パソコン絵画のすすめ」のQ&Aコーナーでも書いたが、パソコン上で見る写真や図版は、それを見る人のパソコンのモニターやビデオ・カード(及びドライバー)、ブラウザなどによって、かなりの程度色合いなどが異なって来る。例えば、試しに普通のモニターと液晶モニターで同じ絵をご覧になれば、その違いに気付かれるはずだ。この「休日画廊」の絵だって、制作者である私が自分のパソコン上で見ているのと、あなたがあなたのパソコン上で見ているのと、違っている可能性があるのである。この場合、私が自分のパソコン上で描いたそのままを見てもらうためには、閲覧者の方々に、私のパソコンの前まで来てもらうしかない。しかし、それだって、私のパソコンのモニターが壊れて買い換えたりすると、もとの雰囲気は失われる可能性がある(却って、良くなったりして…)。

 結局CGの場合の「実際の絵」あるいは「原画」って、一体何なのだろうか。私の場合は、自分の絵に画印を入れたうえで、色合いを調整しながらプリンターに打ち出し、それを一応「原画」と扱っている。ただ、それを実際に目にすることが出来るのは、我が家に来た人だけであるが…。どのパソコンでも見ることが出来て、何枚でもコピーが取れ、何回も印刷出来るCGであるが、それ故に「作者が意図した通りの本当の絵」がやや曖昧になってしまうというのは、何とも皮肉なことである。




4月10日(水) 「人を芸術に駆り立てるもの」

 中学時代だったか高校時代だったかは忘れたが、サマセット・モームの「月と6ペンス」を読んだ。この小説は名作文学案内の類には必ず登場するので、皆さんも名前はご存知だろうし、実際に読まれた方も多いのではないか。作品の内容もさることながら、モームがこれを執筆したとされるシンガポールのラッフルズ・ホテルも、「東洋の神秘」という形容句と共に有名である。

 絵画制作を趣味にする者にとって、この小説は何がしか心を揺さぶるものがある。未読の方のために申し上げると、ロンドンで活躍する腕利きの株式仲買人だった主人公が、ある日突然画家になろうと決心し、勤務先を辞め家族も捨て、パリに移り住み、貧困の中で一人孤独に絵を描き続ける。やがて彼はタヒチに移り住み、誰にも知られずひっそりと死ぬが、彼のついの住みかとなった小屋の壁には、人の心を揺さぶる傑作が描かれていた、というものである。

 この小説は、ある実在の画家をモデルにしているが、ちょっと絵に興味を持っている人なら、これがゴーギャンだと簡単に分かるだろう。ゴーギャンが、株式仲員人として勤めていたパリの株式取引所を辞めてプロの画家を志すのが30台半ば、タヒチに旅立つのは40台半ばのことである。

 ゴーギャンと一時親交のあったゴッホも、当初、美術商やら書店やらに勤めた挙句に伝道師を目指した。画家になる決心をするのは20台後半である。絵はその後で習い始めている。

 現在東京国立近代美術館で、抽象画の生みの親と言われる表現派の巨匠カンディンスキーの展覧会をやっているが、カンディンスキーは元々モスクワ大学で政治、法律、経済を学び、同大法学部で講師をやっていた。クレーとともに美術学校に通い始めたのは、30台半ばになってからである。

 歴史に名を残した画家の中には、こういう途中転職組が少なからずいる。皆が皆、一流の美術学校を優秀な成績で卒業し有名な公募展で特選を取って画商に認められ、といった画家の王道を歩いて来たわけではない。それぞれ職を持っていた彼らを美術の世界に駆り立てたものは何だったのだろう。また、美術史に名を残すような傑作を彼らに生み出させた原動力とは何だったのだろう。

 ちなみに、サマセット・モームが付けた「月と6ペンス」という奇妙な題名は、「月」が「人間を芸術に駆り立てるもの」、「6ペンス」が「人間の浮世、世俗を象徴するもの」と解説されている。元々東洋で「月」は風雅の象徴だが、西洋では「人の心に作用して狂気を促すもの」と信じられていた。「月」や「月の女神」を表す「Luna」の形容詞形「lunatic」は「気が狂った、常軌を逸した」の意味であるし、満月になると変身する狼男の伝説も、こうした迷信を下敷きにしている。思えば、モームも意味深な題名を付けたものである。

