パソコン絵画徒然草
== 5月に徒然なるまま考えたこと ==
5月 1日(水) 「美術の授業」 | |
誰でも小学校・中学校の計9年間、図工や美術の授業を受けたはずだ。私の場合、高校では音楽と美術が選択制だったので、美術を取り、更に3年間授業を受けた。私は子供の頃から絵を描くのが好きだったので、授業は楽しかったが、さて、計12年間もかけて何を得たのかとなると、確たる答えが見出せない。 授業の最初に先生から課題を告げられ、授業中、半ば義務感にかられてそれをやり、出来なかった部分は家に持ち帰って仕上げたりした。年に1〜2回、校外授業として写生があり、画用紙と絵具箱を持って、半日ないし一日つぶして外に出掛け、風景画を描いた。私は、絵を描くのが好きだったから良かったようなものの、級友達は実に退屈そうで、適当に絵を描いて、後は遊んでいる人も多かった。美術が嫌いだという友人もいたが、何故か分かるような気がした。 今にして思えば、ああした授業には、芸術にとって最も大切な「感動」がなかった。写生の授業で連れて行かれた何の変哲もない場所には、美しいと思えるものは何もなかった。授業でなければ、絵に描こうとは決して思わないような場所に連れて行かれ、ここで何か描きなさいと言われても描きたいものなど何もない。仕方がないので、皆、先生に受けそうな画題を探して義務的に描く。これでは、何のために美術があるのか分からない。たった1枚でもいいから、感動する絵に出会い、それを作者がどうやって描いたのか、何を表そうとしたのかを学ぶことが出来れば、「自分もこんなふうに絵を描いてみたい」と素直に思えるようになるはずだが、そんな機会は一度たりともなかった。学習指導要領に沿った課題には、工夫はあるが感動はないのである。 その後大学に進んで教養課程で「西洋美学」という科目を取った。絵を描くなどの実技は何もなく、マチスの鑑定で有名な某教授が、学生にスライドを見せながら西洋美術の発展の歴史を講義してくれたのだが、これには目からうろこが落ちる思いであった。歴史に名を残した画家達が、何を目指していたのか、そして何をなし得たのかを、各種のエピソードを交えて話してくれるのだが、私はそうした絵画の歴史に素直に感動し、自分でも色々本を読んだ。そのとき初めて、絵を描く意味が分かった気がした。本当は、美術の授業の前に、こういうことを学びたかった。 好きなように絵を描く境遇になった今では、自分で感動したもの、いいと思ったものしか描かない。それは、誰しも、自分の好みの歌しか歌わないのと同じだ。何故、その歌を歌うのか。自分の心や思いを代弁してくれているからではないのか。授業で習った小学校唱歌にはそれがなかった。美術の授業で与えられた課題も同じだったことに、今さらながら気付く。 美術の授業が嫌いだった皆さん、今からでも遅くない。自分が感動した絵があるなら、自分なりに心を代弁してくれる絵を描き始めたら如何か。そのときに初めて、「美術」とは何を学ぶものなのかが分かって来るのである。ただ、心の赴くままに描き始めればよい。足りないところがあったり、壁にぶつかったら、そのとき初めて絵画教室に通ったり、先生に師事すればよい。歴史に名を残す天才画家達の多くも、そうして手探りで絵を始めたのである。 |
5月 3日(金) 「美術館考」 | |
ゴールデン・ウィークに美術鑑賞という人も多いだろう。東京には美術館が沢山ある。町中にある小さなものまで合わせると、一体幾つあるのだろう。 皆さんが美術館へ足を運ぶのは、どういうきっかけからだろう。おそらく大半の方は、まず各種の案内や広告などで展覧会の開催を知り、それをどの美術館でやっているのか調べて、そこに行くという流れになるだろう。その美術館に来ている人の、おそらく殆どが、「この美術館が好きだから」という理由で来ているわけではなく、「自分の見たい展覧会をやっているのがそこだから」ということで足を運んでいるのである。従って、そうした特別展をやっていなければ、わざわざその美術館までは来ないに違いない。要するに、日本の場合は、「○○展ありき」であり、「美術館ありき」ではない。 ニューヨークに住んでいた頃、メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、ナショナル・ギャラリーなどの有名どころのほか、幾つか地方の美術館を見て回った。行くと気付くのは、日本のように特別展目当てに人が集まっているわけではないということだ。いや、特別展目当ての人はむしろ少数派という印象がある。おそらく美術館のコンセプトが、日本と違うのではないか。 例えば、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館は、マンハッタンのセントラルパークの一角にある。