パソコン絵画徒然草

== 4月に徒然なるまま考えたこと ==





4月 5日(木) 「池袋モンパルナス」

 練馬区に住んでいると、最寄りの繁華街は池袋ということになる。しかしこの池袋、どうにもぱっとしない街である。

 東京に住んでかれこれ25年になるが、東京には中心になる街がない。その代わり、幾つもの繁華街がある。新宿、渋谷、銀座、六本木、みんなそうである。多くは交通の要所でもあり、いわゆるターミナル駅としても栄えている。池袋もそういう意味では交通の結節点であり、平日、休日を問わずたくさんの人でにぎわっている。だが、何というか、東京の代表的繁華街としてはみそっかすの扱いである。

 池袋についていつも思うのは、この街を特徴付ける特定のイメージがない。銀座の持つ大人の街の高級感や、渋谷という響きから感じられる若者文化、六本木を特徴付ける夜の街の雰囲気、そうしたキャッチコピー的なイメージが、池袋にはない。ここには固有の文化なんてないのではなかろうかなんて思ってしまう。

 ところがあるとき、戦前ここには芸術村があったという話をミニコミ誌か何かで読んだ。興味が湧いて調べてみると、パリのモンパルナスを模して「池袋モンパルナス」と呼ばれていたことを知った。

 パリのモンパルナスには、一度だけ足を運んだことがある。どこかに行く途中、有名な駅だからと降りて、暫し駅周辺を歩いた。美術に関心のある方ならご存知だろうが、モンパルナスはモンマルトルと並ぶ芸術家の街である。家賃の安いモンマルトルに集まった芸術家たちが、第一次世界大戦以降、次第に高級住宅街と化していくモンマルトルから脱出し、モンパルナスに移り住んだと言われている。ピカソやシャガール、モディリアーニもここの住人である。日本からは、藤田嗣治や岡本太郎らがモンパルナスに移り住んだ。

 カルチェ・ラタンに隣接し芸術家が集った街というイメージを抱いて駅を降りたら、にぎやかで近代的な街並みだったので驚いた記憶がある。駅周辺を歩きながら、エコール・ド・パリの時代は遠く過ぎ去ったと感慨深かった。

 さて、話は戻って「池袋モンパルナス」である。この言葉を最初に聞いた瞬間、あのモンパルナスの近代的な街並みがよみがえったのだが、では池袋のどこにそんな芸術家村があったのか、どうにもイメージが湧かない。その後、色々調べてみて分かったのは、現在の地下鉄有楽町線の要町、千川、西武池袋線の椎名町、東長崎の4つの駅を結んだ四角形の中に、若き芸術家たちの住処が点在していたらしいということである。そして、「池袋モンパルナス」があったのは、昭和初期から第二次大戦の終わりまでということも知った。ちょうどパリのモンパルナスが世界中の芸術家たちを集めてにぎわっていた時代と同じということになる。

 戦前の池袋がどんな街だったか知る由もないが、隣の練馬区自体が近郊農業地帯だったことを考えると、「池袋モンパルナス」があった辺りものんびりしたところだったのだろう。そもそもそうした芸術村が生まれたのは、そこに貸しアトリエが出来たからということらしいから、地価も安く土地に余裕があったと推察される。

 そこまでは調べたものの、実は現地に足を運んだことはない。当時の面影を残すものが僅かながら残っているとも聞くが、何となく昔モンパルナスに降り立ったときの拍子抜けした感じを再び抱くのではないかという予感がするからだ。かすかな足跡をたどって味気ない住宅街をウロウロするより、当時の芸術家たちの情熱に思いを馳せている方がいい気がするのである。

「池袋モンパルナス」がなくなったのは、戦禍が激しくなったからとも聞く。空襲の続く東京から疎開していった者や、召集令状を受けて戦地に赴いた者もいるのだろう。あるいは、思想統制の厳しい時代、こうした自由奔放な若者が集まる場所には、有形無形の弾圧があったのかもしれぬ。いずれにせよ「池袋モンパルナス」は、戦後新しい日本の始まりとともに消えた。