 狂気に駆り立てられることなく平々凡々と絵を描く我が身は、幸せなのか不幸なのか、ちょっと考えさせられる。




4月11日(木) 「タブレット考」

 タブレットは、私が絵を描くに当たってなくてはならない道具である。仮に、マウスしか使えないのなら、パソコンで絵なんか描いていられないと思う。

 お絵描きソフトには様々な種類のものがあり、機能も価格も色々だが、タブレットにはそういう意味での多様性がない。極めて単純な道具であり、製造元も限られている。しかし、そんな単純な道具であっても、こういうふうにならないか、と思う改善要望点はある。

 何とかならないかと思う第一の点は、目はモニター画面を追いながら、手はタブレット上を動かさなければならないという違和感である。パソコンで絵を描こうとする人は、まずここで戸惑う。油絵や水彩画を描いていた人は、なお更である。かく言う私も最初は感覚がつかめず、線一本引くのも思い通りにならないことが多かった。今ではすっかり慣れたが、それでも微妙なラインを描くときには失敗することがある。

 とは言うものの、この点については既に改善モデルが出ている。タブレットの読取面が液晶モニターになっていて画面上に直接入力ペンで描けるタイプのタブレットが売り出されているのである。しかし、如何せん高い。これを買う気になるのは、プロの方か、よほどパソコンで絵を描くのに思い入れがある方ではないだろうか。もっと、安くならないかと切に願っている。

 もう1つ何とかならないかと思うのが、筆感である。タブレットは、プラスチックのペン先でプラスチックの読取面に描いていくので、手に伝わる感触がかなり硬い。

 油絵や水彩画を描いている人なら、筆先の感触を楽しむというのは、絵画制作の重要な要素の1つだと感じておられるだろう。硬い毛の筆にたっぷりと油絵具をつけて、荒いタッチで色を置いていくときのザワザワとした感触、あるいは筆先をいかしながら細かいタッチで細部を塗っていくときのしなやかな感じ。他にも、鉛筆でデッサンする時の柔らかい感触、ペン画を描くときのカリカリとした感じ、どれも大切な要素であり、絵を描くうえでの楽しみである。丁度、ものを食べる時に、味だけが大切ではなく、舌触りや噛んだときの感触がおいしさの重要な要素になっているのと同じである。

 こうした観点から見れば、タブレットは「味だけの食事」にとどまっていて、描く感触を楽しむ域には達していない。筆や鉛筆、パステルのような感触が手に伝わるようにするというのは、かなり難しい注文かもしれないが、せめて、あの「ガラスの上でボールペンを走らせる」ような筆感を、もう少し柔らかめに改善してもらえないだろうかと思う。ただ、改良版が出ても、余りに値段が高いと、こちらも手が出ないのであるが…。




4月17日(水) 「自然に描く」

 風景画や静物画を描いていてつくづく感じるのは、「自然な感じに描く」という、ごく当たり前のことが、いざやってみると中々難しいということである。空を自然な感じで描く、森のたたずまいを自然のままに描く、いずれも「言うは易く行うは難し」である。

 例えば風景画の場合、今まで全く見たこともないものをいきなり描く、というケースはまれである。空、木、森、山、川、海、いずれも生まれてこのかた、数え切れないほど見てきた。いや、毎日のように見ているものもある。しかし、紙やキャンバス、あるいはパソコン画面の前に座り、いざ描こうとすると、中々思うようなイメージで描けない。いつも作品を仕上げた後に、何がしかの後悔が残り、それが次の作品制作への原動力につながっていく。

 自然の色は派手さがないかわりに、非常にデリケートで、その色合いも微妙である。12色や24色の絵具、色鉛筆、クレヨンをそのまま使って再現できる自然の色というのは、原色の花びらくらいしかないのではないかと思う。しかしそれさえも、光の当たり方次第では、べったりと単色を塗って済ませるわけにはいかなくなる。葉っぱ1つ取っても、表面の色合いは一様ではない。葉の先端と茎に近い部分での色の違い、葉脈に沿った色合いの微妙な変化は、忠実に再現しようとすると意外と難しいものである。