ここの入場券は紙ではなくて、その日1日通用するバッジをくれる。朝入って、昼に外に出て近くのレストランでゆったりと昼食を食べ、午後また美術館に戻り、疲れたら、セントラルパークに出てのんびりと芝生に寝そべるということが可能である。勿論、美術館の中の施設も充実していて、カジュアルな食事からフォーマルな食事まで揃っているし、快適で落ち着いた休憩スペースもふんだんにある。夜、ホールでクラッシックのコンサートをやることもある。要するに、休日の一日をゆっくり、かつたっぷりと芸術にひたれるよう工夫されているのである。人々は、その空間で長い時間をかけて芸術を堪能し、充実した一日を送れる。だから、特別展に関係なく、繰り返し足を運ぶ気になるのである。 ひるがえって日本の美術館を考えると、かなり慌しい。皆、特別展目当てだから、限定された期間中にどっと繰り出し、すごく館内が混む。おまけに、そこで終日過ごすなんてコンセプトはないので、食堂は狭くて高くて余りおいしくないし、休憩スペースも混雑する。要は、「早く来て、さっと見て、すぐ帰る」というのが、美術館側が意図している見学者の行動パターンなのである。これは、見事に日本人の観光行動に当てはまるので笑ってしまうが、お蔭で美術館に行っても豊穣な時間など絶対過ごせないのである。絵を見た感動と混雑による疲れが相殺され、後には「とにかく行った」という満足感が残る。思えば、文化的に貧しい国なのかもしれない。 新聞やテレビでは「○○美術館が有名な××の絵を△億円で落札した」みたいな報道ばかりが目につくが、その金をかけて美術館の改装をした方が、よほど来館者の心を豊かにすることになるのではないか、と私なぞは思ってしまうのである。 |
5月 6日(月) 「子供の絵」 | |
「子供の日」にちなんで、子供の描く絵について、少し考えてみたい。子供の絵は、技巧という面では大人にかなわないが、何かハッとする部分がある。特に、幼児の描いた絵は印象に残るものが多い。あれは、どうしてなのだろう。 絵を描くための技巧を学ぶ前の状態だと、子供は、おそらく感じたままをその通りに紙面に描く。自分が心に受けた印象を、そのままの大きさで紙に描く。それは、例えば子供がお母さんを描いた絵を見るとよく分かる。画面の半分くらいを顔が占めていたりする。手足はアンバランスで、2頭身はざらである。これは、子供が母親の顔をどれくらい見ているかを、そのまま表しているのだと思う。要するに、子供にとってお母さんとは、自分を見てくれている優しい目であり、笑顔なのである。手足なんか、そんなに子供は見ていない。その子供の感じ方が、そのまま絵に表れ、見る者にインパクトを与えるのではないか。 おそらく大人だって、本当は同じことだろう。人間同士、会うとお互い相手の顔を見ながら話をしており、顔の印象が一番強いはずだ。相手がどんな靴を履いていたかなんて、全く覚えていないことも多かろう。だから子供が、画面の半分が顔の絵を描いても、素直に頷いてしまうのである。 そうした子供の絵は、大きくなるに従って、どんどん「まとも」になる。写真で見たように正確な描写になっていくのである。そして、そういう絵が「うまい」と大人に褒められたりするものだから、皆、「うまい」絵を描こうと一生懸命になるのである。そのうち絵は、器用にうまいが平凡になり、あの独特のインパクトは失われる。 人間の目はカメラではない。人間は感情を持っている。そういう心のフィルターを通して、脳でモノを見ている。子供だけでなく大人でも、知らず知らずのうちに、自分の心にインパクトを与えるものだけを集中的に見ているのである。しかし、それを感じたままに大人が絵に描こうとすると、「うまい」絵を描こうとする理性が邪魔をする。自然の原理に反していると思うところは、描いているうちにどんどん修正されていく。絵の技巧を習得した人間が、心の感じたイメージ通りに描くというのは、意外と難しい。それは、「絵としての完成度」を気にするからである。「感性の赴くままに描いている」と言いながら、どこかで理性が働いて、「まともでうまい絵」へと修正がなされる。結局、「感性のままに描いた風に見える絵」を、理性が作り出すのである。だから、絶対、幼児が描くようには描けない。幼児は「絵の完成度」など気にしない。自分の心をそのまま紙に描く。そこには奇もてらいもない。ただ、いちずに素直で純粋な心があるだけである。 いつの頃からか「感性」という言葉が安っぽく使われるようになったが、その「感性」を素直に絵として表現出来ている人は、ほんの僅かである。そういう絵が描けると「天才」とあがめられたりするのだが、実は、誰しも子供の頃は天才だったのである。 「子供たちが成長の初期の段階で見せる兆候通りに成長するならば、世の中は天才ばかりであろう(If children grew up according to early indication, we should have nothing but geniuses.)」(Johann Wolfgang von Goethe) |
