パソコン絵画徒然草
== 8月に徒然なるまま考えたこと ==
8月 1日(木) 「絵日記」 | |
8月というと、即座に「夏休み」という言葉が思い浮かぶ。社会人になってから20年近く経つが、この季節の思い出といえば、「夏休み」のことばかりが浮かんで来る。それも中学・高校や大学時代の夏休みではなく、小学校時代の夏休みにまつわることが多い。 ラジオ体操、海水浴、夏祭り、キャンプ、カキ氷、虫取り、盆踊りなどなど。子供にとって夏休みは、楽しい行事が目白押しだった。中学、高校と年齢が上がっていくに連れて、そんな行事には次第に目を向けなくなってしまったが、こうした夏のキーワードにまつわる小学校時代の思い出だけは、いつまでも心に残っている。 夏休みになると色々宿題が出たが、定番といえば絵日記だろうか。小学生だった私は、文章はともかく絵だけは色鉛筆を使って熱心に描いた覚えがある。あの絵日記の絵というのは、そのまま夏の思い出になるような場面の連続だった。縁台でスイカを食べているところ、蝉を取りに行った場面、プールで泳いでいる様子、全て夏の一瞬を切り取ったシーンばかりである。この季節、毎年同じようなことを繰り返して過ごしたが、子供心にはそれなしには夏が終わらないという感じだった。そんな楽しい行事を一つずつこなし、それを絵日記につけていく。絵日記のページが残り少なくなるに連れて、秋の足音が聞こえてくる。やがて夏休みが終わり、長い2学期が始まるのだった。 宿題として提出した絵日記に、先生は丁寧にコメントを書き入れて返してくれた。そんな絵日記を後になって見返すと、幾つもの思い出が甦って来る。文章だけの日記と違って、やはり絵の効用は大きい。まず、見る者の目に絵がパッと飛び込んで来る。文章は二の次である。小学生の文章だから、あまり長々とは書いていないが、絵がそれを補って多くのことを語ってくれる。今では、文章の方は殆ど忘れてしまったが、絵だけは結構覚えている。視覚的な記憶の方が、長く心に残るものらしい。 初心者が絵を描く場合、何を題材に選ぶか悩む方もおられるが、それならいっそ、この絵日記から始めてみてはどうだろうか。絵を描き始めの頃は、何もプロの画家と同じように高尚な芸術を追及する必要などない。また、凝った仕上がりの大作を長い時間かけて描く必要もない。自分の生活体験の中から心に残ったものを簡単なタッチで描く、ということで、初めは十分である。高尚な芸術も、突き詰めればその延長線にある。そうして描いた絵なら、夏休みの絵日記と同じく、あとで眺めると色々な思い出が甦って来るはずだ。いうならば人生の絵日記である。 そういえば、ネットの世界では、個人でつける日記の公開が人気だと聞く。たしかに、色々なサイトを回っていると「Diary」というコーナーが目に付く。しかし、絵日記というのは中々見かけない。日々の出来事を絵にしたついでに、それに文章を付け、絵日記にして公開するのも一案ではないか。ホームページのコンテンツについてアイデアを練っておられる方々、子供時代に戻って挑戦されたら如何か。 |
8月 6日(火) 「夜の風景」 | |
1ヶ月前の話になるが、七夕の夜に、家族で星を見に外に出た。幸い晴れていたものの、東京都心部で星を見ることは難しく、僅かにまたたく明るい星を1つ2つ見つけただけだった。東京の夜空には風情がない。都市の夜景はきれいだが、その美しさは、満天の星空とは全く別の人工の美に過ぎない。 都会で暮らすようになって、自然の中における夜の美しさに触れることはなくなった。満天の星空もさることながら、山の上にかかる月も、黒々と闇に沈む森も、月の光に照り映える川面も、見ることがなくなった。いや、都会に住んでいると、そういった夜の自然の美しさに関する記憶そのものが薄れてしまう。都会に住む者にとって、人工の光が当たらない場所は、単に漆黒の闇でしかない。 夜を題材にした絵というのは、洋の東西を問わず存在するが、子供の絵では滅多に見かけない。子供というのは、本能的に闇を怖がるので、夜はそもそも絵の題材にならない。せいぜい、花火や月が画題になる程度か。 他方、夜を題材に画家達が描いた名作というのは沢山あるが、私の見るところ、自然の中における夜の美しさとなると、伝統的な日本絵画が得意とするところであり、昔ながらの西洋画の世界では、街を舞台にした人の息遣いが聞こえる夜の情景が主流のような気がする。