パソコン絵画徒然草

== 4月に徒然なるまま考えたこと ==





4月 8日(木) 「頑張れ、ニッポン絵画!」

 私が日本画を描き始めた頃、日本画壇には「三山」とか「五山」といった言葉があった。東山魁夷(日展)、杉山寧(日展)、高山辰雄(日展)、平山郁夫(院展)、加山又造(創画会)の各氏を組み合わせた表現である。いずれも、仰ぎ見るような巨匠であり、国内の人気もかなり根強いものがある。特に、東山魁夷氏は「国民画家」と親しまれ、先月まで横浜で開かれていた回顧展では、一日の入場者数が1万人を超える日もあったと聞く。

 しかし、私は海外で寂しい思いに駆られたことが何度かある。海外の大きな美術館に行くと、日本の美術のコーナーが設けられており、浮世絵のコレクションや水墨画、仏像などがずらりと並べられている。しかし、現代絵画のセクションには、日本の画家の作品はない。海外で日本の画家というと、いつまでも歌麿・写楽・北斎なのである。

 確かに、浮世絵が近代の西洋絵画に与えた影響は絶大なものがある。西洋絵画史をひも解くと、必ずと言っていいほど、その話が出て来る。日本がまだ鎖国していた時代なのに、僅かに流出した浮世絵は、当時の欧州に新風を吹き込んだ。浮世絵と印象派の画家との結びつきは特に有名で、浮世絵を背景に描き込んだ作品や、浮世絵の構図をそのまま取り入れたと思われる有名画家の作品もある。

 そんな刺激的な要素を持っていた日本絵画だが、戦後は、絵画史に名を残す傑作として世界で認知された作品はないように思う。勿論、現代の日本画の作品を集めて行われた海外での展覧会が、大入り満員の盛況だったという話は何度か聞いたことがある。しかし、めでたく海外の有名美術館に殿堂入りした作家は、一体どれくらいいるのだろうか。

 私が米国にいた頃、日本のアニメやゲームの将来性について話を聞いたことはあったが、絵画については記憶がない。携帯ゲーム機は「ニンテンドー」と言えばアメリカ人に通じたし、ポケモンはゲーム、アニメとも米国で大ヒットした。「千と千尋の物語」などスタジオジブリのアニメ作品も好評と聞く。アニメに限らず、日本映画の評価は高い。世界三大映画祭やアカデミー賞でも、日本映画が話題に上ることが多い。黒澤明監督の遺産ということではなく、注目される若手監督が育っているということだろう。

 私は音楽の世界についてそう詳しいわけではないが、海外で評価の高い音楽家も沢山いる。私が住んでいたニューヨークには、バイオリストの五島みどり氏がいたし、ボストンには、指揮者だった小澤征爾氏がいた。両者とも米国だけでなく、世界的に名の通った音楽家だった。クラッシックの世界だけでなく、例えば、「ラストエンペラー」のテーマ曲を作った坂本龍一氏など、それなりに知られていたように思う。

 「それに比べ…」と嘆くつもりはないが、どうして絵画の分野は世界進出が遅れているのだろうか。日本人なら、東山魁夷の作品とポケモンとが並ぶと、東山作品の方が遥かに芸術的に高い位置にあると思うのだろうが、残念ながら海外では、ポケモンの方しか知られていないのである。日本の芸術分野の中で絵画部門だけが劣っているわけではあるまい。「頑張れ、ニッポン絵画!」と思うのは、私だけではないはずである。




4月14日(水) 「成功モデル」

 4月になって気温も上昇し、本格的に暖かくなったが、報道によれば景気もゆるやかに上向いているらしい。確かに新聞などに載っている各種の経済指標は、日本経済の着実な回復を示唆している。しかし、失業率は依然高水準で、学校を出ても定職に就かない若者が多いというニュースを聞く。

 そういった世代の若者が身近にいない私には、就職戦線の実態はよく分からない。就職できないのか、就職する気がないのか。就職できないとすれば、その理由は、新卒の採用に消極的な企業の側にあるのか、応募する若者の姿勢にあるのか。最初から定職に就く気のないモラトリアムな若者が結構いるという話を聞くし、「今の若者を金出して一生雇い続ける気なんかさらさらない」と批判する経営者も多いらしい。ただ片方で、自分が何をなすべきかを真剣に悩み続ける若者も沢山いると聞く。どちらかが正しいということではなく、いずれも少しずつ真実を含んでいるのであろう。

 そうした若者の就職戦線において、私が確実に言えると思うことは、昔のように、典型的な成功モデルがなくなったということである。私が就職した頃は、一生懸命勉強して一流大学に入り、卒業したら有名大企業に就職して一生をそこで過ごすという、誰しもそこに乗れば一生安泰で暮らせる成功モデルがあった。そのレールに乗るのは容易ではなかったが、あらかじめモデルは用意されているから、人生を安泰に過ごしたければ、何も考えず、ただそこに向かって懸命に努力すれば良かった。