5月 8日(水) 「抽象画は何故難しいのか」 |
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抽象画は余り人気がない。「私はさっぱり分かりません」という人が多い。そのせいか、抽象画が好きだと言うと、「絵の通ですね」などと変に感心されたりする。まるで、風景や人物などの具象画が入門者向けで、抽象画が上級者向けのような扱いである。 私は、抽象画を「分かって」いるわけではない。ただ、「いいな」と感ずることがあるだけである。そもそも、ある抽象画を見た瞬間に背後にある理論を一瞬のうちに理解出来る人などいないし、画家だって1年中描いた絵の横に立って、見学者に解説するわけにはいかない。従って、その抽象画の背後にどんな高邁な絵画理論があろうが、まず、見た人間を惹きつけるだけの何らかの魅力がなければ、その絵は負けである。それが抽象画の宿命だと私は思っている。 例えば私は、ピート・モンドリアンのコンポジション・シリーズが好きだが、それは、彼の「新造形主義」に共鳴しているからではなく、彼の絵からシャープで力強いインパクトを感じるからである。モンドリアンの理論は、彼がこの作品を生み出すに至った哲学を知るうえでは重要かもしれないが、一番大切なのは、彼が描いた絵なのである。人々がまず惹きつけられるのは、彼の絵を最初に見たときのインパクトであって、彼の理論ではない。ここを間違えると、抽象画が「分からなくなる」のである。 例えば、モンドリアンの作品を一切見たことのない人が、彼の理論だけ文章で読んで何か感銘を受けるだろうか。「そんなふうに考えている人もいるのか」で終わりであろう。しかし逆に、彼の理論を知らなくとも、彼の作品に魅了される人は多い。そして、彼の作品に惹きつけられた人が、背景にある彼の哲学を調べて読み、作品の魅力の秘密を知ることになるのである。つまり順番は、最初に絵があって、あとで解説を読むように理論を学ぶ、ということになる。従って、幾ら理論が立派でもインパクトのない抽象画は、緒戦で敗北するのである。それは見る者の責任ではなく、描いた画家の責任である。結局画家は、絵で勝負するしかない。 そう考えた時に、初めて抽象画の難しさが見えて来る。それは、見る難しさではなく、描く難しさである。時々「抽象画は正確なデッサンや表現技術がいらないから、アイデアさえあれば描くことは簡単だろう」という声を聞くが、「美」というものを煮詰めていった先にあるエッセンスを1枚の絵で表現し、見る者に正確に伝えるというのは、具象画以上に難しいことだと思う。そこを勘違いしていると、頭でっかちの独りよがりの抽象画が出来上がるのである。 私は以前から、抽象画は洋服やネクタイと似ていると思っている。洋服やネクタイは、生地の持つ風合い、色、抽象的な図柄で勝負している。人々は、その中から自分でいいと感じたものを選ぶが、人気はある程度特定の商品に集まり、売れ残るものは徹底的に売れ残る。メーカーやデザイナーがそうした洋服やネクタイの背後に込めたコンセプトを人々は正確には理解していないが、それがデザインに現れているから、人々は「良いと感じている」のである。「分かっている」のではない。あくまでも「感じている」のである。そこで「俺の高邁なコンセプトをどうして理解出来ないんだ」と売れないデザイナーが叫んでみても、「負け犬の遠吠え」である。 そう思えば、抽象画を見ることは、そう難しいことではない。絵の意味を考えようとするのではなく、ただ見たままを素直に感じればいいのである。心に響くものがあれば、そこでその絵の魅力は何かを考えてみる。そんなふうに見ていくと、抽象画の多くが未だ発展途上の実験作であることに気付くはずだ。そう、天才でもなければ、「美」のエッセンスはそんなお手軽にはつむぎ出せないのである。その事実こそが、画家が抽象画に挑み続ける出発点なのだと思う。 |
5月11日(土) 「パソコン絵画は手描きか」 |
