パソコン絵画徒然草
== 6月に徒然なるまま考えたこと ==
6月 6日(水) 「カメラ撮影」 |
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季節が良くなるにつれて、方々でアマチュア・カメラマンの姿を見掛けるようになった。街角で撮っている人はあまりいないが、ちょっと景色のいい公園などに行くと、カメラ用のバッグを肩に掛けたり、パンパンに膨らんだリュックを背負ったりして、三脚と大きな一眼レフカメラ片手に撮影ポイント探しに余念がない。 私は、写真を撮ることにかける彼らの情熱に感心することが多い。公園の遊歩道脇に生える小さな花を撮るのに、皆さんほとんど地面に腹ばいになってカメラを構えている。中には、最初から寝転ぶことを予定して小さな簡易シートを持って来ている人までいる。 私は、絵は描くが写真の腕前や知識はからっきしダメで、よくピンボケ写真を撮る。持っているカメラもオートフォーカスのデジカメである。それも何年も前の旧式なので、いまだに記憶媒体はスマートメディアを使っている。今やほとんど製造されていない化石のような記憶媒体である。カメラの性能の方も、推して知るべし…。 散歩がてら出掛けていく際、たいていはこのカメラを持っていく。アマチュア・カメラマンの方が持っている立派な一眼レフに比べれば、みすぼらしいことこの上ないが、写真が趣味というわけでもないし、そうそう立派な写真を撮ろうと思っているわけでもないので、これで充分である。 前にも書いたが、このカメラを私はスケッチ代わりに使っている。いいなと思う風景や花などあれば、気楽に数枚撮る。角度を変えたりズームしたりして複数枚取るのが私の流儀である。そうして撮ったもののうち、絵の参考になるのは全体の1%にも満たないと思う。あとはハードディスクの肥やしになる。スケッチだって、全てが作品に結実するわけではない。写真の方が簡単に撮れるから、枚数を気にせずドンドン撮る。それも、かなり早いスピードで撮っていく。アマチュア・カメラマンの方がじっくり構えるのと違って、ぱっと見て良ければさっと撮る。だからピンボケが多いのかもしれないが、それでもこれが私流のスケッチ写真術である。 もちろん、じっくり撮っていたら時間がかかるという理由もあるが、何より周りの人に迷惑ではないかと心配するからだ。たいていの通行人は、写真を撮っている人に遠慮する。カメラを構えた人の前を通ったりしないし、なるべく撮影画面に入らないよう遠回りすることだってある。風景や花の写真を撮るというのは、相手がいるわけでもなくそれ自体自己完結した行為なのだが、実は周囲の人たちにとってみると、はなはだ迷惑なことが多々あるのではないか。 写真を撮る方は必死だから、いい撮影ポイントを確保するために通路を塞ぐ場合がある。狭い散策路だとすれ違うのがやっとということがあるが、そこで一人がカメラを構えて立ち止まると、交通は遮断される。更に三脚でもセットされたら、蹴飛ばすのではないかと傍らを通るのが怖くなる。乗っているカメラが高価そうなのは素人目にも分かるから、ついつい遠慮してしまうわけである。そんな事情を考慮して、公園によっては三脚の使用を禁止しているところもある。おそらく苦情も多いのだろう。 先日、板橋の植物園まで足を伸ばした際、野草が咲く曲がりくねった小道で、二人のカメラマンが熱心に話し込んでいる。カメラ談義に夢中のようで、人が通るのもお構いなしである。バックやリュックを散策道に降ろして話しているものだから、完全に道を塞いだ状態になっている。老夫婦が通ろうとしたが通れない。文句を言ったらしくカメラマン側は謝っていたが、謝るだけでそこを立ち去るわけではない。どうやらそこに小さな花が咲いているようで、二人のお目当てはそれらしかった。私も次いで通ったが、横に生えている木に手をついてかろうじて通り抜けたというのが実態であった。でも「すいませんね」の一言もなく、ずっと二人でレンズの話をしている。 私は何もアマチュア・カメラマンを厄介者扱いにしたいわけではない。写真と絵と表現手段に違いはあるものの、同じように自然を愛する者として、その撮影には一定の気を使いたいとは思う。だが、カメラマンの側も、周囲の人に気を使わないと、いずれ邪魔者扱いされるのではないかと心配になる。