 そんなことを考えながら絵を描いていると、自然の造形の美しさを実感することが多い。人間は、モノ作りの歴史の中で、美しさを追求して様々なデザインを考案して来たが、先人達のたゆまぬ努力をもってしても、自然の造形の美しさを超えることは容易ではないようだ。斬新なデザインの建造物、独特の風合いを持つ家具など、デザイナーはまさに「見せる」ために知恵を絞って、様々な工夫を凝らすが、ありふれた自然の造形にすらかなわないことがある。自然の風合いを盛り込んだデザインも、本物の自然が持つ美しさに比べると見劣りしたりするものである。

 若干の例外はあるものの、自然は誰かに「見せる」ために作られたものではない。虫や鳥を呼び集めるために工夫を凝らした花の色や形、メスを惹きつけるために飾った動物のオスの姿形などは、「見せる」ことを意識したものだが、いずれも生殖に関係した、ごく例外的存在である。空、山、川、海などといった自然の有り様は、ただ自然の法則に従って、そういう形に造られたに過ぎない。その自然の法則には、本来「美しさ」や「見栄え」の追求といった要素はない。なのに、何故我々はそれを「美しい」と感じるのだろうか。思えば不思議なことである。

 そうした自然が持つ美しさに魅せられて絵を描いていく限り、描き飽きるということはない。「自然に描く」という難しい課題に挑戦しながら、自然の持つ美しさを探求していくというのは、とても幸せな趣味かもしれない、と時々思うのである。




4月18日(木) 「作品批評」

 大学の頃、美術部に在籍していた。日頃は各人バラバラに絵を描いていることが多かったが、部としてのまとまった活動ということでは、街中の画廊を借りて定期的に部展を開催していた。強制ではないが、半ば義務感に駆られて作品を出すことになる。大学の美術部の部展など見に来る人も少ないが、大学の美術部同士の交流もあり、他大学の人が挨拶がてら来てくれる。今はどうなっているか知らないが、当時はそうして来てくれた人をつかまえて、自分の絵に対する批評を頼んだ。逆にこちらが他大学の部展に行ったときには、批評を頼まれた。そして、部展の最終日には部員一同集まり、各人が自分の作品の意図、工夫、思うように描けなかった部分などを説明し、他の部員が口々に批評を寄せる、締めくくりの講評を行っていた。

 作者を前にして批評するのは、結構鍛えられるし、勉強になる。自分とは画題や作風が全く違う絵を前にして、自分がこの絵を描くならどうするかということをよく考えたうえでコメントしないと、的外れな批評になりかねない。だから、何故この主題を選んだのか、何を表したくて描いたのか、などを作者に訊くことになり、人の制作態度がよく分かる。また、自分で描くならどう描くかを考えることは、頭の中で様々な画題や画風に挑戦することになり、勉強になるし、時として新しい試みへのヒントになったりもする。

 さすがに最近では画廊回りをすることはなくなったが、一度ふと思い立ってインターネット上の投稿サイトで人の作品にコメントを入れたことがある。なんだか学生時代に戻った気がして、これが結構面白い。人の作品を見ながら自分ならどう描くのかを考えていると、色々なイメージが頭に浮かんで来て、いいトレーニングになる。また、自分の作品に対する人のコメントを読むのも勉強になる。人によって絵を見る視点や感じ方は様々であり、自分の絵が人からどう受け止められているのかが分かって興味深い。何より、自分の制作態度が一人よがりにならないのがいい。最近では、こうしたネット上の評論活動はとんとご無沙汰しているが、また時間的な余裕が出来たらやってみたいと思う。

