パソコン絵画徒然草
== 7月に徒然なるまま考えたこと ==
7月 2日(水) 「描画ソフトと作品との距離」 |
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私が絵を描くのに使っている「Paint Shop Pro」という描画ソフトがバージョン・アップすることになり、前から欲しいと思っていた機能が付け加わるというので、早速申し込んだ。私が最初にこのソフトを買ったときのバージョンは「6」であり、今回「8」になるから、3世代にわたって更新しながら使っていることになる。 ソフトの更新に当たるような技術革新は、油絵や水彩画などの世界ではまずない。勿論何百年という歴史の中で、従来にはなかった顔料や定着剤が発見されたり、新しい紙が開発されたりと、技術進歩がないわけではないが、パソコン・ソフトほどの速さで機能強化されているわけではない。犬が人間の7倍のスピードで年を取ることに例えて「ドッグイヤー」という言葉があるが、描画ソフトは既存の画材に比べて、「ドッグイヤー」以上のスピードで進化し続けている。 描画ソフトの機能強化はすごいと思う。それまで手間のかかっていた作業が、簡単に出来るようになったり、従来表現出来なかったような効果を一瞬の操作で得られるようになる。絵具と筆で絵を描きながら技法や表現手法を身に付けていくスピードに比べると、描画ソフトの機能強化で得られる技術力向上は格段に速い。しかも、描く側の努力を殆ど必要としない。ある機能が加わっただけで勝手に腕前が上がったりする。絵具と筆で描く場合でも、いい材質の筆を買うと微妙なタッチを表現出来るようになったりするのだが、そんなものとは比べ物にならない手軽さである。 お蔭で、描画ソフトが進化するにつれて、絵を描くのが段々楽になり、初心者でもそこそこの水準の作品を手軽に制作出来るようになった。技術的なハードルが高い一般の画材に比べると、入門の敷居が非常に低い画材だと思う。 ただ、入門が容易になったからといって、初心者がいきなりパソコンに向かっても、素晴らしい作品が出来るわけではない。何故か。絵は、技術だけでは描けないからである。以前、音符が読めたり書けたりしなくとも、マイクに向かい鼻歌を歌うだけで作曲できるというパソコン・ソフトに関する記事を読んだことがある。音楽の基礎知識がなくとも、何一つ楽器を弾けなくとも、鼻歌だけで音符が完成し、パソコンが演奏してくれる。では、これを買うと誰でも直ちに名曲が作れるかというと、そういうわけではない。絵も同じことである。 描画ソフトを買ってみたけれど想像していたようなレベルの作品を描けない、という人の中には、その辺りを勘違いしている人がいるのではないか。どんなに敷居が低くなったと言っても、描画ソフトは所詮道具でしかなく、それを使うのは我々自身である。パソコンは、ボタン1つで勝手に絵を描いてくれるわけではない。何を描くのか、あるいは描きたいのか、そこのところがはっきりしていない人には、どんなに簡単な操作で絵が描けるソフトが出ても、依然埋められない溝が存在することになる。 あるいは将来、自分で撮った写真をパソコンに取り込んで、「ゴッホ風に描きたい」と指示すると、たちまち絵を描いてくれるようなソフトが出るのだろうか。そこまで行けば、文字通り「初心者でも簡単に絵が描ける」ということになるのだろう。例えば、市販の年賀状作成ソフトでは、宛名をきれいな毛筆体で書こうと思えば、設定一つで美しい毛筆体の宛名が印刷される。これを習字に応用すれば、書道の先生に習わなくとも、立派な字が書けることになる。しかし、それをもって書道の作品とは言わないだろう。描画ソフトも同じことで、パソコンが描いたゴッホ風の絵を、誰も作品とはみなしてくれないのではないか。そもそも私には、果たしてそれが「絵」なのか、はなはだ疑わしいのである。 |
7月10日(木) 「不屈の精神」 |
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バブル崩壊以降、日本という社会は色々な意味で変わりつつある。例えば、市場メカニズムという名の競争原理が幅を利かせ、勝者・敗者という分類が、ごく当たり前に語られるようになった。日本という国は、戦後長い間、勝者・敗者という区分けをわざと曖昧にし、敗者が目立たぬよう、あるいは敗者が過度に不利にならぬよう、色々な工夫をして来た。それを「社会の知恵だ」と言う人もあれば「悪平等だ」と言う人もいて、どちらが正しいのかはよく分からない。ただいずれにせよ、競争原理が声高に叫ばれる背景には、戦後60年近くたって、もうそんな制度的工夫が、社会的にも経済的にも維持出来なくなっているという現実があるのかもしれない。 