パソコン絵画徒然草

== 6月に徒然なるまま考えたこと ==





6月 2日(火) 「道具の記憶」

 道具を使って何かする人にとって、日頃使い慣れている手持ちの道具は、何物にも代え難い貴重な存在であることが多い。それがプロであるなら、なお更のことであろう。職人は、自分の使う道具を決して他人に触らせないと聞く。それが特注の高価なものでなくともである。おそらく職人にとっての道具とは、身体の一部でもあるのだろう。

 仕事に関係のない一般的な品々でも、何がしか代替のきかない大切なものがある。書き心地のいい万年筆であったり、使い勝手のいい小物入れであったり…。卑近な例でいえば、耳かきであったり爪切りであったりする場合もある。寝心地のいい枕ということもあるだろう。それらは多くの場合、高価なものではない。だから、デパートや専門店に行けば、幾らでも代替品が手に入りそうなのだが、買い換えてみるとどうもしっくり来ないことが多い。何かが微妙に違うのである。

 趣味の世界でも同様のことがある。私の場合、筆と絵具で絵を描いていた頃、どうしても代替のきかない筆があった。さして高価な筆ではなく、ちょっといい感じだと思って買ったものだったが、その後古くなって買い換えようとしたら、幾ら探してもしっくり来るものがない。軸の竹が割れて少々みすぼらしい姿になっていたが、そのまま使い続け、今でも筆入れの中に鎮座ましましている。

 ところが、パソコン絵画の世界では、こうしたこだわりの品がない。このモニターでないとダメだとか、このタブレットでないと描けないといったことがなく、代替が幾らでも利く。私の場合、タブレットは買い換えていないが、モニターは3台目である。しかし、何ら不自由を覚えたことはない。タブレットは新しい型の製品の方が良さそうなのだが、今のが壊れないから、そのまま使い続けているだけである。おそらく、今のが故障したら、躊躇なく買い換えるであろう。描画ソフトに至っては、新しくバージョンアップするごとに入れ替えている。何回バージョンアップしても、前の版に戻したいと思ったことはなく、入れ替えるたびに便利になっていくなぁと、いつも歓迎の姿勢で臨んでいる。どうしてパソコンの場合には、個々の道具への愛着が湧かないのかよく分からないのだが、いずれも大量生産の画一的工業製品だからかもしれない。

 ただ、考えてみれば、こうした趣味の世界に、愛着の一品がないというのは、少々寂しい気もする。上述した絵筆の場合、私は愛着の品を手にすると、絵を描く際の心地よい緊張感が湧いてくる。あるいは、またいい作品が描けそうな予感がすることもある。それは、私自身が長らくそれを使って絵を描いて来た記憶が、ほのかに手に残っているからだろう。手に馴染んだ道具というのは、そうした貴重な記憶を呼び起こす誘因材の役割をしている。

 パソコンで絵を描きながら、私は道具について時々考える。幾らでも替えがあるものは、確かに便利で、壊れたときのことを考えると安心感がある。しかし、それは裏を返せば、大量生産の画一的な工業製品だからこそ可能なのである。そして残念ながら、そういう道具には、描き手の魂は宿らない。幾ら手に持ってみても、愛着の一品から湧き出すような霊感は宿らないのである。




6月 9日(水) 「定規とフリーハンド」

 小学校の図工の時間に、絵を描く際に定規で線を引くのはダメだと先生に教えられた。当時は今と違って、森や山、湖といった純粋の自然のみを題材にした絵を描くことはなく、もっぱら建物だとか室内の様子だとか、人工的な物が絵の対象だった。人工の建造物は、主に直線で構成されている。ところが、画用紙の上にフリーハンドで直線をきれいに引くのは中々難しい。しかし、建物を描くとなると、直線がきれいに引けなければ、パースが狂って建物の外観が歪んでしまう。そこで子供心に定規で線を引きたくなるのだが、図工の先生はそれを頑として認めなかった。

