パソコン絵画徒然草

== 5月に徒然なるまま考えたこと ==





5月 5日(水) 「過ぎたるは及ばざるがごとし」

 長く絵を描いていると、描き方にその人のクセが反映するようになる。風景画で言えば、山や森の表現の仕方、草地や木の描き方などに、その人らしい個性がにじみ出る。絵の一部分を見ただけで「この人の絵ではないか」と推測できることも多い。

 私自身も描き方のクセを持っている。昔からそうだが、だいたい細かく描き込んでいくタイプである。最初に太筆でざっくりと配色してからは、もっぱら細筆で描き進めていた記憶がある。パソコンで絵を描くと、筆はいつも同じ入力ペンであるが、線の太さはソフトの機能で自在に変えられるので、仕上げに向けて線はどんどん細くなる。最後の方は、最小単位の1ピクセルの線を使っている。

 パソコンで描くようになってちょっと困ったことは、絵具と筆で描くのと違って、いつまでも描き込み続けられるという点である。絵具だと、複数の色を混ぜて作った色は、翌日になると再現できない。従って、同じ色を使う個所は、一旦作った絵具で一度に描き切ってしまわねばならない。翌日同じ色で加筆することは不可能だからである。これがパソコンだと、1年後でも同じ色を瞬時に再現できる。つまり、凝り始めると、同じ色で永遠に描き加えられることになる。そして、幸か不幸か、私は凝り性なのである。

 最初の頃は、スピード感を持ってサラリと仕上げていたパソコン絵画も、次第に1枚々々の制作に時間をかけるようになり、表現手法はどんどん細かくなっていった。お蔭でリアリティーはそれなりに向上したと自負しているが、いつの頃からか、細かく描き込み過ぎて、表現がくどく感じられるようになった。

 例えば、私は草地に一本々々草を描き込んでしまうタイプである。筆と絵具で描いていた頃からそうだったが、上で述べたように絵具では二度と同じ色を作り出せないから、描き込み続けるのにも限度がある。結果として、細かさもほどよいところで止まっていた。それに比べ、パソコン絵画では果てしなく描き込み続けられるから、どんどん細かく草を生やすことが出来る。しかし、草の描き込みは、一定範囲を超えると、塗りつぶしたような感じになってしまう。よくボールペンの宣伝などで、紙が真っ黒になるまで書き続けてもインクボテやかすれがないといった実演があるが、細かく描き過ぎた草地は、このボールペン実演後の紙と同じように、何が描いてあるのかわけの分からない状態になる。かくして、これはどうしたものかと悩む羽目に陥るのである。

 振り子は、一つの方向に触り切った次の瞬間に、元の方向に戻り始める。私の細かく描き込むクセも、どうやら振り子が振り切ったところまで来てしまったようで、別の方向に戻らざるを得なくなった。ざっくり描きつつ細かさを失わない。それでいて、くどくない。難しい表現を求めて、再び描き直しを試みている。一旦細かく描き込んだ草をぼかしたり、ソフトの機能を使って特殊なエフェックトをかけたりして、表現を変える方法を探る日々である。

 どうやら描きグセというのは、限界を超えて追求してはいけないもののようである。諺でも言うではないか、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と…。




5月13日(木) 「絵を描くスタイル」

 外出には絶好の季節となり、休みの日に公園など散歩すると大変心地よい。新緑が目に鮮やかで、時折爽やかな風が吹くこともあるし、歌うような小鳥の声を聞くこともある。仕事のことは暫し忘れ、周囲の自然を眺めるうちに、自分がリラックスしていくのが分かる。こんなささやかなことで気分転換できるとは、安上がりな人間なのかもしれない。

 この季節、公園を散歩していて気付くのは、戸外で絵画制作に励む人が増えたということである。冬場には、吹きさらしで絵を描いている人など、まず見掛けることがなかったが、いよいよ絵描きの季節到来ということであろう。眺めの良い場所で、スケッチブックを開く人やイーゼルを立ててキャンバスを構える人が沢山いる。中でもにぎやかなのは、グループで絵を描きに来ている人達で、三々五々好みの場所に腰掛け、楽しそうに筆を動かしている。絵画教室のスケッチ会なのか、絵画制作の同好会なのか分からないが、こうしたグループは色々な場所で何度も見掛ける。