おやっと思う場面がけっこうあるからだ。 と同時に、戸外でスケッチや絵画制作をしている人も、一般の方々に同じように迷惑がられている場合があるのかなと、ちょっと心配になる。私は絵を趣味にしているがゆえに、戸外で絵を描いている人に出会っても、迷惑だと思ったことは一度もなく、むしろいい雰囲気だなと歓迎してしまう方である。それは、いわば同じ仲間内という意識が働いてのことだろう。だが、一般の方々ならどうだろうか。大丈夫だとは言い切れないかもしれない。 他人の振り見て我が振り直せ、などど昔から言われるが、アマチュア・カメラマンの方々の撮影を見ていて、少々心配になった次第である。 |
6月12日(火) 「絵と金」 |
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いきなり刺激的なテーマではしたないと思われるかもしれない。だが、この2つは切っても切れない関係にある。 ある有名画家の絵が1号当たり100万円と言われたとしよう。高いとは思うが、日本を代表するような有名作家であれば、非現実的な金額ではあるまい。だが、どんな魅力的な作品であっても、普通の人がそれを買うだろうか。1号の絵なんて普通描いているわけないから、小品で6号くらいの絵として600万円。多少の金持ちであっても、絵の魅力だけでそれだけの金額を出す人はそういないのではないか。ではいったいこの値段は、誰が何のためにその作品を購入するだろうと思って付けられたのだろうか。 絵の値段というのは、全く奇怪極まりない存在である。1号当たり100万円といっても、作品によって実際の値付けは異なるし、他の画家の作品と比べたときに、公平な価格なのか疑いたくなる。例えば、号100万円の画家の凡作と号10万円の画家の傑作と比べた場合、後者の方がいい絵だと多くの人が思ったとしても、間違いなく前者の方に高い値が付く。そうした値付けがまかり通るのは、実際に絵を買う人の多くが前者の作品を買いたがるからに違いない。 そうなると、こうした値付けをされた絵を購入しているのは、いったいどういう人なのだろう。1つ言えるのは、おそらく作品ではなくまず作家名ありきで買っている人である。私の推理を申し上げると、そういう人の多くは作品にほれ込んで買っているというより、投資対象として値の上がりそうな作家の絵に傾斜して買っているのではないか。つまり、将来の値上がり率さえ良ければ、購入価格が100万円でも1000万円でもいいというわけである。要するにリターンが何%かが問題であり、次にそれに投資できるだけの元本が用意できるかが判断材料となる。画面に何が描いてあるかではなく、誰が描いたかが問題になる。そう考えると、色々なことに合点がいく。 私がここで述べたいのは、そうした投資としての絵画購入はけしからんということではない。むしろ、そうしなければプロの画家の生活が成り立たなくなっている現実を、絵の愛好家は理解しておく必要があるということである。投資目的の絵画購入を、芸術を錬金術に使ういやしい行為だと非難する人は勿論いると思う。だがそれなくして、誰がいったいプロの画家の生活を支えるのだろうか。 以前ここで書いた千住博氏は、米国フィラデルフィアの「松風荘」襖絵制作を無償で引き受けた。東山魁夷は長年仕事を休んで奈良唐招提寺の一連の襖絵を仕上げたが、彼がそれに見合うだけの金銭を唐招提寺からもらったなんて話は聞いたことがない。有名画家が後世に名を残すような大作を制作しようとするとき、その多くは無報酬に近いものになっているのが現実ではなかろうか。いや、それに正当な金を払えと言われたら、誰しも注文など不可能だと思う。 東山魁夷が唐招提寺襖絵制作のために庭をつぶして体育館のようなアトリエをわざわざ建て、スケッチのために殆どの仕事を断って全国を回った時、彼の生活を支えたのはそれまでの蓄えだったろうし、そのお金を生み出したのは当時1号250万円と言われた値付けがあったからである。ああいう大掛かりな作品の制作には、それを影で支える経済的後ろ盾がどうしても必要になる。そして残念ながら、今のところその源泉は、絵画の投資的購入くらいしかないのが現実ではなかろうか。 