パソコン絵画徒然草
== 6月に徒然なるまま考えたこと ==
6月 2日(木) 「『らしさ』の落とし穴」 |
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絵の展示販売もやっているような大きな画材店に行くと、額縁の売場に色々な絵が掲げられている。油絵、水彩画、日本画等々。私の思い込みかもしれないが、そうした絵の多くは、如何にもそれらしいものである。つまり、油絵は重厚で、水彩画は爽やか、日本画は和風テイストたっぷりの日本情緒のものというのが相場ではなかろうか。要するに、吊るしの背広ならぬ「吊るしの絵画」を買う人の多くは、そうした「らしさ」を絵に求めているということであり、画材店の方は、それを見越して売れ筋を揃えているのだろう。そして、購入された油絵は応接間に、日本画は和室に、水彩画は玄関に飾られるのではないか。何となくそんな気がする。 ところで私は時々、この「らしさ」というものについて考えてしまう。私が長らくやっていた日本画は、実のところバラエティーに富んだ作品群で構成されており、如何にも日本画らしいという和風テイストの作品は、その一部でしかない。例えば、額縁売り場でよく見かける、池の鯉を俯瞰的に描いたものや、椿の一輪挿しを題材にしたものは、秋の日本画系公募展ではめったに見ない。勿論公募展は大作中心なので、そうした題材は向かないという事情はあるのだが、小品も収めた有名日本画家の作品集でも、その種の作品はそう多くない。私は、その種の「らしい」絵は、売り絵という前提で描かれているのではないかとすら思う。 この「らしさ」、例えば日本画らしい絵というのは、果たして世界で通用するのだろうか。我々日本人は、池の鯉や椿の一輪挿しを描いた作品を見て、「和の世界」を感じる。如何にも日本らしい雰囲気で、私も嫌いではない。ただ、絵からかもし出されるこうした味わいは、日本人以外にも分かってもらえるのだろうか。 結論を言えば、外国人がそうした絵を見て、我々日本人が感じるような和風の味わいを汲み取ってくれる可能性はほとんどないと、私は思っている。「和風テイスト」というのは、我々日本人の心の中で育って来たものに過ぎず、灯篭や竹、池の鯉などを見て和の心が刺激されるのは、日本人だけではないか。率直に言って、そこで感じる「和風テイスト」というのは、連想ゲームの要素が多分にある。灯篭や竹、池の鯉を見た瞬間に、我々は日本庭園を思い出す。しかも、静かで落ち着いた理想的な日本庭園をである。そして、そのイメージに重ね合わせながら、絵に描かれた灯篭や竹、池の鯉を楽しんでいる。それが絵を見て感じる和の心の本質ではないだろうか。 しかし、所詮それは我々日本人が持っている記憶に過ぎず、その連想ゲームが出来ない外国人には通用しない。勿論、日本画が持つ渋い色合いや、落ち着いた静的な画面構成に、洋画にはない何かを感じてくれるだろう。そして彼らはそれを、和の心と捉えるのかもしれないが、残念ながらそれは、我々日本人が感じるのと同じものではない。 昔、日本に転勤してきたアメリカ人一家を我が家に招いたことがある。日本の文化にもある程度興味を持っていた彼らが持参してくれたプレゼントは、きれいな紙で包まれリボンでラッピングされていた。包みを開くと大ぶりの和風の鉢がゴロリと出て来て、中に高級チョコレートが盛ってあった。日本人にはとてもミスマッチだが、彼らには充分和風でエキゾティックなのだろう。しかし、そうした組合せに我々日本人が違和感を覚えるのは、和食器にチョコレートは盛らないとか、剥き出しのまま洋風の紙でリボンを付けてラッピングしたりしないといった記憶を持っているからである。それは子供時代から何十年もかけて作られたものだが、今になって、何故それがミスマッチなのかと問われると答に詰まる。ただそうした習慣だというだけのことに過ぎない。こうした感覚は、ちょっと日本に住んだことのある程度の外国人には分からない類のものであろう。 外国人から見れば、和風の鉢は魅力的であり、それに日本文化を感じるのだが、同時に紙とリボンのラッピングやチョコレートと組み合わせたところで違和感は覚えない。おそらくそれが、日本的なものに対する外国人の普通の感覚だろう。更に言えば、和風も中華風も韓流も、外国人から見れば全て「エキゾティック」の一括りで捉えられているだけなのかもしれない。 彼らに、池の鯉を描いた日本画を見せると具体的に何を感じるのか、ちょっと訊いてみたい気がする。 |
6月 8日(水) 「滅びの美学」 |