 もしも、戦後再興されて新しい芸術村が出来ていれば、池袋も今とは違った顔を持つ街に育っていたかもしれない。それを思うと、少々残念である。




4月12日(木) 「出会いと別れ」

 先週末、久し振りに「休日画廊」のリンク・ページをチェックして、URLが変更になっているものを修正したのだが、その際、完全にリンク切れになっているサイトを2つ発見した。一つは「Japan PSP Users Group(JPUG)」、もう一つはアリーさんのサイト「アリーの部屋」である。

 私はその時点で、この二つのサイトを削除することに躊躇してそのままにしていたのだが、色々考えた末に結局削除することにした。リンク集は私のためにあるというより、「休日画廊」を訪問して下さった皆さんの参考のために設けているもので、それが一部とはいえリンク切れになったままだと具合が悪いだろうと考えたからである。

 この二つのサイトを削除せずに残していたのは、両方とも古い付き合いのサイトだからである。特にJPUGの方は、「休日画廊」を開設する前から交流のあった懐かしいサイトである。

 私が「Paint Shop Pro」という描画ソフトを買い絵を描き始めた頃、パソコンで絵画風のコンピューター・グラフィックス(CG)を描いている人なんて、まずいなかった。前例がないので私自身どうしていいのか戸惑う日々で、いわば手探り状態だった。そんなときに出会ったのが、「Paint Shop Pro」ユーザーの交流の場だったJPUGである。もちろん、絵画風CGを描いている人はごく少数派で、多くはイラスト系CGだったが、私のような変わり者でも快く迎え入れてくれて、大変ありがたかった覚えがある。

 JPUGには作品の投稿コーナーがあり、私は制作した作品をよくここに投稿して色々な方からコメントを頂いた。それは何より制作の励みになったし、こういう絵画風CGを受け入れくれる人もたくさんいるんだと気付かされた。そうした経験が「休日画廊」開設に結実していくわけで、JPUGは「休日画廊」誕生のきっかけを与えてくれた忘れがたいサイトなのである。

 もう一つの「アリーの部屋」のアリーさんとも長い付き合いである。いつ頃から交流が始まったのか記憶が定かでないが、「休日画廊」開設後1年もしないうちに知り合いになった気がする。アリーさんは才能豊かな人で、CGだけでなく様々なジャンルの芸術に取り組んでおられた。また、そのサイトは毎日大繁盛でたくさんの方々が掲示板にコメントを載せておられたのを覚えている。そして、そうした多くのコメントにきちんと返信をする律儀な人であった。

 長くサイトをやっていて思うだが、サイトを立ち上げた当初は、日々出会いの連続である。色々な方からコンタクトがあって相互リンクを結び、付き合いの幅が広がる。これが妙に楽しかった。「休日画廊」の最初の2〜3年は、そんな交流拡大期であった。しかし、趣味でやっているサイトである以上、誰しも順調にサイト運営を続けられるわけではない。現実の生活が忙しくなったり、他の趣味が出来たり、あるいは引っ越しや転職を機にネット・ライフから離れていく人もいる。そうして、徐々に別れの季節がやって来る。一人また一人とサイト閉鎖のお知らせが来て、リンク相手や交流相手が減っていく。

 私はそんなふうに出会いと別れを繰り返しながら、いつの頃からかネット上の交流よりも作品制作に没頭していくようになった。自分のために描き、自分のために掲載する。相互リンク先のサイトにもあまりお邪魔しなくなったし、新規交流先の開拓もしなくなった。最近ではそうしたサイト運営に心地よさを感じていたわけだが、今回の二つのサイトの閉鎖を知り、妙に寂しい気持ちになったのも事実である。何というか、自分が卒業した学校が消えてしまったような寂しさである。

