パソコン絵画徒然草
== 7月に徒然なるまま考えたこと ==
7月 3日(火) 「空梅雨」 |
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東京では6月14日に梅雨入り宣言が出たものの、今のところ雨の日は少ない。曇って今にも雨の降りそうな日はあるが、パラパラと降ったかと思うとすぐに止んでしまったりする。梅雨と聞くと「今日もまた雨か」と恨めしげに天を仰ぎながら駅まで向かう日が続くというイメージが強いが、今年はまだそこまでいっていない気がする。 全国的に見ても、所々で大雨の被害が出ているようだが、総体的に雨は少なく、既に深刻な水不足が予想されている地域もあるようだ。7月に入ってから豪雨になることもあるから未だ々々油断は出来ないが、ここまでのところから推測すると、どうやら空梅雨の気配濃厚で、このまま暑い夏に突入するのかもしれない。 今年は、年の初めから気候がおかしかった。冬は暖冬でポカポカ陽気の日もあった。東京では、ちょっとだけ雪が舞った程度で春を迎えた。こんなことはめったにない。そしてまた、空梅雨の到来ということで、この調子だと8月がどうなることやら恐ろしい気がする。猛暑なんて声がチラホラ聞こえるが、そうなるといつだったかのように、来年の春は大量の花粉来襲となって、花粉症患者が苦しむことになるのだろう。 梅雨は湿気も多く雨の日が続くから、汗かきの私は昔から嫌いだし、たいていの人は梅雨と聞いていい顔をすることはないだろう。だが、この鬱陶しい季節が自然にとってどれ程重要なものかは心得ているつもりである。日本の自然は、梅雨のあることを前提に成り立っている。冬の積雪と梅雨の雨がないことには、自然界では水不足必至である。あまり人目には付かないかもしれないが、動物も植物もかなり打撃を受けることになるのだろう。 今年のような気候だと、江戸時代なら大凶事となるのではないか。各地の神社では雨乞いの祈祷が行われるだろうし、もっと大きな異変の生じる前触れかと、人々は不安におののいたに違いない。空梅雨なら農作物が育たず各地で飢饉が発生し、餓死者や娘の身売りなど、痛ましい事態が生じたのだと思う。 そうであるがゆえに、昔の人々は、こうした異常気象の前触れ的なものを鋭敏に感じ取る技や知恵を磨いてきたはずだ。この季節にこういうことが起こると、次の季節にはこうなるといった言い伝えは各地にあるが、それは人々の運命を左右するような重要な知恵だったに違いない。そして、そこで言われているような予兆がないかどうか、人々は目を皿のようにして自然の有様を観察していたに違いない。 しかし、現代の日本では、暖冬にせよ空梅雨にせよ、それ程深刻に考えている人はいない。様々な技術進歩のお蔭で水を蓄えることが出来るし、農業に与える影響も昔ほどではないのだと思う。農産物の輸入が可能だし備蓄もあるから、少なくとも江戸時代のように食べ物がなくなってたくさんの餓死者が出るなんて事態にはならない。江戸時代なら多くの人々の生死を決するような異常気象も、今では比較的落ち着いて対応できるようになった。 これは見方を変えれば、自然の動向に人間がドンドン鈍感になっているということだろう。いや、鈍感でも暮らしていけるようになったということで、不安が減った分、むしろ喜ばしいことなのかもしれない。だが私はどうも引っかかるのである。 芸術でもファッションでも、「感性」なんて言葉がカッコよく使われるが、これは本来、動物が持っている本能的な感覚に根ざしている概念ではなかろうか。よく「勘が鋭い」なんていうが、これも生存本能につながる感覚的なものである。そうした直感的な能力は、理屈や論理では説明の付かない動物的な感覚の奥深いところに根っこを持っているのであって、自然の状況変化に鈍感になっていくというのは、そうした感覚が鈍っていくことを意味しているような気がするのである。 絵を描く者にとって、自然を敏感に感じ取る感覚というのはとても大切なことである。どんなに高い描画技術を持っていようと、その感覚がなければ、見る人をハッとさせるような作品は描けないと思う。自然に対してドンドン鈍感になっていく現代人が果たしていつまでこうした鋭い感覚を維持していけるのか、私はちょっと心配なのである。 |
