パソコン絵画徒然草

== 4月に徒然なるまま考えたこと ==





4月 7日(木) 「パソコン絵画は何故挫折するのか」

 私は長らく、パソコンで油絵や水彩画と同じような絵を描くのは、極めて限られた範囲の人しかやっていないマイナーな趣味だと思っていた。油絵や水彩画、パステル、日本画、水墨画といった伝統的な絵画を大企業とすれば、パソコン絵画など駆け出しのベンチャー企業みたいなもので、生き残るかどうかすらも曖昧なひよっ子ではないかと・・・。

 実際、私が思い付きでこういうことをやり始めた数年前は、アニメやイラストのような線と色合いがはっきりした絵は別にすると、パソコンを使って絵を、しかも油絵や日本画のような絵画を描くというのは、かなり珍しかった。描き方を解説した本もなければ手本となるようなサイトもなかった。

 しかし、最近あちこちで、パソコンで絵を描くことをマスコミが取り上げたり、大手のポータル・サイトが特集したりしている例を見かける。市販の解説本の中にも、パソコンで絵画制作を行うためのものが増えているように見える。徐々にではあるが一般の人々にその存在が認められつつあるということだろうか。もしそうであれば、私のようにネットの片隅で細々とホームページを運営している者にとっても喜ばしいことであるし、勇気付けられる兆候である。

 そんな中でふと思うのだが、最近のマスコミなどの特集でその存在を知り、パソコンで絵を描いてみようと思ってソフトやタブレットを買い、その後もずっと続けている人というのは、実際どの程度おられるのだろうか。逆に言えば、いざ始めてみたものの思うように行かず、投げ出してしまった人の割合は、どれくらいなのであろうか。

 私が試行錯誤しながらやって来た道のりを思い出すと、途中で挫折してしまう幾つかの要因というのがほの浮かんで来る。

 誰しも最初に挫折を覚えるのは、目はパソコンの画面を見ながら手はタブレットの上を走らせなければならないという不思議な感覚であろう。これについては、今まで幾度も色々な場で説明したので先刻ご承知の方も多いだろう。そこまでしつこく書いたのは、おそらくこれが最初にして最大の試練だからである。私が最初に難儀したのは、まるで左手で字を書くようなもどかしさである。油絵、日本画、水彩画、水墨画と様々な絵を長らく描き続けて来た私が、初めて覚えた違和感であり、思うように線が引けないことや色を塗れないことが、こんなにつらくてイライラすることとは思わなかった。しかし、これは繰り返し書いたように、所詮慣れの問題であり、辛抱して描き続ければいずれ解決する。

 その次に来るのは何だろうか。タブレットが持つ硬い筆致であろうか。まるで、ガラスの上にボールペンを走らせるようなツルツルした感触に、私も当初違和感を覚えた。それまで、既存の絵画制作に手を染めたことのある人なら、これには抵抗があるかもしれない。しかし、これも慣れの問題だと思う。

 他にも、ソフトウェアのインターフェイスなど使い勝手の問題やら、モニター画面を見続けて目が疲れることやら、数え上げれば細かいことは色々あるのだろうが、上記以外で挫折感を生じさせる大きな要因を挙げるとすれば、一体何だろうか。

 私は、思ったような絵が描けないということではないかと思う。タブレットという未知の道具に慣れ、描画ソフトの扱い方も覚えたのに、思ったように描けない。おそらく、今まで油絵や水彩画などの絵画を全くやったことのない人が感じる1つの壁が、これではないかと思う。

 例えば、描画ソフトのパッケージや解説本に「こんな作品が描けます」という例が示されている。パソコンで絵を描くことを教えてくれるカルチャー教室の案内書に、先生の作品が載っていて「こんな絵を練習します」とある。見た人は何となく、それは手順を踏みさえすれば誰でも描けるものだと思ってしまう。無理もない。刺繍セットやら組立家具やらは、説明書通りに進めていけば、誰でも表示された写真と同じものが完成する。それが世の常というものである。しかし、残念ながら、絵は違うのある。

