パソコン絵画徒然草
== 6月に徒然なるまま考えたこと ==
6月 5日(木) 「季節感のない絵」 |
|
私は毎週のように作品を更新し、たびたびこの「パソコン絵画徒然草」に駄文を追加しているものだから、当サイト閲覧者の中には、さぞかし私が絵画三昧の生活をしているのではないかと誤解しておられる方がいらっしゃるかもしれない。しかし現実には、一日の大半は、絵とは関係ない時間を過ごしている。休日もまた然りである。「休日画家」は、実のところ休日のほんの僅かの時間の姿でしかない。 更新する作品についても、休日の昼間から一日潰して描いているわけではない。僅かな空きの時間とか、家人が寝静まった深夜とかに、パソコンに向かって少しずつ描いていくのが、最近の制作スタイルである。お蔭で、幾つもの仕掛かり品を常時抱え、同時並行的に制作作業を進めている。今日はこちらの絵に手を加え、明日はあっちの絵に加筆する、というやり方で、少しずつ絵が出来上がっていく。それでも、元来が速筆なので、そう長い期間を要せずに作品は仕上がり、何とか季節感が大きくずれないうちにホームページにアップロード出来ている。 空き時間に少しずつ仕上げていくという方法で絵を描いていると、季節感をどこまで大切にするのかは難しい課題である。初夏に雪景色の絵を公開するとか、秋も深まった頃にひまわりの絵をアップロードするといった事態は、出来れば個人的に避けたいと考えている。ただ、そうならないように作品の仕上げを疎かにするという手抜きはしたくない。この点で両方のバランスをどの辺りで調整するかは、時間的に制約のあるアマチュア画家にとって、頭の痛い問題である。 そういう悩みを抱えているからではないのだが、最近、季節感のない風景画というものについて考えることがある。見る人によって、春とも秋とも取れるような絵である。一瞬簡単そうに思うのだが、風景画である限り、どこかに季節感が滲み出る。画面の片隅に僅かに緑を描き込んだだけで、その色からして冬の風景ではないなと、見る人は思うだろう。水の色一つとっても、夏と冬では異なるから、そこはかとなく季節感がかもし出される。 こういう話をすると、何故季節感を消さなくてはいけないのかと、不思議に思われる向きもあろうが、私は、見る人の想像の自由度を上げるという意味で、面白い試みではないかと思うのだ。これは、季節感だけの問題ではない。土地感覚や時間感覚のない絵というのも、見る人の想像の範囲を広げることになる。季節も時間も場所も、全ての解釈を見る者に委ねれば、いわば普遍的な絵が出来上がる。 例えば、京都の金閣寺の絵を描いたとしよう。これを見る人は、自ら金閣寺の前に立った感覚で作品を鑑賞するのだが、どうあがいても金閣寺からは逃れられない。しかし、林の向こうにお寺の屋根だけが見えているような絵だと、その寺がどういう場所にある、どういう寺かは、見る人の解釈に委ねられる。ある人は、古都奈良の歴史ある寺院を想像するかもしれないし、またある人は、自分の故郷の寺を懐かしく思い浮かべるかもしれない。土地感覚のない絵というのは、そういう自由度の高い鑑賞の仕方が出来る。これを季節感覚にも取り入れてみると、新しい風景画の可能性が開けるのではないかと、私は時々思う。勿論、副次的メリットとして、いつ「休日画廊」にアップロードしても、季節的な違和感がないということもあるのだが…。 しかし、季節感のない風景画とはどんなものなのだろうか。一つ思い浮かぶのは、建物を描いた絵だが、画面に空が入ると、その色に季節感が出る可能性がある。では、室内か。だが、それでは殆ど静物画と変わらなくなる。海の波というのも考えたが、海の色と波の荒さから季節感を完全に取り除くのは難しい。 色々考えたものの、未だに答えは見つからない。あるいは、そんなものはないのかもしれない。ただ、長い絵画史の中で、それまでなかったタイプの絵が幾度も現れ、人々を驚かせて来たのも事実である。夢のようなことを考えるのも、絵の楽しみのうちと割り切り、しばし想像の世界に遊んでみたい。 |