その理由は定かではないが、西洋において月の光が人の心に悪い影響を与えるという迷信が広く信じられていたからではないか、というのが私の推理である。 日本で夜を題材にした絵というと、月をテーマにしたものが圧倒的に多いのではないか。たとえ画面に直接月が描かれていなくとも、どこか夜空に月が昇っていることを連想させる構図が多い。月明かりがほのかに画面を照らしていたり、月の光で川面や海がキラキラと輝いていたりと、様々な道具立てを駆使して、画面では見えない月を連想させる工夫が凝らされている。逆にいうと、月と全く関係のない夜の絵というのは珍しい。かくいう私も、夜をテーマにした絵というと、条件反射的に月を思い浮かべてしまう。 しかし、夜をテーマにした絵というのは、未だ々々未開拓な領域があるのではないか。昼の設定だとあれだけ様々なパターンの絵があるのだから、夜の絵にももっとバリエーションがあっていいはずだ。月をテーマにしたのではない夜の絵、都市の夜景でもない構図。考えれば何かありそうな気がする。奇をてらえばいいというわけではないが、今まで誰も描かなかった領域というのは、妙に心惹かれるものがある。夜の風景の魅力について、改めて探ってみる価値はあるのではないかと思う。新しい絵というのは、案外そんな思い付きから始まったりするものである。 |
8月 9日(金) 「企画展」 | |
このサイトを昔からじっくり見ている人は覚えておられるかもしれないが、私はこの正月に、今年のうちにやろうとしている3つの企画を掲示板で明らかにした。1つは、当時未だコーナーを設けていなかった先頭ページの絵の展示室を作ること、もう1つは、パソコン絵画も含めた絵全体に関するエッセイを掲載すること、3つ目は、あるテーマに沿って何枚かの絵を組み合わせて展示する企画展のようなコーナーを作ることである。 気が付くと、今年も半分以上終わってしまったので、この辺りで、これら3つの企画に対する中間的な総括をしてみたい。 最初の、先頭ページの絵を展示するコーナーの新設は実施済みである。2つ目のエッセイもこうして不定期ながら駄文を書き連ねている。しかし、3番目の企画展というのが、全く目途が立っていない。実は、私が正月にこの構想を思い立った時には、企画展の方がエッセイより簡単だろうと思っていた。しかし、いざやろうとすると、これが中々難しい。 企画展が実現を見ない最大の理由は、テーマに沿って一群の絵を構成していくことの難しさにある。特定のテーマに沿った風景画というと、例えばある土地を訪れてそこを題材に連作を描くとか、「○○のある風景」のように、あるモチーフにこだわって画面作りをするといったことが考えられる。前者なら「奥多摩シリーズ」とか「湘南風景」とか、後者なら「橋のある風景」とか「猫のいる情景」とか、思いつくだけでよいのなら色々考えられる。ただ、これを実際に描くとなると、単独の作品を何枚か描くのよりも大変である。 まず連作を描く場合、思い入れの深いテーマを持っていることが前提となる。それは、愛着のある土地であったり、何かのきっかけからこだわり続けているモチーフであったりと、様々であろう。深い感情移入が出来るテーマを持っていれば、そこから自然と何枚もの絵が生まれてくるはずである。しかし、そうしたテーマとの出会いは運命的なものであって、努力すればめぐり合えるというわけではない。ましてや思い付きではどうしようもない。 また、そうして描いた絵を組み合わせて展示する場合、一枚一枚の絵のまとまりだけではなく、それぞれの作品が連作の中に占める位置付けを考えた上で、連作そのものが1つのイメージでまとまるように計算しなければならない。これがうまく出来ていないと、何のための連作なのか分からなくなるし、それを企画展と称してまとめて展示する意義もなくなってしまう。 要するに、企画展に取り組むというのは、単独の作品への取り組みとは、最初のアプローチからして違って来る。企画展向けに描くとなると、テーマに沿ってある程度心の中に絵を溜めていって、全体の作品群の構成をイメージしながら、一枚々々仕上げていくというアプローチになるのだろう。いうならば、大きなイメージのそこここに、はめ絵を埋め込んでいくようなものか。 しかし、私には今のところ、そこまで思い入れのあるテーマがあるわけではないし、日頃の制作態度は、多分に行き当たりばったりである。風景を見た瞬間の感動や、心に浮かんだイメージを、そのまま即、絵にすることが多い。これでは、まとまりのない作品群が生み出されるだけである。まぁ、テーマ選びも含めて、焦らず急がず、のんびり構えることにしよう。芸術の秋もあることだし…。 |