競争原理の下で勝敗が明らかになるのは仕方ないとしても、敗者がずっと一生敗者であり続けることのないような社会であって欲しいと思う。その時々の勝敗というのは、正しいか正しくないかの絶対的な判定ではないからだ。時が移り、時代が変われば、かつての敗者のやり方が再評価される時代が来るかもしれないし、そうでないとしても、その後の努力と工夫で、敗者が再び成功をつかめることもあるかもしれない。そのチャンスの芽まで永遠に摘み取ってしまう社会では、夢も希望もないことになる。 一見平和そうに見える絵の世界にだって、過去幾度もの戦いがあり、今でいう「勝ち組・負け組」がはっきりと分かれた場面があった。「勝ち組」は、当時の主流派として残り、美術界に確固たる地位を築いた。一方「負け組」は、中央の美術界を追われ、時として「異端」と蔑まれながら、不遇をかこった。ただ、絵画の世界では、戦いは1回限りではないし、あるいは画家本人が亡くなった後でも逆転劇があり得る。ある時代の「異端者」は、次の時代では「先駆者」ともてはやされたりする。 近代絵画の萌芽が生まれつつあった時代、西洋においてはアカデミーを中心とする主流派画家が圧倒的な力を持っていた。絵における美の価値というのは、彼らと彼らを取り巻く批評家達が決めていたと言っても過言ではない。そんな時代、1855年にパリで万国博覧会が開かれ、産業部門だけではなく美術部門の作品展示も行われた。 当時の絵画勢力は、「新古典派」と「ロマン派」に大きく分かれていた。「新古典派」の総帥はダヴィッドであり、「ロマン派」を育てて来たのは、ジェリコーだった。1855年のパリ万博では、この2人の系譜を継ぐアングルとドラクロワが、特別に展示室を割り当てられ、その画業を称える回顧展が行われた。そんな雰囲気の中、万博会場で開催された美術展の事前審査に、十数点に及ぶ作品を応募した一人の画家がいた。しかし、彼の作品は当時の美の基準に合わないとして、審査員により出展を拒否される。普通の画家ならここで諦めるのだが、彼はそうではなかった。万博会場前に場所を借りて個展を開き、勝負に出る。今ではアマチュア画家でも画廊を借りて個展を開くが、当時、アトリエの外に会場を設営して個展を開くという習慣は未だなく、これは無謀な賭けであった。 彼の名は、ギュスターブ・クールベ。彼が万博の美術展に応募した作品の中には、近代絵画史を語るうえで欠くことの出来ない「画家のアトリエ」や「オルナンの埋葬」などが含まれていた。しかし、歴史や聖書、あるいは文学作品などの名場面を題材にした絵画が中心だったこの時代に、目の前にある今の時代の美を描くべきだという彼の主張は受け入れられなかった。「羽根の生えた人間を見たことがないので天使は描かない」という彼の主張は、当時の美術界から見れば驚天動地だったに違いない。そして、彼が渾身の力を込めて開いた個展自体も失敗に終わる。 彼は、その時点での「負け組」であったが、生涯を通じてくじけることはなかった。そして、その惨憺たる不評の中から、新しい絵画の芽が生まれる。「写実主義」という名で説明される彼の主張に沿って、マネやモネ、ルノアールといった画家達が、歴史や文学の中からではなく、今自分が生活している日常の中から題材を探し、絵にしていった。それは今ではごく当たり前のことであり、絵を描く人で、それを奇異に思う人はいない。しかし、その考えをごく当たり前にするきっかけを作ったのは、フランス東部の小都市オルナンからやって来た頑固者の一人の画家だったのである。 世間の不評をどれだけ買おうと、個展が失敗しようと、決して譲らなかったクールベの不屈の精神は、その後の印象派から始まる近代絵画の礎石を築いたとして、後の世で評価されるようになる。その粘り強さやこだわりの源泉がどこにあったのか、私は詳しく知らない。しかし、一度の勝ち負けで諦めないその姿勢は、今のような競争の時代に我々が必要としているものなのかもしれない。あるいは、後の世で「時代の先駆者」と呼ばれる人は、皆、そんな頑固さを持ち合わせていたような気もする。 「私の時代の風俗や観念や様相を、私自身の評価に従って描き出すこと、ひと言でいえば生きた芸術を作り出すこと、これが私の目的である」(ギュスターブ・クールベ) |
7月15日(火) 「文化とモラル」 |