6月10日(火) 「三つ子の魂百まで」 |
|
「三つ子の魂百まで」という諺があるが、絵画制作の世界でも同じようなことがあるのではないかと思う。最初に絵の世界に入った頃の何かが、ずっと後々まで付いて回るという事例について言っているのだが、それは私だけのことなのか、皆さんも多かれ少なかれ同じような傾向にあるのか、そこのところはよく分からない。私の場合、比較的初期の段階で覚えた技法を、後々まで引きずりながら、絵を描いてきた経緯がある。 それはそもそも、小学生の頃まで遡る。小学校の図工の先生は水彩画の名手だった。グループ展などもやっておられて、小学生の私の目から見ると驚異的な水準の作品を描いておられた。ある時、図工の時間に課題となっていた写生を仕上げていると、先生が寄って来られて、空の描き方を指導してくれた。 先生は、絵具で汚れた筆洗いバケツに漬けられていた太目の筆を抜き取ると、絵具も付けずに画用紙に筆を置き、汚れた水で画用紙を湿らせていった。そして、絵具箱から白、黒、黄土色の三色のチューブを取るとパレットに絵具を絞り出し、微妙に黄土色の混じった灰色を作ると、筆にたっぷりと染み込ませ、生乾きの空の部分に雲を描いていった。うっすらと湿った紙のうえで水彩絵具が滲み、たちまち雲となった。完全には混ぜ合わされていない3色の絵具がほどけるようにして濃淡が生まれ、雲の立体感が現れた。その間、僅か5分もない。傍らで見ていた私には、マジックのように見えた。いつの間にか集まってきたクラスメートは、絵の周りに人垣を作り歓声を上げた。子供心に、私はこのテクニックにしびれた。 その後、私は絵具と水とを紙の上で絡め合わせて滲ませるテクニックを多用するようになった。絵具同士を完全に混ぜ合わせずに紙に塗って、色合いに変化を出す描き方も真似た。いずれも見様見真似で、未熟な小学生の腕前では成功したとは言いがたかったが、いつかは先生が描いてくれたような雲を、自分の力で描きたいと思いながら筆を走らせた。 私がその後、大学で美術部に入ったとき、周りの人々が油絵を描いている中で、日本画や水墨画、水彩画といった水との親和性の高い画材に傾倒して行ったのも、あのときの水を巧みに使った先生のテクニックにこだわり続けたからだったのではないかと、今になって思う。特に、水と墨だけというシンプルな世界である水墨画には、「破墨」「發墨」「垂らし込み」といった、その種のテクニックが満載されていて、ここに水を使った技法のオリジナルがあったのかと気付いた。図工の先生の巧みな筆さばきを見てから、実に10年後にして漸くたどり着いた世界だった。 そんなふうにして私の技法は磨かれていったのだが、一度深く入り込んだ特定の技法から抜け出すのは、実は簡単なことではない。ゴルフをやったことのある人なら分かるだろうが、スイングを変えるのと同じである。自分のスイングではこれ以上の飛距離は望めないと分かって、より飛距離の出るスイングに改造しようとすると、大抵はスランプに陥り、ゴルフは目茶々々になる。プロ・ゴルファーも陥る恐ろしい罠である。 私の場合、パソコンで絵を描くようになって、昔から得意としていたこの技法が物理的に使えなくなった。当たり前のことながら、パソコン画面に水はまけない。描画ソフトが持つ「滲み機能」やエアブラシは、機械的に「滲み」に似せた効果を作り出してくれるが、機械任せなので微妙なコントロールは利かず、私が長年かけて身に付けたテクニックの代わりには、とてもならなかった。この失った4番バッターの穴は大きく、パソコンで一から描き方を組み立て直していくのに、随分と時間がかかった。 今では、パソコン・ソフトを使っても、微妙な滲みやぼかしは、かなり思い通りに表現出来るようになったが、時々、あの水を引いて湿らせた紙に、絵具がしっとりと絡み合いながら滲んでいく様が、懐かしく思い出されるのである。 |
6月18日(水) 「遠い日々」 |
|