 しかし今や、その種の成功モデルは見当たらなくなった。いつまでも経営基盤が磐石な企業などないことは誰の目にも明らかになったし、終身雇用というモデルも事実上崩壊している。現役の社会人達がリストラだの転職だのに右往左往して将来のモデルを組み立てられない中で、これから社会人になる若者に自分なりの成功モデルを描いてみろと言っても、無理な話であろう。かくして若者達の多くは、どこにどう進んでいけばいいのか分からず、自分の生きる道を模索しているということではないか。

 ただ、絵の世界には、依然成功モデルが生き残っているように思う。芸大・美大に入るために腕を研き、入学すれば今度は有名な公募展への入選を目指す。そのうちどこかの公募展の団体に属し、いずれ何かの特別賞を貰い、政府買い上げになり、画商の目にも留まる。デパートや有名な画廊で個展を開き、美術年鑑での号当たりの単価も上がる。日本画家なら、そのうちどこかの有名寺社から障壁画の制作依頼が来て、通常の制作を休んで大作に取り組む(笑)。現代の著名画家の多くは、おそらくこの成功モデルから大きく外れていないはずである。

 しかし、成功モデルがあった方がいいのかどうか、私にはよく分からない。あれば最初から目標が設定されるから、道筋に悩むことはない。しかし、皆、王道を歩もうとし、他のルートや他のゴールは注目されなくなる。そのうち、誰もがマニュアル化して金太郎飴状態になり、活力が失われる。

 前回の「徒然草」で、私は、中々世界にはばたけない日本の美術界のことを書いたが、実は、この奇妙に居心地のいい成功モデルが、何がしか邪魔をしているのではないかと、内心疑っている。これまで美術史を塗り替えて来た天才画家の多くは、当時の典型的成功モデルから誕生していない。

 クールベ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン等々。皆、絵の在り方に苦悩し、自分の作品と格闘し、世間の非難・嘲笑と戦った。その姿は、今、自分の生き方に悩む日本の若者達と同じだったのではないだろうか。




4月20日(火) 「初期作品の撤去に当たって」

 前々からホームページの容量制限のことが気になっていたが、最近になっていよいよ残り容量が少なくなって来たのに気付き、この際、思い切って初期の作品を展示室から削除した。

 パソコンで絵を描き始めた頃は毎日が手探りの状態で、その試行錯誤の跡が初期の作品には現れている。技術的な稚拙さや、描き方が確立していないがゆえに出て来る時々の迷いなどが様々な個所に読み取れ、私自身にとっても思い出深い作品が多いのだが、新しい作品を展示し続けるためには致し方ないことと割り切った次第である。

 油絵や日本画の場合、長い間絵を描き続けていると、作品はドンドン溜まり、やがて置き場がなくなる。しかし、パソコンで描く場合は、原画の保存スペースなど幾らでもあるから、何百枚描いても問題なかろうと思っていたが、インターネット上の展示スペースはそういうわけにはいかない。原画自体を破棄するわけではないので何かを失うわけではないのだが、パソコンで絵を描き始めたばかりの人に、「私も最初はこんなに苦しんだ」という意味で、見てもらいたい作品があったことは事実である。

 初期作品を撤去したこの機に、覚え書き的に、描き始めの頃の思いを記しておきたい。それは、パソコンで描くための最初の関門についての話である。

 当たり前のことだが、パソコンは絵を描くために作られた道具ではない。これは、絵具や筆やキャンバスが、まさに絵を描くために作られた道具、すなわち画材であるのと決定的に異なっている。通常の画材が、絵を描く人に便利なように、メーカー側によって様々な創意工夫が凝らされているのと異なり、パソコンの場合には、絵を描くための配慮は一切なされていない。いや、正確に言えば、絵を描くなんて予定されていないのである。ゆえに、パソコンで絵を描くというのは、そもそも出発点において無理があると考えなければならない。そこのところを肝に銘じておかないと、最初の段階で勘違いをしてしまう。その無理を克服するためには、パソコン・メーカー側の改善を待っていてもどうにもならないわけで、描く本人がそれなりの努力をしなければならない。そして、この「描く本人の努力」は、各人がパソコンで描くことに慣れることで克服されていくしかない。

 誰しもそうだが、パソコンで描き始めると、すぐに壁に突き当たる。手をタブレットの上で動かしながら、目は画面を追うという不可思議な感覚。マウスを使って描くとなると、線一本引くことすら苦労する。筆の穂先の軟らかい感覚はなく、ガラスの表面にボールペンで書くような硬い感触。色は濃淡なく均一に塗布される。それらの全ては、絵具と筆で描いていた人にとって、まるで経験のない未知の感覚である。

 おそらく、かなりの人がこの最初の関門で諦めてしまうのではないかと、私は危惧している。パソコンで描くなんて器用なことは私には向いていないのではないかという漠然とした不安に駆られて、それ以上前に進まなくなる可能性は、誰の場合にもある。しかし、それは、あなたが向いていないのではなく、パソコンが絵を描くために向いていないというだけのことである。