7月12日(木) 「アナログであること」 |
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暫く前からだと思うが、大人の塗り絵が静かなブームになっている。本屋に行くと店頭にその種の本が幾つか平積みされているし、関連のサイトもたくさんある。ぱっと見た印象では花の線画の上から色を塗るような内容のものが多いようだが、他にも風景とか、古典的名画に色塗りするものもあるらしい。脳を活性化するなんて効能もうたわれているようで、楽しさ第一の子供の塗り絵と違って、それなりに科学的根拠が付いているところが面白い。 これと似通った傾向のものとして、名文を鉛筆でなぞり書きしていく本の流行もある。昔、古文の授業で習ったような古典の名作などがお手本で、それが薄く明朝体の文字で書かれてあって、鉛筆でその上からなぞって自分の字で名作を書いていくわけである。こちらの効能が何かは知らないが、字の練習と癒し効果ということだろうか。 塗り絵にせよなぞり書きにせよ、デジタルの時代にあって、如何にもアナログ志向の趣味であり、そこに意外感がある。薄く印刷されている文字の上を鉛筆でなぞって書くなんて、ワープロ全盛時代へのアンチテーゼのようだ。 塗り絵というのも面白いと思う。私が描いているコンピューター・グラフィックス(CG)も、一種の塗り絵ではある。風景画はともかく、花を描くときはまず線を描いたうえで、あとから色を塗っていっている。ただ、絵具を含んだ筆が画紙やキャンバスの上を走っていくような感覚はない。私はタブレットで塗っているが、タブレットのタッチは硬質で、ガラスの上でボールペンを走らせているようだ。鉛筆や筆の触感とはまるで違う世界である。 結局同じ塗り絵でも、色鉛筆やクレパスなどで紙の上に塗るのと、タブレットでパソコン上に塗るのとでは、その触感がまるで異なる。タブレットで塗っても脳の活性化につながるのか定かではないが、気持ちの良さでは、色鉛筆やクレパスで塗った方がいいに決まっている。 もう1つ違いを挙げれば、塗り面の正確さ、均一さだろうか。色鉛筆やクレパスを使ってアナログに塗ると、手描きだから色がはみ出たり、濃淡が生じたりする。他方パソコン上でデジタルに塗ると、輪郭を正確に取り均一に色を置くことが出来る。簡単に言えば、アナログの塗りには曖昧さがつきまとうのに対し、デジタルの塗りはクリアである。 デジタルのクリアさは現代の世相に合ってはいるが、人間、クリアカットな生活だけでは疲れてしまう。それは我々人間が元々、デジタルではなくアナログな存在だからだろう。ワープロのきれいで正確な文字ではなく、ちょっとゴツゴツした手書きの文字を求めたり、きれいな塗りのデジタル絵画ではなく、はみ出したり滲んだり濃淡のある塗りを好むのは、正確無比なデジタル世界の中で心が乾いているせいかもしれない。 前から思っているのだが、よほど高潔な人でない限り、人間は生活のどこかに猥雑さがないと生きていけない。人工的で機能的な造りの街並みは、清潔できれいだが、隅々までそればかりでは息が詰まってしまう。家の中がビジネスホテルのように無機質だったら、なかなかくつろげないのと同じである。 昔の生活はどこか不器用でカッコ悪く、おしゃれさに欠けていたかもしれないが、少なくとも大人が塗り絵をしたくなることはなかったのではないか。我々はクリーンでスタイリッシュに生きようとするあまり、街や生活をきれいにし過ぎたのかもしれない。 |
7月18日(水) 「掲示板再変更」 |