8月14日(水) 「静物画考」 | |
この「休日画廊」の中に「静物画」というジャンルを設けているが、開設以来ずっと花の絵が続いている。これでは「静物画」ではなく「植物画」コーナーだなと自嘲気味に思う。 当初このコーナーを設けたのは、新たな挑戦のつもりだった。私は長い間、ほぼ風景専門で絵を描いてきた。だから、パソコンで絵を描き始めるに当たって、風景以外のものにも挑戦してみようと思い立って、とにかく「静物画」というジャンルを作ってみた。正直言って、その時点で確たる構想はなかった。それがいけなかったと言えばいけなかったのだが、コーナーを設けた以上作品がないでは済まないので、取りあえず、というつもりで花の絵を描いた。そして、取りあえず描き始めた花が、以後ずっとこのコーナーを占領しているのである。 私自身「静物画」にさしたる造詣はなく、画家といっても思い浮かぶのは、月並みながらシャルダンくらいである。日展や院展などの公募展に行くと沢山の「静物画」があるが、どうも私が目指しているものとは違うような気がする。水牛の頭蓋骨や壊れた人形など、余り描く気になれない。 私がイメージする「静物画」とは、「人工的に作られた風景画」である。「風景画」は、自然の風景を題材にして描く。人間が造り出したものではない自然のたたずまいの中に美しさを見つけて絵にする。そこでは、描く側は、自然によって造り出された美の受け手であり、それをうまく発見出来れば、いい「風景画」を描けるのである。 それに比べて、「静物画」の場合、絵の描き手は、身の回りにある様々なものを組み合わせて配置し、自分自身で美の空間を造り出すのである。そうして人工的に造り出された小さな風景を絵に描く。美を見つけるのではなくて作るのである。従って、絵を描く行為は、絵の対象となる空間を造るところから始まるし、そこで5割方は絵の出来が決まるような気がする。そういう意味では、私が現在描いている花の絵は「静物画」ではない。 問題は、この「身の回りにある様々なものを組み合わせて配置し、自分自身で美の空間を造り出す」という部分で、そんなことは「風景画」の世界にはない作業なので、私自身イメージが湧かないのである。第一に、空間を造り出すために配置すべき適当なものがない。まさか、台所用品を並べて「静物画」というわけにはゆくまい。 日本画のジャンルに「花鳥画」というのがあるが、「花鳥画」を得意とする画家ともなると、自分で沢山の鳥を飼い、花を育てている。美の素はそこここに転がっているわけではないから、やはり絵を描く準備として素材を手元に集める必要があるのだろう。「風景画」を描く人間がいい風景を探しに色々なところに出掛けるのと同様、「静物画」を描く者は、日頃から絵を構成する素材に敏感でなければならない。「風景画」にせよ「静物画」にせよ、準備なくしていい絵は描けないのである。 他方私は、果物を題材にしたシャルダンの静物画など思い出しながら「そういえばこの前、田舎から桃が来ていたなぁ。あれを題材に…」と思い立つが、そういう考えが浮かんだ頃には、家族で桃を食べ終わっているのである。この調子だと、「静物画」コーナーに当分花の絵が続きそうである。 |
8月17日(土) 「待ち時間」 | |