 要するに、この違和感を克服して慣れさえすれば新しいステージが開けるわけで、最初からパソコンですらすら絵が描けた人なんていないはずである。現に私もそうだったし、おそらくパソコン絵画のような2DのCGだけでなく、バーチャル・リアリティーを追求する3DのCGでも同じことが言えると思う。いずれも最初の一歩のところに、くぐらねばならない大きな関門がある。そして、我慢してその関門を抜けた人だけが、パソコンで絵を描くすべを習得していったというだけのことで、才能のあるなしの問題ではない。スタートは皆同じなのである。

 「休日画廊」から初期作品を撤去した今では、私の苦悶の軌跡を目で追えないかもしれないが、最初からこんなふうに描けていたわけではない点、ここに記して、入門者の方に知ってもらいたいと思う次第である。


「力を尽くして狭き門より入れ」(新約聖書)




4月29日(木) 「収穫のとき」

 4月上旬の春爛漫の一日、小学生の息子と埼玉県まで山登りに出掛けた。池袋から伸びる東武東上線で、急行の終点、小川町まで行き、そこから各駅停車に乗り換え、東武竹沢という山間の静かな駅に降り立った。

 私は本格的な登山家ではない。だからいつも気楽な山登りスタイルで、その日も、通常のハイカーが出掛けるより遅い時間に家を出た。東武東上線の駅には、沿線の山に出掛けるハイカー向けに、地図と見所、時刻表がセットになった一枚刷りのガイドが備え付けてあるのだが、私が乗った電車は、その時刻表には載っていない時間帯のものだった。

 ハイキングは好きなので、今までも色々な低山に登ったことがある。今回は、駅からすぐに歩いて登れる山を、ということで、官ノ倉山と石尊山という標高350メートル程度の山を目指した。低山と言っても、東京タワーのてっぺんよりちょっと高い程度の標高であり、上野の山に登るのとは少々わけが違う。

 東武竹沢駅から農家が点在する田舎道を暫く歩き、天王沼という山の麓の静かな湖にたどり着く。湖を三方から囲む針葉樹林が、鏡のように凪いだ水面に映って、絵心を誘うような風情がある。湖畔では、時折かわせみの姿も見られるというが、残念ながら我々の前には現れなかった。

 官ノ倉山への登山道は、この天王沼の脇から始まる。最初はゆるやかだが、尾根を越える峠近くになると、つづら折りの急勾配が続く。しかし、それもそう長い間ではなく、やがて針葉樹林の中の広場に出る。幾つかの山道が交錯する峠である。

 峠の広場で、コンビニのおにぎりと味付けタマゴの昼ご飯を食べる。気楽な山登りは、昼食もお手軽である。腹ごしらえをして、いよいよ官ノ倉山の頂上へ向けて出発。ここからはそう距離はないものの、山頂への最後の登りは、道というより岩場をよじ登る感じである。そして、山頂へ。

 山頂からの眺めは、息を呑むほど美しい。官ノ倉山の頂上は狭いものの、周囲の木々が伐採されているせいで、展望が抜群に良い。丁度木々が芽吹き出した頃で、薄緑色に染まる石尊山の山頂がすぐ向こうに見える。遠い山々の稜線が、春霞にうっすらと煙りながら、軽快なリズムを刻むように続く。こういう風景を、私は随分久しぶりに見た気がした。

 東京に暮らしていて思うことは、東京には池や川はあるが、山がない。勿論、寛永寺のある上野の山や、桜の名所として有名な飛鳥山や愛宕山など、探せばないことはない。しかし、それらは山というより丘と言った方がいいような高さで、散歩をしているうちに上がってしまえる。そもそも都心部からは、東京タワーや高層ビルの展望階に上がらないと、遠くにすら山が見えない。関東平野はあくまで広く、我が家のルーフバルコニーに登って目を凝らしても、街並みしか見えないのである。こんなふうに山の見えない平地に長らく暮らし続けていると、描く絵が平坦になるような気がしてならない。私の場合、平原の絵が多くなるのはそのせいではないかと、時々思うのである。

 山間に住む人には、平地が少なくて町の発展が妨げられているという思いはあろう。土地の起伏の多さも、徒歩や自転車での往来を不便にし、ちょっと出掛ける際にも車を使わざるを得ない要因となっている。ただ、都心から来た私にとって、山の稜線や土地の起伏には、見ていて心和ませる何かがある。山の多い日本で長い間暮らして来た我が先祖達の血が、脈々と受け継がれているせいだろうか。

 官ノ倉山の山頂で、遠くの山々が折り重なって青い波のように続くさまを眺めているうちに、ふと「たたなづく青垣山ごもれる 大和しうるはし」という古事記の有名な一節を思い出した。遠い昔、我々の先祖が奈良盆地を青い垣根のように取り囲む山並みの美しさを愛でた気持ちと、私が官ノ倉山の山頂で覚えた静かな感動とは、深いところでつながっている。私はそのとき、具体的なイメージは湧かなかったものの、何かいい絵が描ける予感がした。風景画を描く者にとって、そうした予感はとても大切なものである。具体的イメージにまでは結実しなかったものの、その日の収穫は、思いのほか大きかったように思う。長い冬を越えて来た者にとって、春は実り多き収穫のときである。




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