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このたび掲示板を新しいものに替えた。4月末に今の掲示板に移行したばかりだから「またか」と思われるかもしれないが、やむにやまれぬ事情があったためである。 このところ、掲示板荒らしやスパムメール被害など、アダルト系詐欺業者の跳梁跋扈を糾弾するような話を繰り返し書き続けていたから、またその種の被害に遭ったのかと思われたかもしれないが、事実はさにあらず。掲示板を提供してくれていた業者が、サービスを取りやめたのである。 この前まで使っていた掲示板はセキュリティー面でも優れていて、これで無料かと驚くほどのサービス内容だったのに、まことに残念である。先月から閉鎖のお知らせを貰っていたので再び掲示板探しをしたのだが、条件に合ったものが中々見つからず、選ぶのに苦労した。 今回の掲示板も、セキュリティー第一で物色したため、あまり選択の自由度がなかった。背に腹はかえられぬから仕方ない。今回も前回同様パスワード設定にした。パスワードは前回と同じく「5」である。パスワードなんて言われると4ケタくらいの数字を思い浮かべてしまうのはキャッシュ・カードを連想するからだろう。業者書込み対策にはそこまでする必要はなく、要は書込みが面倒臭ければそれでいいのである。「5」だとシンプルで覚える手間がないのでちょうどいいと思っている。 今回掲示板探しを通じて感じたことは、無料掲示板サービスは依然あるものの、ひと頃に比べると提供業者が少なくなっているということである。替わって勢いを増しているのが、ご多分に漏れず無料ブログである。ブログは初心者でも更新が簡単だし、コメントも付けられるので、ホームページと掲示板という定番の組合せを、ブログ一本の形に乗り換えてしまおうという方が多いらしい。確かにその方が楽チンだし、容量もたくさん貰える。写真だって貼れるし、他サイトへのリンクも表示できる。 この「パソコン絵画徒然草」は、見た目ブログに似ているし、ブログ形式に乗り換えられなくもない。ついでに掲示板も止めて、ブログの方にコメントを書き込んでもらうようにすれば、アダルト業者の宣伝書込みにもある程度対応できるようになると思う。では、何故そうしないかということだが、実は一度乗り換えを考えたことがある。しかし、たまたまそのときに嫌な事件を知ってしまったのである。 比較的大手の業者がやっていたブログサービスで、サーバーの不具合からユーザーのブログの過去分が全て消えてしまったのである。もちろん復旧不可能で、過去に書いた分が全てパーになった。これを見て、こんなことじゃあたまらんなぁと思ったのである。 現在の「パソコン絵画徒然草」は、たとえ今借りているサーバーがダウンして過去分が全て消えてしまっても、私のパソコンにバックアップ付きで残っているから再アップは簡単である。また、サーバーを引っ越す際にも一緒に移行できる。だが、ブログではそうはいかない。ブログは、過去に遡って書き込めないし、書き込めたとしても日付ごとに該当日に原稿をコピー&ペーストするのは大作業である。また、引越しも出来ない。仮に利用し始めたブログが気に入らなかったとしても、過去の書き込み分まで含めて別のブログに引越しなんて便利な機能は、今のブログには付いていない気がする。これ程他人依存のシステムに身を任せる気が起こらなかったというのが、ブログ乗換え断念の理由である。 だが、過去の分が残らないという点では、掲示板におけるやり取りも同じことである。今回で掲示板は4つ目だが、過去3つの掲示板における訪問者の方々とのやり取りは、今や私の手元に残っていない。最初に私の掲示板に書き込みをしてくれた人は何と書いてくれていたのか、今では思い出せない。 掲示板を替えるたびに過去のやり取りや人間関係が消えていくのは、ある意味、人生における人付き合いと似ているのかもしれない。高校に入って初めて声を掛けてきてくれた友達が誰で、どんな話をしたのか、もはや覚えてはいない。大学時代に友人と交わした会話の詳細も覚えていない。しかし、貴重な付き合い、心の残るやり取りは覚えている。別に記録にとっているわけではないが、時々よみがえって来る思い出はたくさんある。 サイトにおける交流も、あるいはそれでよいのかもしれない。 |
7月24日(火) 「夏の思い出」 |