 先生が小学生に対して、そこまでこだわった理由はよく分からない。自分の手できれいに線を引く技術を高めさせたいという狙いがあったのかもしれないし、絵を描くのに定規で線を引くのは邪道だという絵画哲学の持ち主だったのかもしれない。確かに、絵は手作りの暖かみが身上だから、それぞれの線に思いを込めながら丁寧に描く方が良いには違いない。

 先生の教えの趣旨が何だったのか正確に分からないまま、私は指示に従ってつたない線を引き続け、その描き方はその後も引き継がれて今に至っている。本格的に絵を描くようになってから、私は定規を使うことが絵画制作の邪道というわけではなく、昔からそのための道具があることまで知った。しかし、結局定規を使うことはなく、フリーハンドにこだわり続けた。どうしてもきれいで長い直線を引きたいときは、下絵だけ定規で薄く線を引き、その上を筆でなぞって描いた。出来た線は概ねまっすぐだが、うねったり曲がったりしているところも出て来る。しかし、それでも構わないと思った。

 ところで、パソコン絵画の世界では、ソフトの機能でまっすぐな線を引くことが出来る。いわゆる「ベクターグラフィックス」とか「ドロー」と呼ばれる機能で、線を引きたい両端をマウスで指定すると、パソコンがその間に直線を引いてくれる。定規で線を引くより操作が楽で、パソコンで絵を描いている人の多くが、この機能を使っているのではないかと思う。私も試しに線を引いてみて、まことに使い勝手のよい機能だと感嘆した。そこで迷いが生じた。今まで線描きはフリーハンドでやって来たが、パソコンで描くようになったのだから、この先はドロー機能に頼ってもいいのではないか。

 パソコンで描く絵は、制作環境が筆と絵具で描く場合と根本的に異なる。完全にデジタルな世界であれば、描き方もデジタルで良いのではないかと思ったりもした。取り敢えず、幾つかの作品にドローで線を引いてみた。しかし、どうもしっくり来ない。他の線がフリーハンドだから、機械的に引かれたドローの線が妙に目立って座りが悪いのである。ドローで全て統一すれば違和感は生じないのだろうが、森や木、草地といったものをドローで描くのは難しい。仮りに描けたとしても、絵の雰囲気はガラリと変わる。色々迷った挙げ句、やはり出来るだけフリーハンドで描こうという結論に達した。フリーハンドが難しい場合には、一旦下書きとしてドローで線を引き、その上に別レイヤーを作り、フリーハンドで本書きの線を引き直すことにした。

 そのとき私は、そこまでフリーハンドにこだわる意味を改めて考えてみた。パソコンという機械が引くきれいな線と、自分が手で描く不器用な線と、何が違うのだろうか。自動車や家電といった工業製品は別にして、例えば装飾用の小物やおみやげ品の場合、機械で画一的に作られたものと職人が手作りで制作したものとを比べると、機械製品は出来上がりが正確できれいだが、手作り品にはどこか不器用さが残るし、同じ商品でも1つ々々の仕上がりが微妙に異なる。しかし、暖かみや味わいという点では、手作り品に漂う不器用さがかえって人の心を惹き付ける。おそらく、その不器用さに制作者の思いが宿り、人間臭さが漂うせいであろう。正確さが善で不器用さは悪といった単純な図式は、ここでは成り立たない。絵の中に引かれる線でも同じことかもしれない。手で引かれたぎこちない線には、作者の霊感が宿り、見る人に制作者の姿を彷彿と浮かび上がらせているのかもしれない。

 そんなことを思いつつ、私は相変わらずフリーハンドで線を引く。ガタガタになったり曲がったり、色々見栄えの悪いところはあるのだが、どうにもフリーハンドの線が持つ味わいには勝てないのである。