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「手作り」という言葉に、我々はありがたみを感じる。「手作り」は、機械製造のアンチテーゼとして、価値あるものと受け取られている。「手書き」「手織り」「手染め」「手彫り」、皆そうである。そういう表示が付くと突然値段が高くなる商品も多い。その背後には、「手作りの方が機械製造よりも丁寧」という一般的な考えのほか、「丹念に手作りされたものには魂がこもっている」といった日本人的な発想や、「手作り=全く同じモノは作れない」という希少価値信仰もあるのではないか。これを、絵に当てはめれば、「手描き」すなわち「肉筆画」ということになる。 美術の世界では、厳密には「手描き」でない作品がある。例えば、版画やシルク・スクリーンなどは道具を使って量産できるし、大抵は相当枚数刷られている。こうして刷られたものは、いわゆる「手描き」ではない。そのせいか、同じ画家が制作しても、肉筆画より版画の方が安い。 では、パソコン絵画はどうだろうか。あれは「手描き」と言えるのだろうか。 タブレットを使ってパソコン上で絵を描く行為は、まさに「手描き」だが、それを額に入れるために印刷すると、突然「手描き」でなくなる。プリンターが打ち出したものは、確かに「肉筆画」と言うにはそぐわない。その辺りは、版画やシルク・スクリーンと似ている。そのせいか、パソコン絵画を額に入れて人にあげても、「肉筆画」ほどにはありがたがられない。「プリンターで印刷した」というところに引っかかるのだろうか。更に、版画やシルク・スクリーンと違うのは、「手描き」で制作されたオリジナルのパソコン絵画も、その原画ファイルをパソコン上でコピーすれば、劣化することなく幾らでも増やせるという点だ。他の絵画分野では、こんなこと絶対あり得ない。「手描き=同じモノは世界に2つとない」というありがたみが、ここでも失せるのである。そんなことを諸々考えていると、「パソコン絵画の価値は、やっぱり他の絵画に比べて落つるのか」と嘆く方もおられるかもしれない。 しかし、量産可能なものは芸術的価値が低いのであろうか。私は、そうは思わない。「手描き」であるか否かの違いは、それを受け取った側が感じる「ありがたみ」の差に過ぎないのであって、その作品の芸術的価値を左右するものではないような気がする。例えば、江戸時代の浮世絵は、狩野派の絵と違って、庶民でも手の届く安価な量産品であったが、それが海を渡って当時の印象派の画家達に与えた影響は絶大なものがあった。世界の代表的な美術館に行って「Japan」のコーナーを見てくれば分かる。近代の日本画はごく僅かだが、浮世絵を展示しているところは多い。「Ukiyoe」は、今でもそのまま英語で通ずる日本の代表的な美術作品なのである。 まぁ、そう思い直してパソコン絵画について考えてみると、「肉筆画」でない点において確かにありがたみは失せるとしても、素人でも版画やシルク・スクリーン以上に簡単に量産出来るという点は、むしろ魅力的な長所として受け止めるべきではないか。折角ある長所なら利用しない手はない。例えば、新しい流通形態や利用方法を考えてみるなど、思い切った発想で、他の絵画分野ではマネの出来ない試みを探ってみるのも一案である。そう、「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」(新約聖書「マタイによる福音書」)というではないか。 |
5月14日(火) 「絵と文章との融合」 |
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最近、オンライン絵本のホームページというのを見た。ホームページ製作者が作ったオリジナルの絵本が展示してあり、普通に絵本を読むようにページをめくって読んでいける。中々よく出来ていて感心した。パソコンが発達するにつれて、普通の人でもパソコンで絵本を作り、ネットで公開するということが簡単に出来るようなった。まぁ問題は、絵本を読む年齢の子供が、パソコンを自由に駆使してホームページを見ることが難しいという点だろうか。だから、純粋の子供をターゲットにしているというより、大人が読むことを意識したページ作りになっている。それでもこんなこと、少し前まではとても考えられなかった。夢多き趣味だと思う。 他にも、絵と詩を組み合わせたホームページというのもある。絵にあわせて詩が作ってある場合と、逆に詩に合わせて絵が描いてある場合と2種類あるようで、一人の人が絵と詩の両方を創作しているケースもあれば、詩を書いている人と絵を描いている人が別のケースもあるようだ。いずれにせよ、両者が上手くマッチしていれば、相乗効果が働いて独特の雰囲気がかもし出せる。 絵と文章を一体化して1つの作品にするというのは、昔から日本の得意分野だった気がする。日本人は随分昔からこういう分野の絵を発達させて来た。元々水墨画には、絵と文章が一体化したものが沢山あるが、他にも「俳画」のように、俳句と絵を一体化させて独自の発展を遂げた分野もある。最近はやりの「絵手紙」なんていうのも、この流れをくんでいるように思う。 絵の中に意味を込めて文字を書き込み、両者を合わせて1つの作品として見せるなんてことは、西洋絵画の世界では考えつかなかったのではないか。