 プロの作品は別にして、アマチュアが描いた絵には、良く描けている部分と、改善や工夫の余地のある部分が同居しているケースが多い。私自身も絵を描きながら、こういう点はもう少し勉強の余地があるなぁと思うところが、各作品ごとにある。他人の作品を批評する場合、そういった改善点について、自分なりの意見やアイデアを述べるというのが一般的だが、本当は、その人が持っている良い部分を的確に評価することの方が大切な気がする。これは、ただ単に作品を褒めるということではなく、各人の持ち味、あるいは良い意味での個性を指摘し、その部分を更に発展させるよう、アドバイスするということである。

 ただ、「良い芽を伸ばす」ようなコメントは、いざやろうとすると中々難しい。これは、ややプロの評論の世界に近い、レベルの高い領域ではないか、と私は思っている。それなりの鑑定眼を磨かないと、自信を持ってコメント出来ないものである。そういう意味でも、他人の作品を批評することは、絵を描く者を鍛えることになるのである。




4月23日(火) 「ころばぬ先の杖」

 パソコンで絵を描く前は、専ら絵具で描いていた。しかし、そうして描いた作品で、我が家に残っているのはほんの僅かである。多くは人にあげたり、売ったりしてしまった。家の壁面は無限ではない。実際に壁に掛けて飾れるのは数枚だし、しまっておくといっても、一般の家庭では収納スペースもそうあるわけではない。手元に置き切れず誰かの手に渡るというのは、趣味で描いた絵がたどる共通の運命だろうか。

 パソコンで描いた絵というのはその点面白い。CD-Rに焼き込んだり、ハードディスク容量を増やし続ける限り、ほぼ無限に保存可能である。CD-Rなら1枚で600MB強の保存容量があるし、最近流行のDVD-R,RW,RAMなら1枚で数GBまで保存可能である。また、今のパソコンは20〜30GBのハードディスクを標準で装備しているし、素人でも比較的簡単に増設可能である。内蔵型のハードディスクなら、秋葉原で1万円少々出せば、20〜40GB程度のものが買える。パソコン絵画の保存という観点からすれば、これだけの保存手段と保存容量があれば、何の問題もない。

 例えば、1枚の絵が平均1MBの容量であるとすると、1GBは約1000MBだから、仮に10GBのハードディスクの空きがあれば、1万枚の絵が保存可能である。たとえ1日1枚描き続けても、10GB分の絵を描くには、約27年かかる。1週間に1枚のペースであれば、200年弱かかる。収納スペースとしては、一生持つと考えていいだろう。

 ただ問題は、ハードディスクがクラッシュすると、それまで制作した全ての作品が一瞬で失われてしまうということだ。この種の悲劇は、絵具で絵を描いている場合にはまず起こり得ないが、パソコンで絵を描いている場合には、可能性が低いとは言え、誰にでも生じ得る。WindowsなどのOSそのものの不具合で起動しなくなった程度なら、絵を保存しているフォルダー自体は生きている可能性が高いので、復旧の手段はある。しかし、回線焼き切れなどでハードディスクが物理的に壊れた場合には、どうしようもない。そういう悲劇を避けるためには、CD-Rに焼き込んで作品を保存するとか、もう1つハードディスクを取り付けて、両方のハードディスクに二重に作品を保存するなど、何らかのバックアップ措置を講じておくしかない。「ころばぬ先の杖」である。

 しかし、趣味で絵を描いている者は、何らかの事故で過去の作品が無くなっても、絵を描くのをやめることはあるまい。かなり落胆するかもしれないが、また思い直して描き始めるのである。絵の技量というのは、過去の作品に安住している限り、中々伸びないものである。常に新しい境地を目指して果敢に挑むことが大切である。そういう意味では、ハードディスクのクラッシュも、神が与え給うた1つの契機として、前向きに受け止めるくらいの度量が必要かもしれない。




4月25日(木) 「道」

 先週末出張で米国に行っていたが、往復の飛行機の中で退屈しのぎに何本か映画を見た。今の飛行機は、座席に取り付けられた液晶モニターで各人が好きな映画を見られるので、大変便利である。見た中の一本に、中国映画で「初恋のきた道」というのがあった。英語の原題は「The Road Home(家路)」なので、いかにも邦題はセンチメンタルだが、1950〜60年代の田舎の村を舞台にした純朴な恋愛物語であり、第50回ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した佳作である。