 油絵にせよ水彩画にせよ、趣味で絵を描いたことがある人なら、その辺りの事情はよく分かるだろう。そうでない人でもこういうことを考えてみれば納得するに違いない。

 小学校や中学校で図工や美術の授業があったはずだ。そこで先生から画用紙が配られ、皆で目の前にある同じもの−例えば美術教室にある彫像や、生徒の中から選ばれたモデル役といったものを描いた経験があると思う。そのときのことを思い出してみよう。学校で皆が揃って買った絵具箱を使い、同じ時間をかけたのに、完成した作品は各人まちまちだったはずである。すごくうまく描けている人がいる一方で、何だか恥ずかしくて皆に見せられないと思った人もいたのではないか。パソコン絵画だって、それと所詮同じなのである。

 パソコンの描画ソフトは、機能面で実によく出来ていると思う。描き直しが簡単に出来るし、様々な特殊機能が初心者の絵画制作を助けてくれる。筆先を鉛筆や筆、ペインティングナイフなどに変えたり、特殊効果を生じさせるよう塗り方を指定したり出来る。色も、今やパレットの上で普通に絵具を混ぜるようにして作れるし、趣味で絵を描く人ならあまり持っていないエアブラシも、普通の描画ソフトに標準装備されている。とにかく至れり尽くせりである。

 しかし、結局、絵を描くのはソフトではない。人なのである。プラモデルのように組立図通り進めていけば、同じ絵が描けるようには出来ていない。これは油絵や水彩画なら当たり前のことで、絵画教室のパンフレットに先生の描いた絵が印刷されていても、そこに通えば同じ絵が簡単に描けると思う人などいないだろう。でも、パソコン絵画の場合、それが描けると錯覚してしまう。それは、描画ソフトの力を過信してしまうところに原因があるのではないか。

 私の経験から言えば、描画ソフトは確かに強い味方であるし、描写力を何割か高めてくれる面がある。しかし、それは基礎力があったればこその話であり、無から有を作ってくれるわけではない。そして基礎力を作ってくれるのは「慣れ」ではない。「練習」なのである。更に言えば、描画ソフトの機能や取扱い方法を覚えることは「練習」ではない。「練習」というのは、油絵や水彩画を描く人がするのと同じ種類の練習であり、描画ソフトがしてくれるのは、その努力を緩和してくれることだけであって、無にしてくれるわけではない。描画ソフトは画家ではなく画材なのである。そこのところを勘違いしていると、自分の思惑と現実とが大きく食い違うことになる。

 かくほどさように現実は残酷なものであるが、最近マスコミが取り上げるパソコン絵画のイメージや宣伝方法が、努力せずして楽に絵が描けるかのような錯覚を生んでいるのだとすれば、まことに罪深い話である。




4月13日(水) 「デジカメ・スケッチ」

 季節が良くなって来たせいか、休日になると、健康管理も兼ねて、サイクリング兼散歩に出掛けることが多い。サイクリングは、長ければ25Km以上、短くとも10Km程度は走る。勿論平坦な道ばかりではなく、アップダウンもある。川沿いのサイクリング・ロードだと、強い向かい風の中を走ることもある。そして大抵、行った先で自転車を止め、暫し散歩を楽しむ。そのため、目的地には公園を選ぶことが多い。

 私が「休日画廊」に掲げている作品の多くは、こうした休日の外出先で着想を得たものが多い。気に入った風景があれば、スケッチではなく写真を撮る。そうそう長い時間出掛けているわけにはいかないから、のんびり座ってスケッチを取っている時間的余裕はないし、交通量の多い都内のことゆえ、長時間とどまっていられない場所もある。そういう場合、写真というのは実に便利なものである。