私は時々、散歩がてら「小石川植物園」に足を運ぶ。植物の勉強のためではなく、森の中を散策し、季節に応じた自然の移り変わりを見て楽しむためである。当ホームページに掲載している絵にも、この植物園内の景色から題材を取ったものが沢山ある。 「小石川植物園」が面白いのは、園内のあちらこちらに、歴史的な意味合いを持つ史跡が数多くあることである。それらは当然のことながら、植物に関係あるものが多い。歴史をたどれば、元々は徳川幕府が作った「小石川御薬園」という薬草の生育所だったところであり、日本史にも出て来る江戸時代の「小石川療養所」もここにあった。今でも園内には、当時の井戸の跡が残っている。 しかし、植物とは関係のない史跡も幾つかある。今の東大医学部の前身である「旧東京医学校本館」の建物が、本郷からここに移築されているのは有名であり、園の目玉の1つである。ただ、私がここで書きたいのはそのことではない。実は、この植物園は、僅かながら日本の近代絵画史の舞台としても登場する。それに関する史跡と言えるものは何も残っていないし、ここを散策する大半の方も、まずはご存知あるまい。 江戸幕府が滅びて明治になった頃、幕府や宮廷の庇護の下で育って来た日本画は、一時衰退の道をたどる。それを救ったのは、日本人ではなく、米国からやって来た哲学教師アーネスト・フェノロサだった。フェノロサは、東京帝大の教壇に立つ傍ら、日本美術を研究し、その魅力に取り付かれる。彼は、日本画を後世に伝えるため、日本画制作を教える国立の美術学校の設立を思い立つ。これが東京美術学校、現在の東京芸術大学である。 フェノロサは、東京美術学校で日本画の主任教官となる画家を探し、狩野派の奥絵師だった狩野芳崖に白羽の矢を立てる。早速フェノロサは、通訳として東京帝大の学生だった岡倉天心を従え、当時貧困に喘いでいた芳崖の家を訪ねるが、激しい気性の持ち主だった芳崖は、「外国人に日本画のことなんか分かるもんか」と一喝し、フェノロサと天心を追い返してしまう。それでもフェノロサは諦めず、狩野派の絵師に口を利いてもらい、芳崖を再訪する。色々話し合ううちに、芳崖はフェノロサに同調し、東京美術学校設立に尽力することになる。芳崖が、初代総理大臣の伊藤博文に、東京美術学校設立を直訴した話は有名らしい。 東京美術学校の設立が決まった後、その設立準備室が置かれたのが、実は、この「小石川植物園」なのである。その建物が一体園内のどこにあったのか、私は知らない。園内の案内図にも、何の記述もない。 ところで、東京美術学校設立に最後まで尽力した狩野芳崖は、設立準備室に詰め、晩年まで一枚の絵を描いていた。死の直前まで彼が描いていたその絵が、有名な「悲母観音」である。教科書などにも出ているので、誰でも一度は目にしたことがあるはずだ。しかし運命とは皮肉なもので、芳崖は、翌年2月の東京美術学校設立を見ることなく、明治21年11月に「悲母観音」を描き上げて、肺結核で亡くなる。傑作として名高い「悲母観音」は、そういういわれの絵であり、今でも東京芸大が所蔵している。 東京美術学校設立の前年になってにわかに絵描きを志した英語学校の学生が、この「小石川植物園」にあった芳崖の執務室を訪ねて来る。学生の名は横山秀麿、後の横山大観である。 私は、「小石川植物園」を散歩しながら、時々この話を思い出す。この園内のどこかで、日本画の歴史に燦然と輝く巨匠達が出会い、近代日本画の第一歩が始まった。現代の日本画壇は、多かれ少なかれ、そうした人々の系譜に遠くつながる画家達で構成されている。園内にそそり立つ数々の巨木は、芳崖を訪ねる若き日の大観の姿を見ていたに違いないが、現在の案内板の中には、そんな記憶の断片すら残っていない。ただ私のような物好きが、当時のエピソードを思い出しながら、往時を偲ぶのみである。 |
6月26日(木) 「Because it is there.」 |
|