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私はあまりテレビを見ない。ニュースは見るが、ドラマは見ない。映画は気に入ったものがあれば録画して見るが、それもそう多くはない。子供の頃からこうだったわけではないが、社会人になってテレビを見ている余裕がなくなった。今ではテレビを見られるだけの時間的余裕はあるのだが、長らくテレビを見ない習慣に浸かっているうちに、このパターンに慣れてしまった。従って、一家団欒でテレビ・ドラマに興じるという光景は我が家にはないのだが、ただ1つ例外がある。NHKの大河ドラマである。これだけは何故か毎年のように見ている。 多くの方はご存知だろうが、今年の大河ドラマは「義経」である。おそらく源義経は、日本史に登場する武家の中で、最も有名かつ人気のあるキャラクターだろう。世に「判官びいき」という言葉があるが、この「判官」は、後白河上皇から検非違使の尉(判官)という役職を与えられた源義経のことを指している。この言葉に端的に表されているように日本人は、新しい武家社会を一代で築きあげた源頼朝より、義経の方がはるかに好きなのである。 義経にまつわる数々の話は、能、浄瑠璃、歌舞伎などで作品化されており、俗に「判官物」として一大ジャンルをなしている。それ程エピソードの多い人生なのだが、彼の生涯は意外に短い。1159年に生まれ1189年に衣川で自刃している。その間30年。更に言えば、彼が兄頼朝の命により鎌倉を出陣してから最期を迎えるまでは、僅か5年しかない。文字通り、一陣の風のように歴史に現れ、彗星のように駆け抜けて消えていった。そして、その英雄の物語は、数々の悲劇で彩られている。 私の目から見れば、義経の出自から最期に至るまでは、滅びの美学で埋め尽くされている。平治の乱で滅ぶ源氏、落ち延びる常盤御前と牛若丸、栄華の限りを尽くしたあと僅かの期間に滅ぼされる平家、そして兄頼朝によって追討される義経、更に頼朝によって滅ぼされる奥州藤原氏。もう全編、滅び行く者の哀悼の物語である。そのあまりにドラマチックな展開を見ていると、私はこれが歴史の中で本当にあった話だということに驚いてしまう。源平の争いが長らく日本人の心をつかんで来た理由は、この見せ場が多く場面展開の激しい物語性に一因があるのだろうが、私は同時に、底流に幾重にも流れる滅びの美学も、人々を惹きつける要因ではないかと思っている。 日本人に限らず、人間は滅びの美学に惹かれる。滅びゆく様はまさに悲劇なのだが、人はその中に何がしかの美を見出す。その美の本質が何なのかはうまく説明できないのだが、滅び行く運命がいっそう活き々々と、それまでの生というものをきわだたせるのかもしれない。あるいは、かげりを帯びた栄華の中に、人はこの世の無常を見出しているのかもしれない。いずれにせよ、滅びの予感が哀調を帯びた旋律となって、物語の底流に味付けを施し、その旋律に人は心動かされているのだろう。 義経がかかわるもう1つの大きな滅びの物語に、平家の滅亡がある。最期となる壇ノ浦までの数々の合戦は、義経にとって最大の見せ場なのだが、そこにはコインの裏表のように平家滅亡の悲しい旋律が奏でられている。その滅亡は、平家物語というもう1つの悲劇文学として今に伝えられているが、冒頭の無常観に満ちた語りはあまりにも有名である。世に常なく全てはやがて滅び行く。自分の生き死にすら判然としなかった時代にあってその語りは、もの悲しい琵琶の調べとともに人々の胸に響いたに違いない。そして、1つの栄華の物語に潜む滅びの翳に、悲しくも美しい世の定めを見たのかもしれない。 実はレベルはまるで違うのだが、この滅びの美学は、絵画の世界と奥深いところでつながっている部分があるのではと思うときがある。例えば、私が描く花でも夕焼けの情景でも、背後には、その美しさの絶頂が僅かの期間しかないという思いがある。花は咲き誇ったそのすぐあとに散り始める。朝や夕の情景は、その直後から雰囲気を変えていく。絵画とは、その絶頂の一瞬を画面に閉じ込めるものなのだが、現実の世界では時々刻々と滅びの時計が刻まれる。要するに我々は、滅びの歌の前奏を聴きながら絵を描いているのである。歴史に残る名画に描かれた場面の多くは、今はもう世になく、違った光景に塗り替えられている。我々はその絵を通じて、ありし日の風景や建物、人物を思い浮かべるのである。 全ては無常、やがて滅び行くもの。我々は残念ながら時を止めることはできないし、変化を避けることもできない。