パソコン絵画徒然草

== 4月に徒然なるまま考えたこと ==





4月18日(火) 「途切れがちの徒然草−春への思い」

 今週は、ちょっとだけ仕事に余裕が出来て、つかの間ひと息ついている。もう心身ともに疲れ果てた状態だが、それでもこの前の休日、ふと思い立って板橋区の植物園まで出掛けた。いつの間にやら季節は巡り、春はもう半分くらい過ぎてしまったらしい。

 例年になく寒い冬を耐えてきたせいか、春の訪れはことのほか嬉しいものである。暖房が行き届き、外出時の防寒着も工夫された現代でもそうなのだから、昔の人はひときわ春の訪れを喜んだに違いない。おそらく梅が咲き、桜がほころぶといった周囲の変化に春の兆しを感じ取り、特別な思いを持って暖かい日の訪れを待ったに違いない。そして、そうした待ち遠しさや、春が来たときの喜びを、歌に詠み、絵に描いて来たのだろう。

 今でも季節は巡り気候は変化するが、現代人は様々な技術革新のお蔭で、寒暖の差をなるべく感じず済むような生活を送っている。冬の室内は充分な暖房が施され、外出時には厚着をして出掛ける。その暖房・防寒技術も年々進歩し、昔の人に比べれば圧倒的に寒さ知らずの暮らしになっている。夏も然りで、冷房が完備され、風通しがよく発汗性にすぐれた衣類も開発されている。かつては殿様くらいしか体験できなかった夏の氷も、冷蔵庫で当たり前のように作れるし、冷たい飲み物でもアイスクリームでも自由に食べられる。我々の生活はそうした意味で随分便利になったが、同時に昔に比べ身体もひ弱になったに違いない。

 時々大河ドラマなど見ていて、昔の人はあんな住まい、あんな格好で冬の寒さをしのいでいたのかと感心する。NHKだと時代考証はしっかりしているだろうから、ドラマとしての脚色はあるにしても、当時の暮らし向きをかなり正確に伝えているのだと思う。現代人があの生活に耐えられるのかと問われれば、正直言って白旗を揚げるしかあるまい。当時の人はその分寒さに強かったのだろうが、それでも寝ていて凍死をしたり、雪に閉ざされ一家で生死をさまようといったことは、そう珍しくなかったのではないか。

 私は今でも冬が終わり春が来るとうれしく感じるし、多くの方も同じ思いで季節の変化を眺めておられるのだと思うが、おそらく切実感という意味では、昔の人の思いには遠く及ぶまい。凍え死ぬような寒さや雪に閉ざされて孤立する恐怖は、今ではめったに味わうことがないが、その分、冬が終わったことの安堵感は、昔と今とで格段の開きがあるに違いない。そしてそれは、同時に春の訪れを迎える喜びにも、かなりの差があることを意味している。

 そんなことをつらつら考えると、最新技術に囲まれてぬくぬくと暮らす我々が、昔の人が詠んだ歌やら描いた絵やらを見ても、その背後にある感情を正確に汲み取ることはなかなか難しいのかもしれない。同時に、春の喜びを絵に描くときも、こめる思いには雲泥の差があるのだろう。どちらが幸せかと言われれば、生活が便利になった現代人の方がはるかに幸せなのだろうが、その便利さのために失われたものも、少しはあるということだろう。

 さて、本日はここまで。次の徒然草はいつになることやら。あるいは、初夏の訪れを綴ることになるかもしれないなぁ。それにしても忙しい。




目次ページに戻る 先頭ページに戻る


(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.