 一時はあんなににぎわったサイトも、時の流れとともに消えていく。それはネット界の宿命なのかもしれない。私も「休日画廊」を一生続けられるわけではなかろうから、いつかははかなく消えていくのだろう。その日がいつ来るのか知らないが、今回消えていったサイトを見て、そんな運命の一端を見せ付けられたような気がしたのである。




4月17日(火) 「キャット・ストリート」

 東京23区といえども、私の住む辺りは、宅地化が進む前は農業地帯で田畑が広がっていたと聞く。宅地開発されたのはそう古くないはずで、今でもポツポツと畑が残っている。畑が宅地になると、畑の間を縫うように張り巡らされていた用水路はいらなくなる。やがて用水路は暗渠になり、その上は路地になる。かくして、宅地の至るところに路地が出来るわけである。

 路地はもちろん車が通れるような広さではなく、自転車ですれ違うのも大変である。用水路だったのだから仕方あるまい。それでも、近道をするときなどに、よくこうした路地を使わしてもらっている。

 狭い路地を通るたびに「キャット・ストリート」という言葉を思い出す。東京在住の方ならあるいはご存知かもしれないが、原宿の「キャット・ストリート」である。

「キャット・ストリート」は、私が上京して来た頃からあった。あったというより、そういうニックネームが付いていた。場所は、JRの原宿の駅から表参道沿いに行き、明治通りを通り過ぎて暫くのところから始まっていて、くねくね曲がりながら渋谷に抜けていく裏通りである。当時私は渋谷区に住んでいて、原宿まで地下鉄で一駅だった。この通りの存在は原宿に住んでいた友人に教えてもらったのだが、途中の公園にノラ猫がたくさんいるからとか、猫が通る程度の狭い路地だからというのが名前の由来とも聞く。確かに、途中公園があってノラ猫が何匹かいた。

 実は、この「キャット・ストリート」、昔は川だったようである。私の近所の路地と由来は同じである。その上、細い裏通り風なところもそっくりである。おしゃれな店が通り沿いにないという点が、決定的な違いだろうか。

 そういえば、前にもこの「パソコン絵画徒然草」に書いたが、文京区にいた頃にも近くに幾つも路地があり、通り抜けに使っていた。東京というのは、かなり近代的な街並みなのだが、ちょっと住宅地に入ると案外昔の風情が残っている。

 文京区の路地は、味があった。木造の古い家屋がまだ路地裏に残っていて、植木鉢が通り沿いに並び、それこそ三毛猫がうろうろしていた。タイムスリップして昭和30年代に迷い込んだような気配が辺りに漂っていた。ユトリロは、モンマルトルの裏通りなどを味のある筆致と色合いで描き、今なお人々を魅了しているが、文京区の路地裏にも和風の味わいがあった。水彩画で描いたら、いい作品が出来そうな予感がしたものだ。

 だが、私の近くにある路地裏は、あの懐古調の文京区の路地裏に比べて、どうにも味がない。何というのか、こぎれいなのである。路地は、家々の裏手を縫うように走っているのだが、住宅そのものが新しいせいか、裏側もきれいで整理整頓が行き届いている。近所で申し合わせでもあるのかななんて勘ぐりたくなるくらいに片付いている。人間臭さが感じられないのである。お蔭で、絵の題材にしようかなんて気持ちは全く湧かない。

 絵にしたくなる街並みというのは、どこか手垢にまみれたような味わいがないといけない。つまり、街並みを描きながら、その実そこに住んでいる人間を表現しているような風情が欲しい。路地裏の魅力は、人間の息遣いが聞こえて来るような雑然とした雰囲気にあるのである。

 きれいなことはいいことである。通り抜けるのにも支障がない方がいい。しかし、機能的であればあるほど、人間らしい味わいは失われる。あちらを立てればこちらが立たず。人間というのは、どうにも難しいものである。