動物も植物も、そして山や川さえも、果てしない時の流れにあらがうことは出来ない。時は全てを押し流し変化させていく。命あるものは滅び、命のないものですら、やがてその姿を変えていく。絵を描く側の気持ちの幾ばくかには、常ならむ世の定めを見据えて、せめて対象となるものの一瞬の姿を画面の中に留めおきたいという思いがある。 私は時々、ありし日の美しいものの姿を名画の中に追いながら、ほのかな無常観に捉われることがある。と同時に、その中に絵の表面的な美しさとは異なる、何がしかの美を感じる。遠い時間の砂の中に埋もれた遺跡に触れたときのような、どこかもの悲しく寂しい美の感覚である。その感覚は、遠く深いところで滅びの美学につながっているように思うのだが、どうだろうか。
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6月14日(火) 「組合せの妙」 |
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私は風景画を描くとき、構図の一部に人工の建造物を組み込むことがある。小屋、橋、桟橋、木の柵、ベンチなどである。勿論、山々を見渡すような遠景の風景を描くときには、こうした人工物は登場せず、自然ばかりで構成されることになるが、近景・中景中心の画面だと、たびたび建造物が画面の片隅に現れる。 人工の建造物は、まさに作品にとって一つの主題になっていることもあれば、単に構図のバランス上そこに配したに過ぎない場合もある。いずれのケースでも、その建造物があるか否かで、画面全体の印象がガラリと変わる。この種のパーツは、作品のイメージを左右する大きな存在なのである。 描く側の問題は、それらをどう選択し組み合わせるかである。これは簡単なようでいて、意外と難しい。画面に描かれた道沿いに柵を配していくとしよう。それはどんな柵なのだろうか。素材は木か竹か。どんな間隔でどこまで配置されているのだろうか。杭を打って板で覆われた柵なのか、単に杭同士を針金でつないだだけなのか、あるいは杭は規則正しく打たれているのか、朽ちて一部が倒れたり傾いたりしているのか。ちょっと考えただけでも選択肢は多岐にわたり、選び方如何により画面の雰囲気が変わることが多い。 更に、そうした柵を小屋と組み合わせるとなると、バリエーションは増加し、かもし出される雰囲気も様々となる。いい加減に組み合わせてもいい味を出すことがあるが、練ってツボにはまった組合せは、実に深い味わいを作品に加えることになる。熟慮するだけの価値はあるのである。 以前、家族でイタリアに旅行したとき、ローマで有名なスペイン広場を訪れた。今や古典となった「ローマの休日」という映画に出て来る広場なので、映画を見た人なら誰でも思い出すはずである。広く緩やかな石段が続き、その上りきったところにトリニタ・ディ・モンティ教会がある。オードリー・ヘップバーン扮するアン王女が、街の床屋で長い髪を切った後ここを訪れ、花売りが差し出した花をプレゼントだと勘違いしたり、階段に座りイタリアン・ジェラートを食べたりする。映画を見た人なら「あぁ、あのシーンか」と思われるに違いない。オードリー・ヘップバーンの愛らしい演技だけでなく、背景自体が、一度見ると忘れられない印象を残すはずだ。あの魅力的な風景の秘密は何なのだろうか。 私は、現地で聞いたガイドの解説になるほどと唸った。ガイドが言うには、スペイン広場を構成する石段と教会は、それぞれ特別に珍しいものではない。同じような石段・教会は、イタリアに幾らでもある。従って、石段、教会と別々の場所に存在していれば、これほど有名にはならなかったろう。しかし、石段と教会とが組み合わさった瞬間に、忘れがたい風景となる。まさに組合せの妙であり、その成功例がスペイン広場である。 そう言われて改めて見てみると、確かに教会のない石段だけの風景、あるいは石段のない教会だけというのは平凡な景色のように思える。ところが、それが組み合わさった景観を階段下から見上げると、三角形型にゆるやかに伸びていく階段の上に教会がそびえ、安定した構図になっている。スペイン広場を訪れた人の視点は、目の前の階段から三角構図に沿って階段の上へと自然に導かれ、その先に青空の下、教会の塔がそびえる。ある意味、視点移動を考慮した理想的な構図である。逆に言えば、階段の上に上ってしまえば、この魅力的な光景は失せてしまう。 絵の世界におけるパーツの組合せの妙も同じことである。一見平凡に見えるパーツの組合せ如何で、画面は活き々々と魅力的に輝く。