 スケッチ代わりの写真を撮るようになって素晴らしいと感じたことは、どんな場所でも一瞬で映像を記録出来るというメリットである。絵を描く者なら誰しも、ひとところに長時間とどまってスケッチを取ることの苦労を知っているはずである。いい景色に出会いスケッチブックを開くのは、何も春や秋の心地よい日ばかりではない。直射日光を浴びながら夏の炎天下にスケッチブックを開くのは、趣味とはいえ苦痛を伴うものである。暑いというだけでなく、スケッチブックの白が眼に突き刺さるように痛いし、手に汗をかいて、描き進むうちに画面が汚れる。真冬になると、凍えるような寒さの中スケッチを取るのは、至難の技となる。何より風邪を引きそうになるし、着込んだオーバーや手袋で、手元が思うように動かない。手袋を脱げば、今度は指先がかじかんで線がぎこちなくなる。

 その点写真は簡単で、炎天下でも木枯らしの中でも、一瞬で作業が終わる。私は本格的な写真愛好家ではないので、三脚を立てたりレンズを交換したりといった手間はかけない。カメラには詳しくないので、オートフォーカスのデジカメを使っている。スケッチ代わりに記録を取るだけなので、ちょっと自転車を止めてサドルにまたがったままパチリと一枚撮る。そして再び自転車を漕ぎ出す。このスタイルだと、どんな場所でも一瞬で撮影が終わる。

 かくして私は、出先で幾枚もの路傍の風景を撮った。おそらくスケッチなら無理だったろうと思うような場所で撮ったものも沢山ある。勿論、スケッチが全て作品に昇華されていくわけではないのと同じで、撮った写真のうち作品に結実したものは意外に少ない。元々私は、現実の風景通りの構図で絵を描くことはめったにないし、モデルとなる風景がない、完全な想像上の景色も多々ある。それでも、こうしたスケッチ代わりの写真がありがたいのは、頭で描いた風景にありがちな不自然さを、写真に写し込まれた現実の風景が教えてくれるのである。

 ただ、写真にはデメリットもある。逆行気味の撮影で画面が真っ暗になったり、不安定な姿勢で写すものだから手ブレが起きたりする。これは、私の技術不足によるものなので、撮影の腕を磨くしかないのだが、それが撮影時に、デジカメの小さなレビュー画面で確認できないのがもどかしい。学習効果が働いて、最近では無駄を承知で、同じ場所で2枚以上撮るようにしているのだが、どうもそれだけではミスを完全には防げない。

 何はともあれ、パソコンで絵を描くだけでなく、スケッチまでデジタル化したわけだが、今になって思い出すことがある。大学生の頃、故郷の近くで描いてみたい風景があった。車で30分ほど走ったところにあった道沿いの風景だったが、川とひなびた橋、背後に幾重にも重なる山の組合せが素晴らしかった。しかし、問題があった。それが見えるのは、交通量の多い片側1車線の県道で、しかもある特定の区間だけである。堤防の上ゆえ、車を止められる路肩が全くない。また、歩道がないので、近くに車を止めて現場まで歩くという手も使えない。

 仕方がないので、私はそこを車で通るたびに景色を脳裏に焼き付け、家に帰ってからスケッチブックに記憶を再現してみるのだが、どうも何かが違うのである。一度、描きながら考えてみようと作品を制作し始めたのだが、どうにもならずに途中で断念してしまった。

 あのとき、デジカメでスケッチ代わりに撮るという発想があったらなぁと、今でも時々思う。残念ながら、あの味わいある橋は、耐用年数が過ぎて近代的なものに架け替えられてしまったらしい。おそらくあの風景は、私にとって永遠に幻の風景なのだろう。




4月19日(火) 「単純な構成の絵」

 心に感じたままを絵に描く。そう言ってしまえば簡単だが、実際の制作過程は、そんな一言で片付けられるほど簡単な作業ではない。まず、頭の中に漠然と湧き上がったイメージを、キャンバスなり紙なりパソコンの画面なりに、具体的に目に見える形で構成しなければならない。要するに構図取りである。私も風景画を描く際、構図の取り方でいつも悩まされる。大胆なことを言えば、構図と色合いを決めてしまいさえすれば、絵は半分以上完成したことになると私は思っている。

 小学生の頃は、構図の重要性はあまり意識しなかった。モチーフを見つけるといきなり描き出していた記憶がある。モチーフとなるもの、例えば建物とか橋とかいったものを真ん中にドーンと描き、背景などはその後考えていたように思う。極端な話、特定のモチーフが全てであり、他は空白でもよかった。しかし、中学生になって少し構図のあり方について考えるようになり、やがて大学生になって本格的に考え出した。