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あれほど大騒ぎしたイラク戦争も、終わってから既に3ヶ月近くが経った。4月に首都バクダッドに米英軍が攻め入り、フセイン政権は事実上壊滅した。旧政権下での秩序は崩壊し、数々の略奪騒ぎが起こっている様子が、繰り返し新聞・テレビに流れたのが、イラク戦争報道の最後の盛り上がりだったろうか。 その騒ぎの中で、バクダッドの博物館が暴徒に襲われて、多くの歴史的収蔵品が盗まれたという悲しいニュースもあった。「金目当てに自国の貴重な文化遺産を盗み出すとは、モラルの欠如もはなはだしい」という趣旨のコメントを誰かがしていたのを読んだ記憶がある。確かにひどい事件には違いないが、私には少々引っ掛かるものがあった。 日本美術に興味のある方なら、日本の古美術の逸品が、明治期以降、多数海外に流出したことはご存知のはずである。私は以前ニューヨークに住んでいたが、当時行った「メトロポリタン美術館」や「ボストン美術館」「フィラデルフィア美術館」などには、必ず「日本美術」のコーナーがあり、絵画や書はいうに及ばず、甲冑や刀、果ては立派な仏像まで展示されていた。現在日本に残っていれば、重要文化財はおろか、国宝級というものまでが多数流出したと伝えられている。時代の急激な変化に伴う旧支配階層の困窮といった事情はあったろうが、とどのつまり、これらの多くは「金目当て」で海外に売られたのである。 絵画の海外流出事例で有名なのは、超国宝級と評されている「吉備大臣入唐絵巻」だろうか。これは現在、「ボストン美術館」が所蔵している。文化財保護法成立50周年を記念して「東京国立博物館平成館」で開催された「日本国宝展」の際に、わざわざ「ボストン美術館」に頼んでこの絵巻を借り受け、他の国宝と共に展示したというエピソードまである。「吉備大臣入唐絵巻」は、日本国内で長く売りに出されていたが、誰も買わず、結局「ボストン美術館」が入手したと言われている。他にも浮世絵のように、海外に貴重なコレクションが多数存在している分野もある。 私が見聞きした経験では、だいたい歴史の浅い国ほど自国文化を意識して大切にする。米国で色々な歴史的建造物の類を見たが、「これはここまでして保存しなければならないシロモノなのか」と正直首をかしげるものもあった。しかし、そんなところにもボランティアのガイドがいて、丁寧にその文化的価値を説明してくれる。みんなで歴史や文化を守ろうという意気込みが感じられて、日本人として内心忸怩たるものがあった。 一方、中国や日本など歴史のある国は、古い文化にあまり頓着しない。周囲に古い文化財がありふれているからだろうか。確かに、「ちょっと古いからと言って一々保存していたらきりがない」という意見も充分理解出来る。お蔭で、古美術・文化財の類でも、その時々の必要に応じて壊されたり、売られたりして来た。無くなった後で、その価値に気付いても、後の祭りである。 例のバクダッドの略奪品について、イラク国民はどう思っていたのだろうか。メソポタミア文明がこの地に発生したのは、紀元前3000年頃。シュメール人による都市国家が成立した後も、アッカド、バビロンなどの王朝が興亡を繰り返し、チグリス・ユーフラテス流域は、それこそ古代文明の坩堝である。周りは古代の遺跡だらけ、掘ると至るところで出土品が出て来る。歴史のスケールが違うだけで、環境はどこか日本と似ているような気がする。 美術品や文化財を金目当てで売ることは、それ自体が悪だというわけではない。美術品だって立派な貿易財であり、海外に行き渡れば、自国文化を世界に広く知ってもらうことが出来る。ついでに言えば、自動車や家電製品を売るのと違って、貿易摩擦が起きにくい。ただ問題は、だからと言って何でも売っていいのかという点にある。これは、自国文化をどこまで大切にするかという倫理観と表裏一体の問題である。文化財や美術品を売ることがその国のモラルに抵触するか否かは、この両者のバランスをどう取るかという点にかかっている。 金に困って古美術品を海外に売り続けた明治時代の日本人と、金目当てで古代の出土品を盗んだ現代のイラク人とで、一体どれくらい本質的に違いがあるのだろうか。日本の場合は、自分の所有物を正規のルートで売ったのだから問題なくて、イラクの場合には、国が所有していたものを売買目的で盗んだから問題なのだろうか。それを言い出せば、美術品・文化財に限らず、何でも盗んで売るのは、等しくモラルに反する。イラクの国立博物館から出土品を盗んだ人も、フセインの宮殿から金目の物を盗んだ人も、同罪である。しかし、冒頭に紹介したコメントを発した人が問題にしたかったのは、そういうことではなく、金のために貴重な出土品を売り飛ばそうという発想そのものではないのか。 自国の貴重な文化財を金目当てで売ることのモラルを問うならば、「売ったのは盗品ではなくて自分の所有物だ」と言ったところで、免罪というわけにはいくまい。問題は、どの程度貴重な文化財や美術品を売ってしまったのかという点にある。実のところ、「一体どういうモラルなんだ」という冒頭の非難は、我々のご先祖様達にも浴びせられてしかるべき言葉だったのかもしれない。 |