油絵で、そうした類の作品は見たことがない。日本には「書道」という芸術分野があるから、同じ視覚芸術同士、絵と文字には親和性があり、融合しやすい素地があったのかもしれない。また、言葉というものに殊更深い意味を込めようとした日本人の精神性−例えば「言霊」という言葉に表れているような−も背景にあるような気がする。いずれにせよ、絵と文字・文章の連携を模索し続けて来た日本の文化的伝統からいって、パソコンやネットの世界でも、もっと両者の融合を図った作品が出て来てもいいような気がする。 ただ問題は、それを一人でやろうとすると、絵と文章の両方をこなさなければならないという点だ。「天は二物を与えず」というように、絵と文章両方の天分に恵まれた人はそういないから、これは中々容易なことではない。しかし、だからと言って、絵の上手い人と文章の上手い人が組んで二人で分業すれば解決するというものでもない。なぜなら、絵を描く人と文章を書く人とで、イメージを完全に一致させるのは難しいからだ。例えば、詩を書いた人が心に抱いているイメージ通りの絵を、別の人が描くというのは、そう簡単なことではない。普通はどこかでズレが生じるものだ。 しかし、そういう難しさはあるとしても、興味がある方なら努力してチャレンジする価値は十分ある分野だと、私は思っている。絵で表せないものでも文章では表現出来るかもしれないし、逆に、文章で表せなくとも絵で伝えられることもある。従って、両者を上手く融合すれば、表現できる世界は一気に広がるのではないか。まぁ、そう人にはお勧めしつつも、私は、毎回自分の絵の題名を付けるのにすら呻吟している有り様なので、当分は人の作品を見て応援するだけにしたい(笑)。 |
5月17日(金) 「リアリズムの追求」 |
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アクリル絵具やエア・ブラシといった新しい道具の出現とともに、写真のように精巧な絵を描く画家達が70〜80年代に次々と現れた。彼らの作品は「スーパーリアリズム」と呼ばれ、話題になった。記憶が定かではないが、そうした「スーパーリアリズム」の画家達を特集した展覧会が、都内のどこかのデパートであり、わざわざ見に行った覚えがある。 写真並みのリアルな描写にこだわる彼らの意図がどこにあるのかは必ずしも分からなかったが、1つ気付いたことは、彼らが画題に選んでいた風景や静物を写真で撮っても、これほどきれいには撮れないのではないか、ということだった。写真に入って来るゴミや汚れ、あるいは細部のボケといったものが、彼らの絵からは排除されており、美しい部分だけが取り出されている。「絵のようにきれいな写真」という形容句があるが、丁度そんな感じだった。 風景や静物、人物などの具象画を描く人なら、多かれ少なかれ、本物らしくリアルに描くことを意識しているはずだ。一生懸命猫を描いても犬やタヌキにしか見えなければ悲しい。だから、皆最初は、本物らしく描くにはどうすればいいのかを考え、練習をする。いくら個性的な表現にこだわっていても、具象画を描く人であれば、心のどこかでリアリズムを意識しているはずだ。もしリアリズムを完全に排除すれば、抽象画の領域に入って行ってしまう。 しかし、リアリズムをどこまで追求するかとなると、殆どの人は一定のところで妥協する。写真のようにリアルに描くための技術の習得というのは中々大変なので、誰しも「スーパーリアリズム」の画家ほどには本物らしさを追求しない、というか、したくとも出来ない。また、描き始めてみると絵に各人の個性が出始め、それが味のある表現に結びついて行くから、写真のようなリアリズムとは違った、自分なりの表現を求めていくことになる。 以上は、絵具を使った一般的な絵画の話であり、パソコンで絵を描くとなると、事情は少々異なる。3Dのコンピュータ・グラフィックス・ソフト(3DCGソフト)という、絵具の世界にはない秘密兵器があるからだ。絵具と筆で「スーパーリアリズム」を追求するのは難しいが、パソコンの世界では、3DCGソフトを使えば、絵の心得がない人でも簡単に「スーパーリアリズム」の作品を生み出せる。1万円台の3DCGソフトでも、マニュアル通りにやれば十分な出来栄えの作品が作れるので驚いてしまう。要するに、今までの絵画の世界ではごく一部の画家達のみしか到達出来なかった領域に、パソコンの世界では誰でも比較的簡単に踏み込めるのである。これは、アクリル絵具やエア・ブラシの登場以上に衝撃的なことである。 今や3DCGで作った静止画だと、並大抵のリアル感では驚かなくなった。遠い記憶の彼方にある「スーパーリアリズム」の展覧会の作品よりもリアルなCGが、ごく普通の雑誌広告に載っていたりするご時世である。私も以前、リアリズムの追求に熱心だった時期があり、水彩画を使って写真調の作品を描いていたが、今はもう完全にそういう気力は失せている。廉価版の3DCGソフトを買って来て、下手くそなりに自分で試作してみたところ、出来た作品の余りのリアルさと制作過程のあっけなさに驚いてしまったからである。それ以来、「リアリズムを追いかけるなら3DCGだな」と考えるようになった。あの「スーパーリアリズム」の画家達は、3DCGソフトの普及を横目に今でも描いているのだろうか。最近はとんと見ないが、少々気になってしまった。 |