しかし、それらをどう組み合わせると印象深い景色が出来るのか、はっきりとした法則はない。我々は、パーツの特性をよく学び、試行錯誤していくしかない。 同じようなことは、絵画のみならず日常生活でも生じているはずだ。その日着る服の組合せ、インテリアのコーディネートなどなど。形こそ違え、悩みの本質は同じことである。ただそうした悩みは、ある種の考える楽しみでもあると、私は思っている。絵でも同じではないか。気に入った素材を組み合わせて画面を作る。うまくいくこともあれば、さえない画面になることもある。その違いは僅かのことなのかもしれないが、そこの加減がどうにも分からない。悩みも多いが、うまくいったときの喜びもある。おそらく、そうした試行錯誤も1つの楽しみと思えなければ、この種の趣味は中々続かないのかもしれない。 |
6月22日(水) 「常識を疑え」 |
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「休日画廊」を開設して、はや3年以上経つ。当時は個人が開くのはホームページのほかにはなかったのだが、今やブログの方が優勢な時代になった。それも、ここ1年程度の急激な盛り上がりだと思う。 私もちょっと気になって、無料でブログを開設できるような大手検索サイトの案内ページを幾つか覗いてみたのだが、なるほど、これなら誰でも簡単に立ち上げられそうだと感心した。しかも、センスのいいデザインのものが多く、バリエーションも豊富で、好みのものが簡単に見つかりそうである。実際、開設済みのブログをアトランダムに見てみると、いかにもカッコいいものばかりで、我が「休日画廊」のアナクロなデザインがみじめに見えて仕方ない(と言っても、模様替えする気はないのだが…)。 ところでこのブログだが、私が初めてその存在を知ったのは、新聞や雑誌の米国ブログ紹介記事であり、そこでは、米国でかなり政治的影響力のあるコミュニティーサイトだという位置付けで紹介されていたと記憶している。しかし、その記事を読んで、これは日本では流行しないのではないかと思った。何故かというと、記事から受けた印象が、「ブログ=文字情報」というものだったからである。 私が「休日画廊」を立ち上げた頃には、マニアでないごく普通の個人が趣味のホームページを開くことは、もう珍しくなくなっていて、インターネットの世界で堂々たる市民権を得ていた。そして、ホームページを作る人のためのガイドブックが書店に並んでいたし、初心者向けにノウハウを解説したサイトも幾つかあった。かくいう私も、「休日画廊」開設前後、その種の本を書店でパラパラと立ち読みしたり、関係サイトを斜め読みしたりした記憶がある。 そうした解説の中で説かれるノウハウの1つに、人気のあるサイトに育てるにはどうすればよいかという話題があったのだが、幾つかの留意事項の中に、文字主体のコンテンツは面倒臭くて誰も読んでくれないから避けるべしという注意がなされていた。 私はその留意点を読んでちょっと疑問に思ったのだが、ある特定の本に書いてあったというのではなく、ノウハウを紹介したサイトも含め様々なところで同じ注意書きが繰り替えされていたものだから、インターネットの世界はそんなものだと思い込んでしまった。にもかかわらず、「パソコン絵画徒然草」のコーナーを立ち上げたあたり、いかにも学習効果がないわけだが、世間の常識より自分の好みを優先したというのが実態である。 米国におけるブログの紹介記事を読んだとき真っ先に思い浮かんだのが、この「文字主体のホームページははやらない」という教えである。米国のサイトは一般に文字情報が多いので、ブログにも違和感がないのだろうが、日本人のサイトの好みから見て、文字情報主体のブログは日本では流行しないのではないかと思ったわけである。 しかし、あにはからんや、日本でもブログ大流行である。書いている人が多いばかりでなく、読んでいる人も多い。しかも、有名人が書いているものでなくても、随分人気を集めている個人ブログが沢山あり、本になったものまであると聞く。昔読んだあのホームページ作りの掟は何だったのかと、ふと思ってしまった。 世の中で語られる常識というヤツは、実のところそういうものかもしれない。社会が急激な速度で進化していき、人々の価値観や生き方が変わっていく中で、何年か前に語られた常識が、いつまでも生きながらえる保証はない。我々は、常識を意識するかたわらで、同時にそれを疑わなければならない。 これは仕事も含めた我々の生活一般について言えることなのだろうが、絵の世界でも同じではないか。