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今日は東京でもからりと晴れて、久し振りに夏の青い空を拝むことが出来た。天気が良いと気分も良いもので、出勤時の駅までの道のりは、心なしか足取りが軽かった。そうは言っても、まだ梅雨明け宣言が出ていないので、また明日から曇り空に逆戻りかもしれない。 今年は梅雨明けが例年より遅いそうだが、まもなくして梅雨が明ければ、いよいよ本格的な夏がやって来る。ギラギラ照りつける太陽、青々と茂る雑草、うるさい程のセミの鳴き声・・・。この季節になると、いつも子供時代の夏休みの日々を思い出す。 もう何十年も前のことだから、今の子供たちの夏休みとはまるで違う世界だった。テレビゲームもなければ携帯電話もない。ビデオレコーダーやDVDもなく、子供向けのテレビ番組と言えば、一日のうちの僅かな時間帯だけだった。楽しみといって他にない時代、我々子供たちは外に出て遊ぶしかなかった。いや、それが当たり前だったし、それ以外の夏休みはあまり考えられなかった。 一年のうちで、もっとも自然に親しんだのも夏休みだった。カブト虫・クワガタ虫採りやザリガニ釣りから始まって、森やら川やら海やらに出掛け存分に自然観察をした。今の絵画制作の一番基礎に当たる部分は、その頃の自然観察の中で養われたのではないかと思う。例えば、カブト虫・クワガタ虫採りのためには、森に精通しなければならなかった。どんな種類の木がどこに植わっていて、どういう外観の木なら甲虫たちが集まりそうか、あるいは間違って毛虫など降って来たらかなわないから、どんな木に毛虫が付きそうかも、実地観察で学んだ。 そんな夏休みも遊んでばかりはいられなかった。今はどうだか知らないが、当時は学校からたくさん宿題が出た。全教科万遍なく出たような気がする。一日の過ごし方や夏休み期間中の計画も出させられて、勉強時間も決められた。朝はラジオ体操に行きなさいと言われ、朝食後は10時頃まで家で勉強しなさいと指導された。ラジオ体操は地域ぐるみだから、さぼるとすぐばれてしまう。今なら余計なお世話と文句が出たり、管理教育だと非難されるのかもしれないが、それが当たり前の時代だった。 山と貰った宿題の中に、必ず図工の宿題があり、夏休み中に絵か工作を制作し提出しなさいと言われていた。テーマは指定されない。私は子供の頃から絵を描くのが得意だったから、もっぱら絵を描いて出していたが、テーマを自由に選んで描いてよいというのは、授業のときと勝手が違っていた。学校で絵を描くときは、題材は先生が指定した。動物を描きなさいとか、この辺りの風景を描きなさいとか、一定の枠組みが示されて、その中で各自が対象を選んだ。何を描いてもよいと全てを任されたのは、夏休みの宿題だけだったと思う。 「絵画制作が得意なら、そんなの朝めし前で楽々制作してたんでしょうね」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、現実はさにあらず。実は結構苦しんでいた。 自分は絵が得意だと思うから、他の人とは違ったものを描こうといつも悩んでいた。いい題材を見つければ、きっと皆が驚くようないい絵が描けるだろうと思って、あちこち題材を探した。自分の行ける範囲をウロウロ回って画題を探すのだが、どうにも見つからない。気負っている分、何を見てもピンと来ないのである。 私はたいてい粘りに粘ってギリギリまで題材を探し、結局見つからずに夏休みの終わり頃に平凡な風景を悔し紛れに描いた。自分の周りに、どうしてこうも平凡で特徴のない風景しかないのだろうと嘆きながら夏は終わった。それもまた、今となってはいい思い出である。 さて、今年の夏はどんな絵を描こうか。出来た絵をあの頃の図工の先生にも見てもらいたい気がする。今の絵を見て何と言ってくれるのか訊いてみたいのだが、残念ながら今では音信不通である。 |
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