6月17日(木) 「ウォーターフォール」

 この前の日曜、日本橋の高島屋まで「千住博展」を見に出掛けた。最近NHKでも、同氏が手がけた大徳寺聚光院伊東別院の襖絵に関する特別番組を放映していたから、「ウォーターフォール」と題する同氏の滝の絵は、日本画ファンならずとも、広く知られているところであろう。高島屋で開催された展覧会では、この「ウォーターフォール」のシリーズを軸に、初期作品から幅広く同氏の作品群を紹介する形になっていた。

 私が千住博氏の作品に初めて目を留めたのは、いつの頃だっただろうか。少なくとも、彼の弟である作曲家の千住明氏や、妹であるバイオリニストの千住真理子氏の名の方が、早くから知っていた気がする。

 多くの著名日本画家が、日展、院展、創画会などの有名公募団体に属する中、千住博氏はどこにも所属せず、長くニューヨークにアトリエを構えて活動して来た。従って、秋の公募展に出掛けても、同氏の作品を目にすることはないのだが、私はどこかで、彼の鹿の絵に出会ったのである。森や湖を背景に、鹿がひっそりとたたずんでいるシリーズで、最初は東山魁夷氏の白い馬のシリーズとの対比で目を留めたのかもしれない。

 有名な「ウォーターフォール」のシリーズを見たのは、もっと後のことである。80枚にも及ぶ大徳寺聚光院伊東別院の襖絵が完成した後、それを美術雑誌か何かで紹介していたのを見たように記憶している。とにかく、第一印象が強く心に刻み込まれる作品で、誰しも一度見たら忘れられないと思う。その後、山種美術館で若手日本画家の作品展が開かれ、千住博氏の「ウォーターフォール」シリーズも出ると聞いたので、わざわざ見に出掛けた。実物の「ウォーターフォール」を見たのは、それが初めてだった。そこで私は、この作品の持つすごさを実感したのである。

 今回、日本橋高島屋へは、朝一番にデパートが開くと同時に入ったのだが、扉の前で開店を待っていたかなりの人が「千住博展」目当てであったため、開店間際なのに会場内はかなり混んでいた。「ウォーターフォール」シリーズは幾つかあったが、やはり圧巻は、展示室の半分を占める巨大な作品で、手前に水を張った浅いプールを配し、時間と共に微妙に変わるライティングとともに、一種の空間芸術のような演出が施されていた。その部屋では、誰もが暫し足を止め、作品を眺め、そしてその空間がかもし出す独特の雰囲気にひたっていた。

 「ウォーターフォール」の制作方法はNHKの特番を見て初めて知ったのだが、墨を塗った巨大なパネルの上から、白い絵具を流して滝を表し、飛沫をエアブラシで加えて描いている。繊細に見える作品なのだが、実に大胆な描き方である。ニューヨークのアトリエで千住博氏が絵具を垂らして制作している映像を見て、私は思わず、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングを連想してしまった。こうして書くと、如何にも前衛作品なのだが、そこからかもし出される味わいは、日本人が心の奥底に抱えている琴線に心地よく響く。何とも不思議な作品である。

 私は改めて「ウォーターフォール」を見ながら、この単純な構成の絵がどうしてこうまで人を惹き付けるのか、暫し考えてみた。1つ分かったことは、滝の持つ魅力が、極めてシンプルにこの作品に凝縮されていることである。周辺の木々も森も岩も何もなく、ただ滝しか描かれていない。であるがゆえに、見る人は単純に滝に吸い込まれていくのである。丁度我々が実物の滝の前に立ち、それを眺めているうちに、あたかも滝壷に吸い込まれてしまうかのような錯覚を覚えることがあるが、「ウォーターフォール」の持つ雰囲気は、どこかそれに似ている。