7月22日(火) 「独創性」 |
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いつの頃からか、公募展に行って一枚々々の絵を見るときに、不遜にも「これは自分で描ける絵かどうか」を自問自答するようになった。勿論、私の技法の未熟さや、物理的に描ける絵の大きさに制約があるので、仮に絵を描くのに充分な時間があって大作を描くとすれば似たような作品を描けるか、という程度の曖昧な発想である。 「これは描けない」と思う絵は、大きく分けて2種類ある。 一つは、どう努力しても、これだけの描写力は自分にはないし、そこまで緻密に描けないという類の絵である。写真並みのリアルさと細密描写を前面に出した作品に多いが、大づかみながら大胆な筆致で実に見事に対象を捉えている作品もある。私は、これを「優等生的な」作品だと思っている。頭脳の出来で言えば「秀才型」である。 もう1つは、私にはまるで思いつかない着想で描かれた絵である。描写技術の問題ではなく、作品の構想そのものが、私にとって驚きである場合が多い。おそらく、その作品の対象となった風景やモノの前に私が立ったとしても、同じ発想の絵は思いつかなかったろうな、と思わせる内容の絵である。私はこれを「天才型」の絵だと思っている。 「秀才型」の絵は努力の賜物という面はあるものの、では、練習すれば誰でも描けるかと言うと、そういうわけではない。その域に達するには、ある程度の才能が必要であろう。ただ、才能のある者であれば、描画技法は練習次第でかなりのレベルまで達する。 江戸時代のお抱え絵師集団に「狩野派」というのがあった。「狩野派」の絵の練習は、手本となる師匠の絵を徹底的に弟子に叩き込む方式だったと何かの本で読んだ。弟子は、師匠の絵を忠実に真似て描くことで、師匠と同じレベルの描写力を身に付ける。入門を許された弟子達は、いずれも幼少の頃より絵を描くことに長けていた才能ある者達である。そのうち、手本を見なくても、師匠と寸分たがうことのない絵を描けるようになる。まさに「秀才型」の絵師達である。 しかし、「狩野派」の欠点は、この徹底的な「お手本主義」にあったとも言われている。師匠と寸分たがうことのない絵を描けるようになった者は、結局師匠の分身でしかない。「金太郎飴」ではあるまいし、何代続いても同じ絵では、そのうち飽きられる。この方式では、型にはまってしまって、独創性が育ちにくくなるのである。 上に挙げた「天才型」の絵とは、まさに、この独創性が勝負の絵である。しかし、独創性というのは、描画技術と違って練習して身に付くものではない。また、意識して人と違ったことをしたからと言って、独創性の面で成功するとは限らない。ちょっと突飛なことをする人を「芸術的」と褒め称える風潮が一部にあるが、そういう評価に私は首をかしげることが多い。多くの場合「奇をてらっただけ」という域を出ていないからだ。 ただ、独創性というのは、ある特定の人だけに生まれつき備わっている先天的な才能というわけでもない。誰でもある程度独創的な面を持っている。人に個性がある以上、当たり前のことである。それがうまく作品に現れないのは、多くの場合、自分なりの独創性を発見出来ていないからだと思う。あるいは「狩野派」ではないが、先生のお手本に縛られているせいかもしれない。独創性を磨くというのは、何もないところに独創性を生み出すことではなく、自分の独創的な面を見つけて、それを育てていくことではなかろうか。「天才型」の絵を描いている人は、そういう自分の独創性を上手い具合に見つけて育ててきたのだと思う。 では、どうやって自分の独創性を見つけるのか。これは難しい問題であり、確たる方法を私は思いつかない。場合によっては、人から指摘されて気付くこともあるだろう。しかし、自分自身で探すとなれば、結局自分自身をよく見つめるしかない。自分は何故絵を描きたいのか、何を描きたいのか、それをどう捉えどう表現しようと考えているのか。とどのつまり、絵を描くというのは、自分を見つめる長い旅のようなものかもしれない。絵の対象物だけでなく、自分をもよく見つめる者が、自分らしい絵を描くことが出来るようになるのではなかろうか。先生について絵を習う者は、そのことを心の片隅に常に留めておくべきではないかと思う。 |
7月31日(木) 「奥の細道」 |