大学に入って美術部で絵を描き始めたとき、最初に手を染めたのは油絵である。それまで一度も油絵を描いたことのなかった私にとって、油絵には本格的な絵画というイメージがあった。ペインティング・ナイフでキャンバスに絵具を盛り付けるのはそれまで経験したことのない感覚だったし、モチーフを自由に選んで描くのも新鮮だった。しかし、予想外のこともあった。油絵具の乾きの遅さである。 まず、下地塗りが乾くのに時間がかかり、部分々々を描くたびに、ある程度の乾燥を待たねばならない。速乾性の油も、多用するとひび割れの原因になったりするので、上手い解決策は見つからなかった。次の一筆に向けてはやる心を無理に抑えつけるのは、一種のストレスである。私は数ヶ月かけて1枚描くような「ゆったり派」ではないので、これはまだるっこしかった。何枚か描くうちに「どうもこれは自分のリズムに合っていない」と思うようになった。 私は、風景を見た瞬間の感動や、心に浮かんだイメージを、瞬間冷凍パックのように絵の画面に貼り付けるタイプである。私にとって絵は「なま物」であり、イメージを絵にせずに放置しておくと、最初にイメージしたものを復元出来なくなってしまう。絵具の乾きを1〜2日待つのは、時として苦痛だった。 私はその後、水彩画、水墨画、日本画、アクリル画と、色々な絵を描いてきたが、これらは水で絵具を溶くタイプの絵だったので、乾きという点では油絵より速かった。しかし、それでも乾くのが待てないことがあり、頻繁にドライヤーを使うようになった。また、絵具を厚塗りしたうえでドライヤーを使うとひび割れが起きるので、薄く何度も重ねるようにして塗るようになった。 ところが、パソコンで絵を描くようになって、こうした悩みは一切解消された。パソコン絵画に絵具の乾燥は関係ない。とにかく「待ち時間」がない。お蔭で効率的にスイスイと絵が進む。いや、進み過ぎると言った方がいいかもしれない。中には、描き始めて1時間以内に完成してしまう絵まである。こういう速いリズムで描くようになってふと思ったのだが、パソコン絵画では、筆を止める時間が余りない。絵具で描いていたときには、ドライヤーで絵具を乾かしている間は、筆を止めて絵を見ていた。その僅かな間、目の前の描きかけの絵について考えた。時としてそういう中から新しいヒントが生まれたり、画面構成や色バランスにプラスになるようなアイデアが湧くこともあった。パソコン絵画では、意識しないと、そういう時間が持てない。何か、休憩もなく全力疾走しているようになってしまう。 「待ち時間」がなくなって「待ち時間」の効用について考えた。お蔭で今では、「ここまで描けたらコーヒーを入れに行って一服しよう」と、意識的に筆を止めるようになった。そして、途中段階の絵を暫し眺める。時には、未だ時間があるのに、途中で描くのを打ち切り、残りは無理やり翌日に回すことさえするようになった。絵の途中で考える時間を設ける必要に、今さらながら気付いたからである。そうしているうちに、自分なりに絵を描くリズムというのが分かりかけて来た気がする。 |
8月22日(木) 「動物の絵」 | |
以前から、動物の絵を描いてみようという思いはあるのだが、中々実行に移せずにいる。ちょっと上野まで出掛ければ動物園があるのだが、オリの中の動物達は物憂げで、描く側にイマジネーションを湧かせてくれない。 ニューヨークに住んでいた頃、子供を連れて動物園に何度か行った。ニューヨーク市は5つの区から構成されているのだが、ハーレム川をはさんでマンハッタン区の北に位置するブロンクス区に動物園がある。その名も「ブロンクス・ズー」。最初ここに行ったときには少々驚いた。まず園内がとても広く、オリの前に行っても中々動物が見えない。オリの向こうには草原や森が広がっており、そこにポツポツと色々な動物がいる。キリンが悠然と草原を歩き、ライオンがはるか向こうの岩の上で寝ている。動物が動物らしいのである。 上野動物園でじっと動かない動物を見ても感動することはないのだが、ブロンクス・ズーで悠然と草原を行く動物を見ていると、何か心動かされるものがある。野生の動物ってこういうものだろうなぁ、と思うからだろうか。カゴの中の鳥を見るのと、大空を飛ぶ鳥を見るのとの違いかもしれない。 同じくニューヨークにいた頃、家族でたまに近場の公園(といっても日本の公園とはスケールが違うが)に出掛けてトレールを歩いていると、鹿に遭うことがあった。鹿は群で動くので、何頭かが草を食べているところに出くわすのだが、これが結構美しい。鹿なんて動物園で見慣れているはずなのだが、森の中で遭う野生の鹿は格別である。但し、熊はいただけないが…。 今まで出会った野生動物で一番感動したのは、バッファローだろうか。