 私だけなのか、誰でもそうなのか知らないが、最初構図というものを考え始めた頃は、様々なパーツを組み合わせ、複雑で重層的な画面構成を志向する傾向にあった。まるで隙間を埋めるように色々なものを描き込み、細部まで手を加える。今から考えれば、余白をなるべく残さない構成を考えていたのだろう。それは小学生の頃、画面にはち切れんばかりに数々のものを描き込んだ絵を、図工の先生から褒められたといった、他愛ない経験が影響していたのかもしれない。

 複雑な構成を取り入れた画面は、バランスを取るのが難しいものの、深く厚みのある作品を生み出してくれる。世の中には、そうした絵が沢山ある。風景画系統の絵では、近代絵画以前の西洋の歴史画が代表格だろうか。それぞれに意味を持った沢山の要素が画面の中にぎっしり詰め込まれ、作品自体が一つの物語になっている。いや、正確に言えば、歴史上の有名な物語を絵にしているのである。従って、その解説を書き始めると、おそらく小冊子が出来上がるだろう。蘊蓄が語りやすく、評論者には解説のネタが尽きない絵かもしれない。

 日本の伝統絵画の世界でも、「源氏物語絵巻」に代表されるような絵巻の類は、西洋の歴史画と同じようなものであるし、屏風絵にも、「洛中洛外図屏風」のように、沢山の要素を盛り込んで複雑な構成を取っているものが多い。これらも、歴史画と同じく物語が絵の中に織り込まれている。

 中学生の頃、私はそうした複雑な構図で緻密に描き込まれた絵をすごいと思い、ある意味憧れた。小学校時代に衝撃を受けたブリューゲルの「バベルの塔」以来、その種の絵は思い出せば色々あるが、当時の私は、そうした作品が表現しようとしていた中身ではなく、それだけ沢山のパーツを、バランスを取りながら画面に凝縮している技術水準の高さに感嘆していたと言った方がいいかもしれない。

 しかし、大学生になって本格的に風景画を描き始めた頃から、私はごく限られたパーツを単純に組み合わせた画面構成を目指すようになった。「休日画廊」に掲載されている作品を見てもらえれば分かるが、画面を構成する要素は少なく、何もない空間部分をゆったり大きく取っているものが多い。何故そんなふうに好みが変わっていったのかよく分からないが、余白を活かすことを大切にする水墨画や日本画の影響を受けたのかもしれない。

 絵の中に沢山の要素を取り入れ、複雑で重層的な画面構成を目指すのは、高度なバランス感覚を要求される難しい作業だと思うが、数少ないパーツでインパクトのある画面を作るのも、それに負けず劣らず難しいということを、その過程で学んだ。

 にもかかわらず、私が単純な構成の画面に相変わらずこだわり続けるのは、絵に限らず、単純な構成を持つものの良さが分かるようになったからではないかと思う。そんな感覚は、少なくとも子供の頃にはなかったから、年齢とともに芽生え育って来たということだろう。例えば、三好達治の有名な詩に「雪」というのがあるが、私は高校生くらいまでこの詩は単純すぎてつまらないと思っていた。こんな簡単な言葉の組合せが高名な詩人の代表作かとも思った(何とも傲慢だが)。しかし今になってみると、この詩の持つしみじみとした味わい、しんしんと迫って来るような静寂感が実によく分かるのである。絵もかくありたいと、私はいつも思っている。

 よく、プロの画家でも幼児が描いた絵にハッとすることがあると聞く。純粋な子供の目で見た感動を、包み隠さずそのまま画面に表現するから、見る人にもその感動がストレートに伝わる。専門的なテクニックや妙な仕掛けは一切なく、自分の心に正直で単純な構成が見る者にインパクトを与えるのだろう。そこに現れているのは、子供達の驚く顔、喜ぶ顔そのものであり、受け狙いの作り物は一切ない。私が目指す単純な構成の絵と、一脈通じるところがあるのではないかと思う。