 辺境の小さな村に初めて学校が出来ることになり、そこで教えるために町から赴任して来た教師と、村の娘の恋愛物語が淡々と語られるのだが、愛の告白や恋人同士の抱擁などといった恋愛映画の定番場面は全くない。物語は、二人のぎこちないやり取りや、何気ないエピソードを組み合わせて進むが、それでいてしみじみと心に響く演出は見事というしかない。この演出を助けている道具立ての1つに、題名にも出てくる「道」があるのではないかと、私は思った。

 その辺境の村には、町に続く一本の道があり、それが草原の中をうねるように続いている。この辺りの風景の捉え方は見事であり、主人公の2人が出会い、分かれ、再会するという物語の節目ごとに、四季折々の道のたたずまいが画面に描かれる。主人公2人の思い出の中に繰り返し出て来るこの道は、2人の人生そのものである。

 この草原に続く道の情景はどこかで見たことがあるなぁと思いながら映画を見ていて、はたと気付いた。私がよく描く風景画の雰囲気と似ている。日頃想像で描いている世界が現実に広がっているさまに、暫し見とれた。その後は、「この風景を絵にするなら、むしろこういう構図の方がいいなぁ」という感じで、スケッチブックを広げているような気分で見てしまった。

 映画においてもそうかもしれないが、絵に描かれた道というのは、単に目の前にある道という以上の隠喩を含んでいることが多い。時としてそれは、画面には見えないがその道の向こうにある何かを想像させるものであったり、人生における道のりを暗示するものであったりする。私は絵の中に道を描くのが好きだが、それは単に画面のバランスを取るために描き込んでいるのではなく、ある種の思いを込めているわけである。

 絵を見る人は、知らず知らずのうちに、そこに描かれた道をたどる。心は画面の中に入り込んで、その道にたたずんでいるのである。そのとき、絵は、見る人自身のものになる。そうなるように、私は風景画に人物を一切描き入れない。点景としての人物は、風景画の構図取りや色バランス上、中々便利な道具であり、時として描き込みたい誘惑に駆られることもあるが、そこは我慢している。

 絵の中に描かれた一本の道の先に何があるのか、誰も知らない。それは見る人自身が決めることである。その絵を描いたのは私だが、その道の先にあるものが何なのかを描くのは、見る人自身の心なのである。




4月26日(金) 「画面にないものを描く」

 アンドリュー・ワイエスというアメリカの画家の名前と作品に初めて出会ったのは、かれこれ30年近く前のことである。当時子供だった私は、美術関係の小冊子に載っていたワイエスの作品の白黒写真を見て、それまで見たどの絵とも違う不思議な印象を受けた。その後、彼の作品を実際に目にしたのは、大学時代、京都市立美術館でのことである。ある外国人美術収集家のコレクション展があって、招待券を貰ったので足を運んだ。そのコレクションの中にワイエスの作品が数点あった。一体これはどうやって描いてあるのだろうと思った。

 当時ワイエスは、日本で余り知られていない画家で、彼の作品集は洋書しかなかった。私は、梶井基次郎の「檸檬」で主人公がレモンを置いて立ち去ったことで有名な「丸善」まで出かけて行って、その画集を見つけた。画集の中には、日本で未だ紹介されていない作品が並んでおり、その中の1枚に「Wind from the Sea (海からの風)」というのがあった。一目見て、これはすごいと思った。

 その絵は、質素な住宅の室内の情景を描いたもので、画面の殆どを窓が占めている。その窓は開け放たれ、外から吹き込む風にレースのカーテンが舞い上がっている。窓の外に見えるのは森だけ。どこにも海は描かれていないのに、私はその風の中にかすかに潮の香りを嗅ぎ、森の向こうの海を思い浮かべた。ワイエスの夏の別荘が米国のメイン州にあることを、画集の解説を読んで知った。メイン州は、米国東海岸沿いの一番北に位置し、夏の避暑地とロブスターで有名なところである。それを読んで、私は当時まだ見たことのなかった大西洋を思った。