米国北西部に「イエローストーン」という有名な国立公園があるのだが、夏休みを利用して家族で出掛けた。この公園は巨大で、ワイオミング、モンタナ、アイダホの3州にまたがり、東西南北とも100km四方はあろうかというシロモノなので、園内は車で異動することになる。車両規制があるので交通量はまばらなのだが、我々が乗ったバスは、突然ある場所で渋滞のためストップした。何かと思えば、野生のバッファローの大群が道路周辺を占拠している。公園内の野生動物は全て保護されているので、クラクションを鳴らすことも出来ず、彼らがそこをどくのを延々と待つしかない。やがて彼らは、ゆっくりと移動を始め、数珠繋ぎの車の両脇を悠然と歩いて立ち去った。バスの窓から、移動していくバッファローの群を眼下に見て、私は「ダンス・ウィズ・ウルブス」という映画を思い出し、感動した。 その後日本に帰ってから、上野動物園でバッファローを見たが、あの野生のバッファローが持っていた大地のオーラのようなものは感じなかった。自然の中にいる野生の動物が持っている雰囲気を、動物園で感じることは難しい。動物とは結局自然の一部であり、自然の中にいる姿が一番美しいというごく当たり前のことが確認できたということだろうか。いつか、自然の中にいる野生動物の雰囲気が表現出来るようになったら、彼らの美しさを絵に描いてみたいと思う。それがいつのことかは分からないのだが…。 |
8月27日(火) 「絵と音楽」 | |
東山魁夷という高名な日本画家の作品の中に「白い馬の見える風景」というシリーズがあって、その中の1枚に「緑響く」という、これまた有名な作品がある。湖沿いの森の縁を白い馬が走っている作品で、森と白い馬が水面にきれいに映っている。そういわれれば「あぁ、あれか」と思い出される方も多いのではないか。東山魁夷自身の解説によると、この作品はモーツァルトのピアノ協奏曲K488の第2楽章からイメージして描いた、とされている。 私はその解説を高校生のときに読んだのだが、K488というのは一体どういう音楽かと思い、モーツァルトの熱烈なファンである某先生に尋ねてみた。先生は、自分の生徒がモーツァルトに興味を示したのを喜んで、K488はピアノ協奏曲の23番であると教えてくれ、わざわざその第2楽章をカセットテープに録音してプレゼントしてくれた。「モーツァルトのピアノ協奏曲は、23番に限らず第2楽章がいいんだよ」といって、他にも幾つかのピアノ協奏曲の第2楽章を一緒にカセットに入れてくれた。家に持って帰って早速23番の第2楽章を聞いてみると、私が絵からイメージしたのと違う印象の曲だったので、少々驚いた。絵からイメージする音楽、あるいは音楽からイメ−ジする絵というのは、人それぞれなんだなと思った覚えがある。 大学時代に絵を描いていた頃は、よく音楽をかけていた。聞く音楽はまちまちだったが、先生からプレゼントされたモーツアルトのピアノ協奏曲第2楽章シリーズのテープも時々かけた。ただ、一番しっくり来るのは夜FMで放送していた「ジェット・ストリーム」という番組で、これを聞きながら深夜絵を描くのが楽しみだった。 当時、音楽を聴きながら絵を描いていてふと気付いたのは、冒頭の東山魁夷のエピソードと違って、私自身は曲の旋律から何らかのイメージを得て絵を描いたことが、一度もないということである。詩や漢詩からイメージを得て描いたことはあるし、絵を見ていて何かの曲の旋律が浮かんで来たことはある。しかし、どういうわけだか、曲の旋律を聴いて具体的な絵のイメージが心に浮かんで来たことはない。せいぜい思い浮かぶのは、その曲を使っていたCMの映像とか、それが主題曲になっていた映画の場面などである。勿論、歌詞がある曲だとイメージは浮かぶが、これは旋律からイメージが湧いているのではなく、歌詞のイメージを頭に描いているだけのことである。つまり、先入観を何も持たずに旋律だけを聴いて独自の映像イメージが湧いて来たりはしないのである。 私の場合には、聴覚からの刺激が視覚に訴えかける回路が切れているということなのかなぁ、と思った覚えがある。そんなとき、波の音だけが収録されているレコードだったかCDだったかが話題になった。物珍しさから買って聴いてみたところ、今度は心の中にはっきりと海の映像が思い浮かぶ。