絵画制作に当たり、過去から続く常識にこだわって自制していることがあるとすれば、それは最早、タブーでも何でもないのかもしれない。なのに言い伝えを信じて自分を縛っているのだとすれば、実にバカバカしいことである。そんなことは、過去絵画の歴史を変えてきた幾多の天才画家によって何度も証明されているはずなのだが、我々はともすれば、それを自分に置き換えて考えることをしない。「そんなの常識だよ」と言われると、そういうものかと思考停止してしまうのである。 常識の延長線上では、常識的な作品しか生まれない。しかし、片っ端から常識を壊すだけでは、単なる非常識に終わりかねない。今でも通用する常識とは何か、常に疑いを持ちながら世の中を見回す目が求められているのだろう。そして、その目利きの鋭い人が、時代を変える天才と呼ばれるのかもしれない。 |
6月30日(木) 「路地裏の風景」 |
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東京はとにかく広くて、行けども行けども街並みが途切れることがない。もちろん、ビジネス街、繁華街、住宅街と、それぞれの区域ごとに街の表情は異なるのだが、人工の建造物がずっと続いていることに変わりはない。しかし、そうした巨大都市の片隅には、少々不思議な空間がいくつかある。その中で私が懐かしい気分になるのは、路地裏である。 以前文京区に住んでいた頃、相当都心に近いところにいたのだが、狭い路地が残っていた。片側一車線程度の交通量の多い道路から、人がやっとすれ違えるような小道がひっそりと伸びている。それは行き止まりの道ではなく、向こう側の自動車道に抜けることのできる生活道で、小道沿いに平屋の古い木造家屋が並んでいた。それが私道だったのか公道だったのか分からないが、何十年前かにタイムスリップしたような不思議な雰囲気があった。 我が家は、幾つかあったそれらの路地を抜け道代わりに使わせてもらっていたが、とりわけ子供達はそうした道を通るのが好きだった。幹線道にはない静けさと、木造家屋が作り出すやさしい表情、そして隠れ家のようなたたずまいに、普段見慣れぬ不思議な空間を探検している気分だったのかもしれない。私自身も、子供の頃に見た風景が思い出されて、懐かしい気分になった。 しかし同時に、その路地には何かが欠けている気がした。最初は分からなかったが、何度かそこを通るうちに気付いた。誰ともすれ違わないのである。 私が子供の頃には、路地裏は子供の遊び場だった。車が入って来ないような場所だと、なお都合が良かった。学校が終わって家に帰ると、おやつを食べて、それから路地に出る。そこには必ず誰か友達がいた。何して遊ぶか相談しているうちに、一人また一人と仲間が増える。そのまま路地で遊ぶこともあれば、連れ立ってどこか別の場所まで出掛けることもあった。 また当たり前のことだが、路地は近所の人達の生活路だった。子供達が集まっている傍らを、大人達がたびたび通った。知らない人が通っても、「今の人は誰?」と訊くと、友達の誰かが教えてくれる。お蔭で、近所の大人達の顔はよく知っていたし、向こうもこちらのことを、名前はおろか学年、兄弟構成まで知っていた。隣近所のふれあいが未だ生きていた時代の話である。 しかし、文京区で出会った路地には、人がいなかった。子供も遊んでいなかったし、大人も通らなかった。いつもひっそりと静かな路地を我々は通っていた。路地の両側に並ぶ木造家屋には確かに人の住んでいる気配があったが、あるいは老夫婦2人だけの高齢世帯が多かったのかもしれない。 私は、その懐かしい雰囲気の漂う路地の風景を絵に描こうという気持ちはあったのだが、どう捉えて描けばいいのか考えあぐねているうちに、時は過ぎてしまった。あるいは、私は何かを待っていたのかもしれない。具体的にこれだとは言えないのだが、子供の頃遊んでいた路地と同じような雰囲気、言い換えれば、人の存在を感じさせる何かをである。しかし同時に、それはいつまで待っても現れないことも、心のどこかで知っていたのである。 あの路地は、やがて時の経過とともに朽ちてゆくのだろう。木造家屋の住人達がいなくなると、まとめて取り壊され、しゃれた低層マンションに姿を変えるのかもしれない。それもそう遠くない日のことではないかと思う。そんなふうにして東京は、少しずつ進化してゆく。そして、この街で絵になる風景を探すのは、ますます難しくなっていくのである。 |
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