5月21日(火) 「絵は自然の美を超えられるか」 |
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アメリカ中西部、グランド・キャニオンのサウス・リムに立つと、はるか15キロ先に対岸のノース・リムが見える。崖下を見下ろすと、1キロ近く下に細い糸のようにうねるコロラド川が見える。しかし、実際の川幅は60メートル以上ある。この風景が400キロ以上続く。コロラド川の浸食作用によりこの峡谷が完成するまで、約2億年かかったと言われている。その峡谷に日が沈み、日が昇る頃、岩肌の色は刻々と変わる。遥か先の地平線に稲妻が走るが、頭上には茜色に染まった夕焼け雲が漂っている。そこに立っていると、自然の美しさというより、地球というものについて考えさせられる。約2億年にわたる自然の営みの前に、人類の数千年の歴史など、何ほどのことでもない。 そういう圧倒的な風景の前に絵は無力である。グランド・キャニオンの雄大さ、美しさを描き切った傑作なんて、お目にかかったことがない。どれほど写実的に描いたところで、何ほどのことが伝えられるのだろうか。そういう風景に向かい合ったとき、私は、絵の限界というものについて、暫し考えさせられてしまう。 例えば夕焼けの富士山でもいい。眼前に紅く染まり行くその雄大な光景を見たとき、それを絵で表し切る自信はあるだろうか。圧倒されるほど美しい自然の風景を絵にすることは、大変難しい。「絵のように美しい光景」というが、それを絵に描くと、大抵つまらない絵になる。私自身の技量の限界も勿論あるのだろうが、どう描いたところで自然の美しさを超えられない壁のようなものを感じるのである。 世の中に富士山を描いた絵は沢山あるし、傑作と呼ばれるものも多いが、私個人は、一生懸命描いた本人には申し訳ないが、そのどれも本物の富士山にはかなわないと思っている。現実の風景を超えた美しさを持つ絵というのはごまんとあるが、グランド・キャニオンにせよ夕焼けの富士山にせよ、圧倒されるほど美しい風景に限って言えば、それを超えた絵というのはまず滅多にないのではないか。松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出たとき松島に立ち寄っているが、彼自身は一句も俳句を残していないのは有名である。「松島の美しさを眼前にして、とてもそれを句に表し切れないと感じて作るのを諦めた」という俗説があるが、何だかその気持ち、分かるような気がする。 ただ見方を変えると、絵に描けないような美しさが自然の中にあるというのは、素晴らしいことでもあるような気がする。自然の中には人間には到底及ばないものがあることを、教えてくれているのではないか。グランド・キャニオンのような風景を目の前にしたとき、我々は、息を呑むような迫力、陶酔感を覚えるような美しさに圧倒され、おごそかな気分になる。そういう自然への尊厳の念が、ときとして噴き出す人類のおごりへの戒めになっていると感じるのは、私だけだろうか。 |
5月23日(木) 「日本文化のこと、日本画のこと」 |
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仕事の関係でニューヨークに赴任したことがあるが、海外に行って思い知るのは、自分が如何に日本の伝統文化のことを知らないか、である。例えば、アメリカ人から「歌舞伎って、どういうものか」と訊かれても、正確に答えられない。「能」になると益々分からない。日本人同士なら「ほらあれですよ」で済むことが、外国人相手では一から説明する必要が出て来る。そうなると、語学の問題を横に置いて、まず日本語で基本からきちんと説明すること自体難しいことに気付く。要するに、知っているような気になっているだけで、正確には分かっていないのである。 このホームページを見に来て下さっている方は絵に関心のある方だと思うが、外国人から日本画や水墨画について説明を求められたら、きちんと答えられるだろうか。「そんなこと起こり得ないよ」と思うなかれ。今や、中学校の英語の補助教員やら何やらで、全国津々浦々、外国人がくまなく住んでいる。あなたの周りにだって、日本文化に興味のある外国人がいるかもしれない。