 この絵に限らず、絵と題名の関係は非常に重要である。題名をうまく工夫し絵と連携させられれば、絵に描かれていないものまでも、見る人に伝えることが出来る。そうした隠し味のような要素があると、絵のかもし出すイメージは、見ている人の心の中で大きく広がっていく。だから、「風景T」みたいな題名が付けられている作品を見ると、もったいないことをしているなぁと思ったりする。但し、「そういう自分はどうなんだ」と言われると、こちらも、気の利いた題名を付けるのは苦手なので、自らの題名を反省することになる。

 おそらくワイエスは、絵を描く前に、海から吹いてくる風を画題に選び、それをどう描くのか考えたのだろう。その時点で、題名と構図の組合せを決め、それを踏まえて描き始めたに違いない。きちんと計算された緻密な戦略に従い、見る人は、海の描かれていない絵の中に海を感じるのである。私のように、最初に感ずるままに絵を描き上げて、それから題名を考えるのに呻吟しているようでは、こういう総合戦略は取れない。

 こういうプロの技量を見るにつけ、質の高い作品を生み出すには、ただ単に絵を描くのがうまいだけではダメだとつくづく思う。どういう主題を選び、それを見るものにどう伝えるのかは、絵の描画力だけでなく、総合的な戦略が求められる。プロとアマチュアの違いは、そういうところにも現れるものだと実感させられるのである。




4月29日(月) 「覚え描き」

 私は、自分の想像で風景画を描くことが多いのだが、「そういう絵の構想はどういうときに思いつくのですか」と以前訊かれたことがある。これは答えるのが難しい。ただ1つ言えることは、スケッチブックやキャンバス、はたまたパソコン画面の前で腕を組んで座っていても、何も思い浮かばないということである。

 絵は、一定の公式や計算に沿って生み出されるわけではない。常道というものもない。もちろん、定型パターンで構図を作って無理に絵を描くことは出来るが、そうした絵は、器用ではあっても、心が通っていないというか、何か響いてくるものがない。うまいがつまらない絵というのがあるが、そんな雰囲気になりかねない。

 では、どういうときに絵の構想を思いつくのか。実は、他愛もないありふれたときである。仕事の合間にふと窓の外の青空を見上げたとき、あるいは、休みの日に近くの公園を散歩しているとき、あるいは、落ち着いた気分でコーヒーを飲んでいるとき、そういう何気ない日常のある瞬間に、おぼろげなイメージが湧き上がって来る。それは明確な構図や色を伴っていないことも多いが、とにもかくにも絵の原型のようなものである。

 しかし、問題はその後である。私の場合、そうして思い浮かんだイメージを、絵を描く前に忘れてしまうおそれがあるのである。

 かなり明確なイメージを伴って思い浮かんだ場合には、中々忘れないが、あたかも何かのヒントのようにイメージのかけらがひらめいただけだと、翌日にはそのイメージが煙のように消えていることがある。朝起きた瞬間には覚えていた夢の内容が、朝食後には思い出せないのと似ている。そうならないようにするには、忘れないうちにすぐ絵として描き止めておくしかない。これは、絵具を使った絵だと、平日働いている身にとって「言うは易く、行うは難し」だが、パソコン絵画だと簡単なのである。夜家に帰ってからパソコンを起動させ、取りあえずイメージだけざっと描いておけばよい。概略分かる程度でよければ、30分あれば大体描ける。

 パソコンだと描き足しや修正は、後で幾らでも効く。多少変形させたり、位置を直したりすることも出来る。また、その後長い間放置しておいても全く劣化しない。まるで手帳にメモを取るように、気軽にイメージを残しておけるのである。まさに、覚書ならぬ「覚え描き」である。思い浮かんだのがイメージのかけらのようなものであっても、それだけ取りあえず描いておいて、後で背景などを肉付けしていくことが可能である。こういう芸当が出来るのは、やはりパソコン絵画の特権ではないかと私は思っている。皆さんも思い当たる節があれば、お試しあれ。




目次ページに戻る 先頭ページに戻る


(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.