 そんなことを考えるうちにふと気付いたのだが、私は滝の絵というものを殆ど描いたことがない。学生時代、水墨画をやっていたときに数枚描いたくらいだろうか。油絵でも水彩でもアクリルでも日本画でも、滝を主題にした絵は一枚も描いていない。滝が嫌いなわけではなく、旅先で近くに滝があると聞くと、何となく見に行きたくなる方である。それなのにどうして画題に選ばないのかということになるが、滝が持つ魅力の本質を捉えあぐねているうちに、機会を逃してしまったということだろうか。ただ、「ウォーターフォール」を見た今となっては、更に私が付け加えるべき滝の魅力は、もはや殆ど残っていないようにも思うのだが…。




6月24日(木) 「蛍の光」

 日本人の心の琴線に触れる季節の虫というのがある。春の蝶、初夏のトンボ、夏のセミ、秋に鳴く虫などがそうだろうが、蛍というのは、どこか特別な魅力があるように思う。あのはかない光は、様々な思い出とともに、日本人の心に長くひっそりと息づいている。

 蛍は、昔ながらのきれいな小川がないと育たない。私の故郷でも町の周辺では見ることが出来ず、子供の頃蛍狩りというと、遠く山間の集落まで車で出掛けたことを覚えている。蛍は網では採らず、竹ボウキを振り回して引っかけるようにして採った。沢山飛んでいる中を払うようにゆっくり竹ボウキを振ると、何匹かの蛍が竹ボウキに止まる。すぐには飛び立たないから、子供にも簡単に採れる。ホタル草と俗に呼んでいた水辺の野草を引き抜いて、蛍と一緒にカゴの中に入れる。その上から霧吹きで霧を吹き掛けておくと長生きすると言われたが、それでもせいぜい2〜3日の命だった。持ち帰った蛍は虫カゴの中ではかなく光り、まもなく生き絶えた。蛍の光がはかないように、その命もはかなかった。蛍といえば、そんな思い出がある。

 我が家の子供達は東京生まれの東京育ちだから、一度自然の中を舞い飛ぶ蛍を見せてやりたいと思い、何年か前の夏休みに帰省した際、親戚に頼んで、今でも蛍が見られるところに連れて行ってもらった。夜の帳が下りた頃、山間の棚田を奥へ奥へと入って行った。やがて行き止まりのようなところで車を止めて外へ出ると、満天の星と静寂が支配する自然の闇である。しかし、見渡す限り蛍はいない。

 蛍は、田の向こう側にある、山の麓の小川に棲んでいるのだと言う。蛍を呼び集めるために車のハザードランプを付けると、はたして、田の向こうから1つ2つ、あるいは5つ6つと、小さな光の点が湧き出て来た。見ているうちに、次々と湧き上がり、しかもハザードランプに反応して、ゆっくりとこちらに寄って来る。自分達の周りを無数の蛍が取り囲むまでに、どれくらいかかったろうか。いつのまにか身体の周りを蛍が群れ飛び、着ていた服にも、むき出しの手にも止まる。まるで、夢の中の世界である。

 用がなくなったハザードランプを消すと、ただ静寂の闇の中を、蛍の光が舞い飛ぶばかりである。人工の光が一切ない自然の闇の中で蛍を見ると、あのはかなく弱々しい光でも意外に明るいことに気付く。そうしてどれくらいそこにいただろうか、ハザードランプが消えたせいもあって、そのうち蛍の光るのも弱々しくなり、数も少なくなって来た。もうそろそろと見切りをつけて車に乗り、人里へと向けて出発した。

 描いてみたいのだが、どうにも絵に出来ないものがある。例を挙げれば、この蛍がそうである。あのはかない光を題材に絵を描いてみたいと以前から思っているのだが、私自身の絵画技術の問題以前に、どう絵にしたらいいのかすら思い付かない。しかし、どんなに高度な絵画技術があったところで、あの光のはかなさは表し切れないような気もする。あの光には、蛍の命のはかなさや、人の命のはかなさ、あるいは、巡り行く人間社会のはかなさなど、人が日頃感じる様々なはかなさが込められていて、見る人の心に深く染み入る。あるいは、そんな絵に表し切れない蛍火のはかなさに、日本人は古くから魅了されて来たのかもしれない。




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