 しかし、私自身の絵画制作を振り返ると、グループで絵を描きに行ったことは数えるほどしかない。大学時代、美術部でクロッキーの会をやったり、何人かで郊外まで連れ立ってスケッチに行ったことはあったが、それはむしろ例外の部類で、普段は一人で絵を描いていた。スケッチに出掛けるのも一人で、気軽にふらりと出掛けて、気に入った場所でスケッチブックを開く。持って帰って来たスケッチを元に本制作をするのも勿論一人で、深夜黙々と絵筆を取っていた。私にとっての絵画制作は、孤独な作業である。

 ただ、私は、絵は一人で描くべきだという主張の持ち主ではない。同好の士と一緒に絵を描けば、各人のモチーフの選び方、構図の取り方、表現の仕方、画風など、それぞれお互いに刺激し合って、絵の世界が広がるというメリットがあろう。眺めのいい場所で、ちょっとした絵画談義などしながらスケッチブックを広げれば、仲間同士楽しいひとときが過ごせるに違いない。所詮は趣味の世界だから、楽しみながら描くのが一番である。

 ではどうして私はそうしないのかというと、同好の士がいないからではなく、私が描きたい絵には、一人で制作するスタイルが似合っている気がするからだ。私は、自分の見た自然を核にイメージを膨らませて絵を描いているが、実際に描く風景は現実にあるものではなく、結局私の心の中にあるものである。私はそれを具体的イメージとして画面に定着させるため、私自身の心と向き合わねばならない。そして、心の奥底からイメージをすくい上げなければならない。それは、仲間に助けを求められない極めて孤独な作業である。

 絵の制作スタイルは、各人まちまちである。仲間同士で楽しく描くのと、自分と向き合いながら孤独に描くのと、どちらが良いのか比較すべき次元の話ではない。自分が描こうとするものに合ったスタイルを取ればいいわけで、これが万人にとってベストという選択肢はないのだと思う。

 私はうららかな春の日に、公園でスケッチブックを広げる人達を見ながら、そんなことを思った。私は今後も、心の中からイメージが湧き上がる限り、今のような孤独な制作スタイルを続けるのだろう。そしておそらく、あの楽しそうに談笑しながら絵を描くグループの中に入ることはないのではないか。ふとそんな予感がした。




5月18日(火) 「プロとアマチュア」

 この「休日画廊」も、開設以来既に2年半が経つ。ネットの世界というのは不思議なもので、ハンドルネームでやり取りする匿名の世界なので、ホームページを開設している管理人が、現実世界では何をしているのやら分からないのが普通である。

 コンピューター・グラフィックス(CG)の作品を展示しているサイトでも、制作者がプロなのかアマチュアなのか、一見すると分からないことが多い。そういう意味では、実に区分の曖昧な世界であるし、あるいは、閲覧者の方々がプロ・アマチュアのへだてなく、自分の好みでサイトにアクセスして下さるという点で、平等な世界と言えるかもしれない。例えば、現実の世界であれば、プロが画廊を借りて作品を展示するのと、アマチュアがフリーマーケットのようなところで自分の絵をシートの上に並べるのとだと、見に来る人の心構えや接し方は、それなりに違うはずである。しかし、ネット上では、閲覧者はホームページの構えや作りにさしてこだわることなく、素直に作品を見る。その上で、どんな人が制作しているか興味が湧くと、プロフィールを見る。そこでプロかアマチュアかを知る。ネット上では、銀座の画廊と公園のフリーマーケットとの間に生じるような展示環境の違いがない。プロであってもアマチュアであっても、展示スペースは、所詮同じサーバーの中にある。単に展示作品の質が、勝負の分かれ目なのである。今はやりの実力主義というヤツである。

 私の場合は、本職は別にあって完全な趣味でサイトを開設しているのだが、過去何度かお仕事の依頼をメールで頂いたことがある。また、イラストレーター年鑑みたいなものに掲載しないかとか、プロ向けの仕事受注用ポータル・サイトのようなものに参加しないかと誘われたりもする。そのたびにお断りしているのだが、ここまでプロとアマチュアが混在して取り違えられる世界は珍しいのではないかと感心する。そして、ふと、ここで仕事の依頼を受け報酬を得たりすると、私は形式的に「プロのイラストレ−ター」になってしまうのだろうかと、不思議な思いに駆られるのである。