昔なら、有名画家にはパトロンが付き、経済的に心配せずに絵が描けた。西洋で王族や貴族が画家を抱えたのもそうだし、日本で幕府や大名が絵師の集団を育てたのもそうした一環である。だが現在、画家を抱えるパトロンなどそうはいない。海外ではまだそういう金持ちがいるかもしれないが、日本ではあまりパトロンと有名画家との関係は聞かない。 有名画家といえども霞を食べて生活するわけにはいかない。しかし我々は、絵を愛するあまり、そうした実態に目をつぶる傾向にある。如何に高尚な芸術といえども、高邁な奇麗事だけでは成り立たない。その切ない現実くらいはわきまえておいた方がいい気がするのである。 |
6月21日(木) 「スパム・メール」 |
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毎日スパム・メールが50通近く来る。40通台のこともあれば、60通を超えることもある。最初からそうだったわけではなく、徐々に増えてこうなった。もちろん、ここに至るまでボーと手をこまねいて見ていたわけではなく、スパム・メールが毎日来るようになった時点で、他のサイトの掲示板に書き込みをする際はメール・アドレスを記入しないようにしたし、「休日画廊」に掲載していたメール・アドレスを、文字情報から画像に切り替えた。 昨今のスパム・メールは機械化されている。メール・アドレスの収集は、ロボットと呼ばれるプログラムがあらゆるサイトを巡回し、「@」で挟み込まれた文字列があれば自動的にコピーをしてアドレス・リストを作るとか、「@」を間に挟んだ文字列を任意に作成して一斉メール送信し、送信エラーが出たものを除いてアドレス・リストを作るなど、人手をかけず自動的にメール・アドレスを集めると聞く。コンピューターのプログラムがやることだから、24時間、365日働き続けることができる。そうして集めた数百万の有効なアドレス宛に、スパム業者は色々な違法業者・詐欺業者から宣伝を請け負って、すさまじい数のスパム・メールを送信し続ける。中には、集めたアドレス・リストを仲間のスパム業者に売る輩もいるらしい。つまり、一度でもメール・アドレスを何かの手段で業者に把握されれば、繰り返し様々な業者からスパム・メールが送られて来ることになる。捕まれば逃れようがないのである。 スパム・メールの大半はアダルト系の詐欺業者が送っているのだが、中にはウイルスに感染したものや、見ただけでウイルス感染するタイプのものが混じるので、なるべく見ずに捨てるしかない。「受信拒否の場合はここをクリックして下さい」といった表示が末尾にあるスパム・メールもあるが、絶対にここをクリックしてはいけない。最後までメールを読んでくれた人として業者に認識され、怒涛のようにスパム・メールが増える。クリックした人のアドレスだけ集めて、最適ターゲット・リストとして売る業者もいると聞く。 私はスパム対策ソフトを入れており、スパム・メールとして登録したものは自動的に振り分けてくれる。あとは削除ボタンをワン・クリックするだけでおしまい。全くスパム・メールの顔も拝まずに済んでいる。しかし、一見万能なスパム対策ソフトにも欠点があり、あまりにも優秀に出来ているものだから、登録したもの以外でも、ソフトの側がこれはスパム・メールだと判断すれば勝手にスパム・フォルダにメールを放り込む。どうもその基準は大量送信されているメールかどうかにあるらしく、読もうと思って申し込んだメール・マガジンまでがスパム扱いになって捨てられることがあった。いつだったか、あるサイトの会員になった際に、先方から送られてきた確認メールがスパムと認識されてスパム・フォルダに放り込まれていたことがあり、あわやIDとパスワードを見ずに捨ててしまうところだった。「過ぎたるは及ばざるが如し」ということか。 最近のサイト動向を見ると、以前ならコミュニケーションの道具として普及していた掲示板やメールが、スパム業者の悪行によって廃れつつある。少し前に「休日画廊」の掲示板も、アダルト書き込み専門業者の絨毯爆撃によって新しいものに取り替えざる得なくなった。従来なら個人のホームページに掲示板は付き物だったが、今では掲示板を設置していないホームページも多い。掲示板から始まる新しい交流の輪というのは、次第に昔の夢物語と化しつつある。 