時々新聞で、山登りに行った人が行方不明になったという記事を読む。本格的な登山でなくても、軽装でハイキングに出掛け山道に迷う人もいるようだ。多くの場合は捜索隊に発見されて無事下山されているようだが、不幸にして無言の帰宅となるケースもある。 人は何故山に登るのか。「そこに山があるからだ(Because it is there.)」と答えたのは、英国の登山家ジョージ・マロリーである。彼は、未踏峰だったエベレストの登頂に挑戦するため、英国山岳会が1920年代に派遣した計3回の遠征隊に参加し、3度目に山頂を目指して行方不明となった。この言葉は、エベレスト制覇にこだわる彼に、新聞記者が、何故エベレストに登ろうとするのかと尋ねた際の、あまりにも有名な答えである。 冒険には全く縁のない私だが、高校生の頃、冒険家の植村直巳氏の話を聞く機会があった。彼は、高校生だった私よりも小柄で、弁舌も爽やかではなかった。訥々とした語り口で、今までの冒険のエピソードを語ってくれたのだが、私にはどうしても、何故この朴訥で控え目な感じの人物が飽くなき冒険に挑戦し続けるのか、正直分からなかった。そんな彼も、その後アラスカのマッキンリーで消息を絶った。冒険ごとには余り関心のない私だったが、植村直巳氏は見ず知らずの赤の他人というわけではなかったため、少々ショックだった。 人類は長い間、自然を征服しようと飽くなき挑戦を続けて来た。それが何故命を賭すに値する行為なのかは、私には分からない。自分より強いもの、容易に組み伏せないものを打ち負かしたいという動物的な本能なのだろうか。あるいは、絶対的なものに向かい合うことで、自分の力の極限を試してみたいというチャレンジ精神なのだろうか。しかし結局のところ、自然は、我々が命と引き換えにしても、なお手に負えない存在ということなのだろう。おそらく、そうであるが故に、我々の祖先は古来より、自然を恐れ、崇拝して来たのに違いない。 以前聴いた講演で、梅原猛氏がこんなことを言っていた。日本全国に建っている神社の本質はその建物にあるのではなく、背後にある森にある。緑の無いお寺はあっても、森を持たない神社はない。おそらく、我々の祖先が木の実を採集し、狩りをして暮らしていた時代に、森に対して持っていた感謝と恐れが、神社という形を取って、信仰の対象になったのだろう。だから神社は、木々も含めて敷地自体が聖域である。 梅原猛氏の話を聞いていて、ふと思い出したのだが、子供時代、カブト虫やクワガタ虫を採りに山や森の奥深くに朝早く一人で分け入った際、奇妙な感覚を覚えたことが一度ならずあった。別に熊が出るとか、マムシがいるとかいうことではないのだが、大袈裟に言えば、私一人くらい容易に山や森に飲み込まれて消えてしまうのではないかという、潜在的な恐怖である。子供特有の原始的なおびえと言ってしまえばそれまでだが、遠い昔、我々の祖先が森に入って行ったときに抱いた感覚と、根は同じなのかもしれない。日本に古くから伝わる「山中の妖怪」の類も、こうした本能的な恐れがベースとなって生まれた話ではなかろうか。 私達が画題として向き合う自然には、こうしたもう1つの顔があることを、私は時々思い出す。単に美しいというだけでなく、自然は時として、我々人類を寄せ付けない厳しさや、原始的な畏怖を湧き上がらせる神秘的な力を持っている。そして、我々が自然の風景へと惹き寄せられるのは、その美しさの背景に、そうした畏怖や尊厳が密かに息づいているからではないだろうか。単に美しいということなら、色を組み合わせて作る人工的なデザインの方が美しいかもしれない。しかし、自然は、我々を超越し圧倒するような、ある種の力を持っている。人工的なデザインには、それがないのである。 そうしてつらつら考えてみると、冒頭で紹介したジョージ・マロリーの言葉には、とても深い意味合いが隠されているような気がするのだが、如何だろうか。 |
目次ページに戻る | 先頭ページに戻る |
(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.