 モチーフだけをドーンと描いていた未熟な時期から、構図の在り方を考え複雑な構成を目指していた頃を経て、結局最後に先祖返りというわけではないが、単純な構成の画面に戻り着いた。釣りはヘラブナ釣りに始まりヘラブナ釣りに終わると聞く。私の絵画遍歴も、何となくそれに似ているのかもしれない。


「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。」(三好達治「雪」)




4月27日(水) 「竹」

 この前の週末、職場の親睦旅行で竹の子掘りに行った。ちょうどいい季節で、竹林のあちこちに竹の子が生え、もう既に人の背を越えているものもある。案内の人の後について、クワを担いで竹林の中に分け入る。よく晴れて暖かい日だったが、竹林の中はひんやりと涼しい。小ぶりの竹の子の周りをクワで丁寧に取り除いて行き、根の近くまで掘ると、クワを入れて一気に掘り起こす。ほどなく竹の子を2つ掘り出して、送迎車の駐車スペースに戻ると、案内の人が焼き竹の子を振舞ってくれた。焚き火の中に掘り出したばかりの竹の子を投げ入れ、1時間ほど焼いた後、切って醤油をかけただけの野趣に満ちた料理だが、これが素晴らしくおいしい。新緑の美しい山々を見渡しながら、熱々を頬張った。

 沢山の種類の木がある中で、竹は実に不思議な存在感を持っている。本来気温は同じはずなのに、竹林の中を通る小道を歩くと、心地よい涼気を感じるのは何故だろうか。竹は一般の木と異なり、幹自体がすがすがしい青緑色なので、竹林の中はまさに緑の空間である。時折風が吹くと、竹の葉がさやさやと擦れる音が聞こえ、こぼれるような日の光が足元に揺らめく。あの青緑のほの暗い空間が涼しさを感じさせるのだろうか。

 竹の持つ清涼感は竹林の中だけでなく、生活の中でも活きてくる。よく、竹を真横に割った中にそばやソーメンを盛った写真を雑誌で見掛ける。夏場に見ると実に涼し気で、暑さで萎え気味の食欲をそそる。切った竹に活けられた一輪の花も、素朴な中に凛とした可憐さがあって、いいものである。

 しかし、この竹ほど、絵を描くうえで組合せのバリエーションが効かないものはない。竹が持つ独特の個性ゆえ、組み合わせる題材がかなり絞り込まれてしまうのである。例えば、レンガ造りの洋風の建物と竹林の組合せでは、どうもしっくり来ない。建物と組み合わせるなら、やはり和風の建物ということになる。人物画の世界でも、洋服を着た人物の背後に竹林を組み合わせることは、あまりないのではないか。竹林だと、やはり着物姿の人物画が似合う。

 そんなこともあってか、私は絵の題材に竹を使うことは殆どない。せいぜい花を描くときに、竹で編んだ生け垣が背景に登場するくらいである。しかしこれとて、花をよく選ばないとちぐはぐなことになる。バラやチューリップの背後に竹の生け垣では、何となくうまく合わない気がするのである。

 竹のように強い個性を持った素材は、それだけで雄弁に特定の雰囲気をかもし出すから、絵の構成とマッチすれば、これほど心強い味方はない。しかし、その個性ゆえ、登場場面は自ずと限られてしまう。こういう個性的な素材を巧みに組み合わせられるようになれば、自分の描く絵の世界が一味も二味も深まっていくと思うのだが、いざ使うとなると中々難しい。

 個性の強さというのは、メリットでもありデメリットでもある。それは絵の素材に限らず、世の中の諸々のことについても、同じことが言えるのかもしれない。ただ、そうした個性の強いものを生かすも殺すも、使い方次第である。まかり間違うと、そのものだけでなく画面にある全てのものを台無しにしてしまう。それは、その個性の強いものに原因があるのではなく、間違った使い方をした描き手の方に問題があるのである。それゆえ、こうした素材を使うには、それなりの経験と力量が問われる。この辺りも、やはり世の中全てについて同じことが言えるのかもしれない。




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