4月24日(火) 「掲示板変更」

 長らく使って来た掲示板を、別のものに替えた。理由はアダルト書き込みに対する対抗措置である。

 お気付きの方もおられただろうが、最近になってアダルト系の宣伝書き込みが頻繁になされるようになった。私は従来使っていた掲示板が結構気に入っていたので、効き目のないイタチごっこだと思いつつも、暫くは日々手動で消すようにしていた。しかし、そんなことをしていてもしょせん問題は解決しない。いい加減嫌になって来ていたので、この際思い切って交換することにした。せっかく書き込みをしてくれた方には申し訳なかったのだが、事情が事情だからご容赦願いたい。

 この種の書き込みをする業者は詐欺系の犯罪サイトと組んでいる輩であり、注意してやめるような手合いではない。暴力団に道徳を説くようなものである。しかも、機械による自動検索で掲示板を見つけて、同じように機械による自動書き込みで絨毯爆撃のように宣伝文句を記入していく。機械がやることだから相手がどんなサイトの掲示板だろうと見境がないわけで、千の書き込みをして一人でも罠に迷い込んで来る人がいれば、充分ペイするわけである。プロバイダー料金やサーバーのレンタル料は定額制なので、機械がやる限りは無限に書き込みを続けられる。これでは、掲示板を運営する方はどうやっても勝ち目はない。

 こうした攻撃を受ける掲示板は相当数にのぼっており、「休日画廊」が今まで何とか平穏にやってこられたのは、幸運のなせる業と思った方がいいかもしれない。もちろん掲示板の方も進化しており、最近のものは無料でもこの種の宣伝書き込み対策が講じられているものがある。今回レンタルしたのはそうした機能を装備した掲示板である。私の従前の掲示板は古いものだったので、残念ながらそうした機能が殆どなく、一度狙われたらなすすべがなかった。

 一般に、掲示板によるコミュニケーションは、下火になりつつあるのかもしれない。こうした犯罪業者の宣伝書き込み以外にも、嫌がらせの書き込みをして喜ぶ、いわゆる「荒らし」も多数いて、匿名世界での善意の交流は次第に妨げられつつある。見知らぬ人からのメールや書き込みは疑ってかかれというのが常識となっているし、下手をすれば、初対面の人にこちらからメールを出しても読まずに捨てられる可能性がある。こうした状況では、新規の交流の芽はなかなか育ちにくい。最近のソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS)の隆盛は、こうした環境変化と無縁ではあるまい。

 我々はインターネットという仮想世界で匿名による自由を得たが、それは万人に等しくもたらされた利益であり、当然のことながら犯罪者もそれを利用できるようになった。あらゆるものに光と影の面があるように、一見素晴らしいインターネットの世界にも、闇の部分はある。私はサイト運営上そうした世界との関係を完全に断ちたいと思っているのだが、向こうは、闇世界への橋頭堡を一つでも多く作ろうと、あの手この手で接近して来る。今回は、新しい機能の掲示板でこの種の攻撃を当面防ぐことが出来るだろうが、やがてその防御機能を易々と破る技術が開発されるに違いない。この種のイタチごっこは永遠に続くということである。

 考えてみれば現実社会でも、従来は考えられなかったような様々な危険が、我々の日常生活に忍び寄っている。以前なら家の鍵をかけなくても平気だったのが、今では各種防犯装置を備え付けていても泥棒に入られる。子供の連れ去りも増えたから、見知らぬ人は疑ってかかるということを子供に徹底的に教えないといけない。お互いが疑いの目で人を見るご時世だから、うかつに親切の手を差し伸べても警戒されるおそれがある。家族を越えて助け合った昔の義理人情のご近所付き合いは、とっくの昔に死に絶えたのかもしれない。

 ネット社会はドッグ・イヤーと言われるほど進化が早いから、誕生してから僅かのうちに現実社会に追いついたということだろうか。そうだとすれば、ありがたくない進化である。




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