彼らにしてみれば、日本人の描いた油絵なんかには興味がなく、日本画、水墨画といったエキゾチックなもの(大抵異文化の形容にはこの単語が使われる)について知りたいのだ。 答えは英語で、ということでなくてもいい。日本語でいいから、日本画や水墨画のことを全く知らない外国人に、基本的事項から正確に説明できるだろうか。大抵の人はギブ・アップだと思う。私の経験では、外国人から日本文化に関するごく初歩的なことを訊かれて答えられなかったときには、えもいわれぬ恥ずかしい思いに駆られる。その時に感じる恥ずかしさは、例えば「アインシュタインの相対性理論とは何か」を説明出来なかったときとは全く異なる。 その恥ずかしさの原因は、たまたまにせよ日本という国に生まれ育った者なら当然知っているはずのことを実は知らなかった、と気付かされることにある。誰しも、自分の周囲に空気のように存在する日本文化について、長年分かったつもりになっている。だから、外国人を前にして、実は何も分かっていなかったということがはっきりすると、少し大げさかもしれないが、日本人としての自分のアイデンティティーにどこかしら欠落があるような気分になる。 では何故、日本画とは何かという問に、日本語ですらまともに答えられないのだろうか。日本人なら誰しも、大抵の外国人よりは沢山日本画や水墨画を見ているはずである。しかし、印象派の絵を見るほどには、深い思い入れをもって見ていないというのが事実ではないか。例えば、モネの睡蓮の絵のモデルになった池を見に、ジヴェルニーにある彼のアトリエに行ったことのある人は結構いると思うが、近代日本画の礎を築いた横山大観、菱田春草、下村観山らが集って絵を描いた茨城県の五浦に行ったことのある人は少ないだろう。印象派の画家達が何を目指したかを知っている人は多いが、岡倉天心が何を目指したかを知っている人は少ないと思う。要するに、日本画に関心がない、ということだ。それなら、答えられなくても仕方ない。 ただ、と私は思うのである。日本人が伝えなくとも印象派のことは世界の中の誰かが伝えてくれるが、我々が伝えなければ日本画のことは誰も伝えてくれない。我々日本人が日本画や水墨画を捨て去るのは自由であるが、それがどんなものなのかを知りたい人は、世界の中に少なからずいるのではないか。例えば、日本の浮世絵を熱心に収集し続けた印象派の画家達のように…。 |
5月27日(月) 「絵を描く人の絵の見方」 |
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皆さんが絵を見る機会というと、どういう場合があるだろうか。展覧会に行く、というのが一般的に思い浮かぶケースだが、画集を見たり、テレビの美術関係の番組で見たり、はたまた最近では、インターネット上やCD-ROMで見ることも出来る。その中では、展覧会で本物を見るというのが一番恵まれた鑑賞方法だが、人気の展覧会となると、人ごみに揉まれながら遠くから作品を見学することになり、むしろ会場で買った図録を家に帰ってから開いた方が、落ち着いた気分で鮮明に作品を見ることが出来る、といった皮肉なケースも多々ある。 理想を言えば、周りに人のいない環境でゆったり間近に本物の作品を見たいものである。直接作品を見れば、その大きさを実感し、本物の色合いに触れることが出来る。と同時に、絵を描く者からすると、その作品がどう描かれているかを推察する手掛かりを与えられる、というメリットが加わる。 油絵の筆のタッチやマチエールといったものは、写真では中々確認しにくく、実際の作品を間近に見ないと分からない部分も多い。また、日本画だと、目を凝らして実物を見ると、うっすらと残っている下線や、絵具の下に隠れた箔なども見て取れる。私は、そういったものを見ていると、その絵を描いた画家を身近に感じられる。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」(ルーブル美術館)とかボッティチェリの「ヴィーナス誕生」(ウフィツィ美術館)といった超有名画は、セキュリティーが厳しいので間近まで迫れないが、ミレーの「落穂拾い」や「晩鐘」(共にオルセー美術館)のように、目の前まで迫って見ることが出来る名画は沢山ある。そういう名画を仔細に見ていて筆の跡など発見すると、画家の息遣いを間近に感じられるような気がする。「ここにこうやって筆を走らせたんだなぁ」などと感慨にふけりながら作品を見るというのは、実際の作品を目の前にしたときにのみ許される貴重な経験である。こういうひとときを持つことが出来れば、歴史上の名画も身近な存在となる。 他に展覧会で興味を引かれるものとして、たまに本作品とともに展示されている下絵、スケッチや、画家の制作風景を撮った写真パネルなどがある。