どこともしれぬ砂浜で、波が寄せては返すイメージが湧き上がって来る。なるほど、そういうことだったのか、と私は思った。私の脳の回路は、曲の旋律ではダメだが、自然の音には反応して視覚に刺激を与えるらしい。同じように、野鳥の鳴き声や風にそよぐ葉ずれの音が収録してあるCDなどを聴くと、森や山の風景が思い浮かぶ。要するに、脳の反応回路がとても単純な作りなのだろう。 しかし、今では、絵を描くときに何の音楽もかけなくなってしまった。静かになればなるほど、絵の世界に没入できるように感じるのだ。心境の変化ということだろうか。ひたすら静寂の中で筆を走らせているうちに、私の風景画はどんどん静かな絵になっていくような気がする。 |
8月30日(金) 「ホームページの寿命」 | |
時々インターネットの世界をさまよっていると、以前訪れたことのあるホームページが消えているのに出くわすことがある。何の前触れもなく、ただ「該当ページが見つかりません」という趣旨の表示が出る。そのホームページを運営しておられた方にどういう事情が生じたのか知る由もないが、あっけない終わり方である。 インターネットは匿名の世界であるから、ホームページが消えると、そこに集まっていた常連さん達のコミュニティーは雲散霧消し、その中心にいた管理人もどこかに消えてしまう。ネット上でいかに親しく接しようとも、ハンドルネームの人々は、ある日突然、音信不通の赤の他人になる。昔、ごく普通の社会人が突然職場や家庭を捨てて世捨て人になる「蒸発」という現象があったが、まさにネット上の「蒸発」現象である。所詮は気楽な趣味の世界だから仕方ないと言えばそれまでだが、ネット上の交流というのは、まことに淡いものなのだなぁと思う。 個人が趣味で運営するホームページの寿命というのはどれくらいのものなのだろうと、ふと考えることがある。仕事の繁忙や他の趣味への転向によって、個人が管理する趣味のホームページは簡単に閉じられる運命にある。従って、今人気のサイトであっても、いつ消えてもおかしくないのかもしれない。 この「休日画廊」は、発足してからこの11月で1年になる。実は、一度このホームページをどうしようかなぁと思ったことがある。現在使っているADSLに乗り換えることを検討していたときのことである。 「休日画廊」に掲載している絵は、元々はPaint Shop Proというソフトで描いているのだが、そのままではホームページ上で表示できないので、掲載に際してJPEGに変換している。私の絵は淡い色調で描いているので、このJPEGへの変換時に圧縮率を高くすると、色が潰れてしまうことが多い。仕方がないので、大きさは原画の四分の一程度に縮小しているが、JPEGによる圧縮を殆どせずに変換している。お蔭で、掲載している絵はJPEGにもかかわらず約500×380ピクセルで100KBを超えるものが珍しくない。かくして、現在のホームページの容量は17MBもある。私がこれだけの容量を維持できるのは、現在使っているプロバイダーのホームページ・サービスが50MBまでと大きいためである。 ADSLへの乗換えを検討していたときに、プロバイダーの乗換えも俎上に上った。その方が料金が安くなるからである。ただ、料金を重視すると付属サービスが貧相になるのは世の常で、ホームページの無料サービスは2MBからせいぜい10MB程度になる。無料のホームページ・サービスを提供しているサイトもあるが、貰える容量はそう大きくない。そうすると、ホームページの乗換えは無理ということになり、「休日画廊」は消滅である。 結局、メール・アドレス変更に伴うトラブルとか、プロバイダー乗換え時の手続きの煩わしさとかを考え、フレッツADSLにしてプロバイダーは維持することになった。かくして「休日画廊」は生き残ったわけである。しかし、私は思うのだが、現在の更新ペースを続けている限り、50MBといえども、いつか容量上限に達する日が来る。その日こそ、「休日画廊」の寿命であろう。それがいつのことか分からないが、それまではコツコツと絵を描いていこうと思う。 |
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