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今日は、絵とは関係のない話をしたい。 先日、土曜の午前中にたまたま体が空いたものだから、江東区清澄にある「清澄庭園」まで出掛けた。幾度か紹介記事を見かけ、一度行ってみたいと思いながら、今まで果たせないでいた庭園である。距離的には我が家から遠いのだが、地下鉄を使うと最寄駅から一本で行けるので、そう面倒ではない。 「清澄庭園」は、江戸時代の豪商として名高い紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられており、明治時代になってから、三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎が、迎賓用に回遊式の林泉庭園として整備したものである。庭園内は、大きな池の周りをぐるりと散策するようになっており、岩崎弥太郎が全国から集めた名石が、園内各所に解説付きで配置されている。 名石を見ながら丁度半分回ったところに「自由広場」という日本庭園らしからぬ野原があり、ベンチとテーブルが置かれていた。広場の周辺に菖蒲が植えられており、庭師さん達が汗だくになって手入れをしているところだった。ふと見ると、その脇に立派な句碑が一つあった。 「古池や かわず飛び込む 水の音」 誰でも知っている松尾芭蕉の句である。その横に句碑の由来を書いた立て札があった。元々隅田川沿いの芭蕉庵跡にあったものを移して来たらしい。そして、この「清澄庭園」の南東に、芭蕉が「奥の細道」の旅に出発した際に住んでいた「採荼庵(さいとあん)」という庵の跡があると解説してあった。私は、芭蕉ファンというわけではないが、「奥の細道」の冒頭文は、旅立つ者の思いを綴った名文だと昔から感心しているので、芭蕉が旅の出発点とした庵跡を見てみたくなった。 芭蕉は元禄2年(1689年)、旧暦3月27日の未明に「採荼庵」の脇にある仙台堀の土手から、見送りの門人とともに船に乗り、隅田川をさかのぼって「奥の細道」の旅に出た。その1ヶ月前には、旅立ちの準備として身辺整理をし、それまで住んでいた隅田川沿いの「芭蕉庵」を、ある家族に譲り渡し、門弟である杉山杉風の別邸であった「採荼庵」に移り住んだ。このときの話が、「奥の細道」の冒頭文の末尾に出て来る。「住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに」というのがそれで、「住めるかた」は「芭蕉庵」、「杉風が別墅」というのが「採荼庵」である。そして、この文章の直後に、「奥の細道」最初の句が出て来る。 「草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家」 冒頭の「草の戸」は「芭蕉庵」のことである。手放した「芭蕉庵」に新しく越して来た家族が、娘のために雛人形を飾っているのを芭蕉が見て、世捨て人の自分と、市井に暮らす幸福な家族との対比を詠んだものである。そして、これを発句とする8つの句を「採荼庵」の柱に掲げ、芭蕉は3月末の未明、庵の脇から船に乗る。 私は、「清澄庭園」の窓口で「採荼庵跡」の場所を聞いて歩き出した。芭蕉が船に乗ったという「仙台堀」は、今でも「仙台堀川」として残っている。そして、そのたもとに小さな小屋と芭蕉の像があると、庭園の窓口の人は教えてくれた。清澄通りを南に下がり、「仙台堀川」を越えると、はたして「採荼庵跡」はあった。 しかし、私はその場に立って絶句した。最初は何かの冗談ではないかと思った。芭蕉は、現代風のプレハブ住宅の縁台に座っていた。そして、これは致し方ないことなのだが、芭蕉が今から300年前に旅立った「仙台堀川」のその場所は、黒くにごってゴミが浮いていた。 「奥の細道」の冒頭は、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」(月日は幾代にもわたって旅を続ける旅人のようなものであり、巡り来る年々もまた同じである)という有名な文で始まる。しかし、そうして旅を続けて来た歳月の行き着いたところが、これなのかと思うと、私は少々悲しかった。縁台に座る旅装束の芭蕉像も、心なしか悲しい目で、清澄通りを行き交う車の流れを見つめているようだった。私は「採荼庵跡」で「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という芭蕉の旅への思いを、僅かなりとも感じ取ろうとわざわざ来てみたのだが、今の時代、それは無理な相談だったのかもしれない。「いや、これも仕方ないこと」と思いながら踵を返し、私は地下鉄の駅に向かって歩き出した。 「行く春や鳥啼き魚の目は泪」 (芭蕉が仙台堀から乗った船を今の荒川区南千住で降り、旅の最初に詠んだ矢立初めの句) |
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