こうしたものは普通の人なら素通りすることが多いかもしれないが、絵を描く人なら、じっくり見てしまうのではないか。たった1枚の絵を描くために取られた膨大なスケッチ、下絵に残された試行錯誤の跡、制作現場を写した写真で画家が見せる真剣勝負のまなざし、といったものは、天才と言われる画家がどれほどのエネルギーを一枚の絵に注いでいるのかを想像させてくれる貴重な資料である。こうしたものを見ていると、完璧に見える作品の背後にある画家の努力や苦労が垣間見え、一見神様のように見える有名画家も、自分と同じ人間だという当たり前の事実を改めて実感してしまう。これも、作品の筆跡を探る行為と同じ感覚かもしれない。 絵を描く作業は、楽しいことばかりではない。構図や色バランスで迷ったり、思ったようなイメージに仕上げられず悩んだりと、様々な苦労もある。そんなとき、天才画家達も、レベルは違いこそすれ、同じように制作作業に悩み、様々な努力を積み重ねたであろうことを思い出し、慰められることがある。絵を描く者は、そんな思いも込めながら、展覧会で絵を鑑賞しているのである。 「観客の喝采と何百というカメラのシャッター音によって締めくくられながら、ランナーが切るゴールのテープの陰には、めったに語られることのない、つらく孤独な練習の時間がある。」(グレタ・ウェイツ(ノルウェーのマラソン走者)) |
5月30日(木) 「お絵描きソフトの機能」 |
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私は「Paint Shop Pro」という廉価版ソフトと、タブレットと呼ばれるペン型の入力装置を使ってこのホームページの絵を制作しているのだが、時々、このソフトの使い方が、他の人と違っているのではないかと思うことがある。 パソコンで絵を描いている人のホームページには、ソフトの使用説明方々制作過程を克明に解説しているコーナー(いわゆる「チュートリアル」)があったりするのだが、それを見ていると、皆さん、ソフトの様々な機能を縦横無尽に駆使しておられて驚く。私は、そうした人々と比較すると、ソフトの特殊機能を余りに使っていないと痛感させられる。重宝しているのはレイヤー機能とか、ぼかし機能ぐらいか。あとは、極めて愚直にタブレットで線を描き、色を塗っている。 どうして自分のソフトの使い方が他の人と異なるのかを最近つらつら考えていて、ふと気付いたことがある。私がこういうアナログな描き方をしているのは、筆に絵具を付けて絵を描いていた過去の経験から抜け出せないからではないか。つまり、絵具で描く場合の技法・塗り方を思い出しながら描くから、愚直にタブレットを筆のように駆使し続けることになるのである。他方、ソフトの機能を自由自在に使っておられる方々は、そんなことを考えず、自分の頭の中にあるイメージを、ソフトの全機能を駆使してどう再現するか、という観点からアプローチしておられるのではないか。そうなると、タブレットで描いて一定の表現を得るのと、ソフトの特殊機能により一定の効果を出すのとは、全く対等の手段である。私の場合、タブレットで描くのがあくまでも主で、ソフトの機能を使うのはその補助手段に過ぎず、描ける限りはタブレットで描いてしまう。そして、大抵はそれでどうにかなる。 そうして考えると、ソフトの機能を自由自在に使っておられる方と私とでは、制作過程におけるソフトの特殊機能の位置付けが、完全に異なることになる。そこではたと気付いたのは、何故絵を描くのに高機能なソフトが重宝がられるか、ということである。 私は以前から、ソフトに附属している各種機能は、本来、写真のレタッチやロゴ作成のためのものであり、絵画制作で利用するのには向かないと、ずっと思い続けていた。だから、絵を描くというだけなら、高機能だが高価なソフトは余り意味がないと考えていた。私は実際に使い比べたことがないので断定は出来ないが、私のようなアナログな描き方をしている者から見れば、おそらく「Paint Shop Pro」と「Photoshop」とでは、余り使い勝手に差がないのではないか。それなのに数万円の価格差があるというのは納得がいかない。しかし、絵を描くためにあらゆる機能を駆使する立場に立てば、ある程度値は張っても、機能は豊富であるに越したことはない。これは、日本画で1本1万円以上する連筆や塗刷毛を何種類もそろえたくなる気持ちと、一脈通ずるものがある。 本当にバカげたことだが、こんなごく単純なことを、私は漸く最近になって気付いた。パソコンで絵を描くというのは、思いのほか奥の深い世界であることが分かりかけて来た気がする。 |
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