 私が従来イメージしていたプロのイラストレーターというのは、デザイン関係の会社に所属しているか、独立してスタジオのようなものを構えているか、いずれにせよそれらしい「形」を持っている人だった。従って、普通の家の片隅にパソコンを置いて、日常生活の合間にしみじみと制作している私のような一般市民であっても、何がしか収入を得て形式的にプロのイラストレーターになれる可能性があるというのは、何とも想像しがたいことであった。しかし実際には、ネットの世界においてプロのイラストレーターを名乗る人の幾ばくかは、もしかしたら、そんな人達なのかもしれないと、ふと気付いたのである。

 私は「休日画廊」を運営しつつ、様々な人とネット上で交流し、色々なサイトに出掛けるうちに、次第にCGの世界における「プロ」の概念が曖昧なものに変わっていくのを感じた。やはり、このネットの世界は、バーチャル・リアリティー(仮想現実)と呼ばれるにふさわしいところなのかもしれない。




5月26日(水) 「ファイン・チューニング」

 4月以降外出の機会も多くなり、絵の題材に恵まれる季節となった。さすがに5月も下旬になると、蒸し暑さを感じる日も増えて来たが、そぞろ歩くのにもってこいの日は依然多い。実のところ、こうして気持ちよく散歩できる季節は、1年のうちでそう長くはない。休日に散歩がてら公園に出掛けたり、軽いサイクリングで遠出した折りなど、絵の構想を思い付くような小さな感動と出くわすことが多く、絵画制作を趣味にする者にとって、まことに嬉しい季節である。

 最近の私の絵画制作方法は、初めてパソコンを使って絵を描き始めた頃とは、随分変わって来た。最初の頃は、1枚当たりの制作に費やす時間が相当短かった。ものによっては、1時間かかっていない作品もあった。別に雑に描いていたわけではなく、パソコンで描く絵というのは、そういう手軽さが身上だと思っていたのである。いつでも思い付いたときにパソコンを立ち上げ、さっと描く。絵の対象に対する新鮮な感動が消えぬうちに、瞬間冷凍パックにするがごとく一気に描き上げる。絵具と筆で描いていたのでは到底出来ない技であった。

 しかし、最近の私は、描き急がず、じっくり作品に取り組むようになっている。いつの頃からそうなったのかはよく覚えていない。ただ、作品に時間をかけるようになってから、1週間に2枚も3枚も描くような芸当は難しくなった。「休日画廊」立ち上げの頃に、毎週2枚、3枚と更新していたのが、いつの間にやら、毎週せいぜい1枚の更新となったのは、こういう事情があってのことである。線画を重視した淡彩や、試しに描く習作は別にして、風景にせよ静物にせよ、1枚当たりにかける労力は、今やそれなりのものになっている。お蔭で、花などは多少季節感がずれることが多いが、作品の質向上のためにはそれも致し方ないことと割り切っている。

 そうは言っても、描き始める最初のステップでは、今でもまとまった時間を割いて、かなりの段階まで一度に描き進めることにしている。普通はまとめて2時間以上かけて、最低6割、ものによっては8割方、一気に描いてしまう。対象に対するみずみずしい感動を、瞬間冷凍パックよろしく画面に封じ込めようという意気込みだけは、依然失っていないつもりである。従って、この最初の段階で、構図も色合いもタッチもだいたい決まる。しかし、問題はそれからである。

 私の最近の制作過程では、最後の仕上げプロセスでかなり時間がかかっている。細部を描き込み、色合いのファイン・チューニングを行い、タッチも微調整する。ここで最後の2〜3割の部分が出来るのだが、時間的には、最初の6〜7割描くときより手間がかかることもある。更に、この最終仕上げプロセスを何回にも分けて進めるものだから、時期的にも完成は後ずれしていくこととなる。

 ただ、この最終調整過程は、描いている本人としては中々楽しい。個人的には、作品に隠し味を加えるような意識で仕上げている。草の生える様を細かく描き込み、背景の森に陰影を加えて厚みを付ける。湖面の色と波の感じを調整し、空の微妙な色の変化を加える。それらの一つ々々は、決して鑑賞者の目を引きつけるような派手な演出ではないのだが、そうした細部の描き込みが幾つも重ね合わさって、画面に臨場感が生まれる。

 こんなふうにして絵を描いていると、一つ々々の作品へのこだわりがとても大切だと感じる。仕上げの最後の瞬間まで気を抜かずに丁寧に筆を入れていくためには、対象へのこだわりが持続している必要がある。言い換えれば、感動を維持し続けるということである。結局絵画制作は、最後は必ずそこに行き着く。作画技術だけ磨いて機械のように描くわけにはいかないのは、そのためではないかと私は思っている。




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