替わりに、SNSなど会員資格がないとお互いコミュニケーションが取れないような方向に流れが変わりつつあるが、要するに、自由で開かれたインターネットの世界で、自分の周りに石垣を築いて籠城を始めたということだろう。SNSだと、会員でなければ見ることもコンタクトをとることも難しい。行き来する世界が狭くなったわけである。 技術向上によってネット社会は便利さが増したという意見が多いが、その便利さを悪質な金儲けに利用しようという輩がいる限り、別のところで迷惑の度合いも増す。通信料金の定額化はスパム業者のメール送信コストを激減させたし、ADSLの登場など通信速度の向上は、スパム・メールの大量送信を容易にした。便利さは時として凶器になり、自由は時として犯罪の横行を生む。それはネット社会でも現実社会でも同じなのだが、個人の力では対応に限界がある。 それにしても、ネット社会も住みにくくなったものだ。 |
6月27日(水) 「生と死」 |
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少々嫌な話だが、先日散歩をしていて鳥の雛が死んでいるのを見掛けた。道路脇にようやく毛の生えそろったくらいの雛が横たわっていた。その近くに巣作りが出来そうな場所があるとも思えなかったので、どうしてそこで死んでいたのか不可解だったが、コンクリートの上に横たわる小さな体が、何とも哀れだった。 しかしよく考えれば、自然の中において死はありふれた出来事である。動物にせよ植物にせよ、自然界では天寿を全うするまで無事に生きられるのは、むしろ例外である。 魚は無数の卵を産むが、孵化して人目に付くくらいまで育つのはごく僅かである。殆どは他の魚に食べられてしまう。成魚まで成長するものは、更に少数となる。植物の種も同じことで、例えば森の中に無数に落ちているどんぐりのうち、立派な成木になるのはほんの一握りだろう。多くは虫や動物に食べられ、芽を出すことすらかなわない。 自然というのは、生と死が折り重なり結び合って存在している。山登りなどに行くと、虫や小動物の死骸に行きあうことは珍しくない。その多くは、他の虫や微生物の餌となり、他の命を支える糧になる。枯れた草は腐葉土となって他の植物の栄養源となり、倒れた木は朽ちてキノコや甲虫類の幼虫の住処となる。 人間もまた自然の一部であり、生と死の循環と無関係ではないはずだが、進化の過程で生む子供の数を抑え、死亡率を抑えることに成功した。また、医学を生み出し死に至る病やケガを治療する術を学んだ。そうして自らの死を遠ざけつつ、他の死についても巧妙に隠す知恵を学んだ。我々の日常生活から死は追い出され、我々人間の死はもちろん、食べ物としての動物や植物の死をも目に付く範囲から遠ざけてしまった。 野菜はきれいな形で店頭に並び、肉もパックに入れて売られている。その死を見ることなく、我々は牛肉を食べる。ライオンがシマウマを襲って食べる映像を見て残酷だと目をそむけたりするが、テレビを消した食卓で平気で焼肉を食べている。本当は、同じ行為のはずなのに。 私たちが自然を絵の題材にする場合、死を描くことはない。きれいで生き生きとした姿だけに目を向けようとする。それは無意識のうちに死を遠ざけようとする気持ちが働くからだ。枝に止まったスズメや鳩を描くことはあっても、私が見た雛の死骸は決して画面に登場しないだろう。花や新緑の葉は描いても、縮れたように茎にまとわり付く病葉は省略してしまうと思う。 しかし、そうして絵に描く生は多くの場合、他の動植物、昆虫の死の上に成り立っている。生の影に死がある。二つは合わせ鏡のようであり、きれい事だけでは自然は成り立たない。自然界では、死ぬものは生きるものを支え、そうした関係が途切れると自然全体が死に絶える。自然界における死とは、次の世代の生を支えるために不可欠の貢献なのである。そうした意味で死は尊いと言えるかもしれない。 道路脇に横たわる鳥の雛は哀れと思ったのに、昨日食べたチキンには何の感慨も湧かなかった私は、本当はしたり顔で自然の有様を描く資格などないのかもしれない。 |
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