パソコン絵画徒然草

== 8月に徒然なるまま考えたこと ==





8月 6日(水) 「シンプルな美」

 梅雨が明けたと思ったら、連日の猛暑で少々バテ気味である。そんな中、朝の通勤時に汗を拭き々々駅まで歩き地下鉄に乗り込むと、海の写真を背景に使った広告が目に止まった。電車内の冷房の心地良さとあいまって、さわやかな気分でついつい見入ってしまう。通勤時の一服の清涼剤である。

 夏の海はいい。突き抜けるような青い空と入道雲、その下に青い海が広がる風景は、如何にも夏らしい。とてもシンプルでありふれた風景なのに、そこには人の心を捉える何かがある。私はいつも、こういうシンプルで何気ない自然の美を絵をしたいと思っている。

 子供の頃、夏に海水浴に行ってひとしきり泳いだ後、浜小屋に上がってぼんやりと見る海が好きだった。砂浜に寄せては返す波の動きは、単調なのに何故か見飽きることがない。波というのは、単に海に吹く風が作り出す自然の運動に過ぎないのだが、そのリズムが不思議と心地よいのである。そう言えば昔、波の音だけを収めたCDというのがあって、これを夜、部屋を暗くして寝転びながら聞くと、身に染み入るような寛ぎを覚えたものだった。赤ん坊にこれを聞かせるとすやすやと眠ると聞いたが、それが分かるような気がした。遠い昔から我々の遺伝子に組み込まれている、何かの記憶が呼び起こされるのだろうか。

 自然の美というのは、とても単調で質素なものである。別に凝ったところも何もない。他方、人が作る美には、沢山の思い入れと凝った演出が詰め込まれていることが多い。古今東西、名作とされる絵画や美術工芸品、あるいは歴史的建築物には、作者の様々な意匠が込められている。その中には、その時代や作品の背景など、一定の知識がないと中々理解しがたい部分がある。言い換えれば、見た人が表面的に感じる美しさの裏側に、作者が組み込んだ奥深い美が隠れているのである。その奥底の美に到達するには、作者の意図や時代的・社会的背景を理解しなければならない場合が、往々にしてある。そんなふうに美に凝るのは、人間のさがなのかもしれない。

 凝った美には、凝った美なりの楽しさがある。作品を作る側も、鑑賞する側も、一段、また一段と、美の深度をたどっていく謎解きのような奥深さがある。美学という学問は、まさにその探求を礎に成り立っているのだと思うし、私も幾度か、その謎解きの面白さに魅せられ、色々な本を読んで絵画の歴史について勉強して来た。しかし、どちらかと言えば、私は自然の単調な美の方に、より惹かれてしまうのである。それが何故なのか、きちんとした答を持ち合わせていない。解釈の容易なシンプルな美の方が、直感的で分かりやすいからだろうか。あるいは、遺伝子に組み込まれている動物的な記憶が私にささやくのだろうか。いずれにせよ、何度見ても見飽きることのない自然のシンプルな美には、人類が英知と感性を傾けて作り出した美に負けない、大きな存在感がある。

 最近滅多に、夏の青い海を見ることがなくなってしまったが、あの寄せては返す波のような、単調だが心に響く魅力を絵にしたいと、私はいつも考えて来た。その思いが、私の絵の原点なのかもしれない。電車の中で海の写真を見ながら、ふとそんなことを思った。




8月14日(水) 「怪談と絵」

 あの長い梅雨が終わったと思ったら、もう旧盆である。今日は、旧盆らしい話をしたい。

 私が子供の頃には、夏といえば怪談だったが、今はどうだろうか。現代風のスプラッタ・ホラーなんて当時はなかったから、もっぱら「四谷怪談」だの「番町皿屋敷」だの、古典的な怪談ドラマばかりだった。それも毎年の如く同じ話を繰り返しリメイクして放映にしていた気がする。皆、飽きずによく見続けたものだ。子供時代にはそれなりに怖いと思っていた古典的怪談だが、今となってはちょっと懐かしさすら覚える。

 最近はこういう古典的怪談を見る機会もないが、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」の舞台は、現在私の住んでいる文京区から、そう遠くないところにある。例えば、「四谷怪談」は文字通り舞台が四谷だし、作者である鶴屋南北が話の元ネタに使った有名な「お岩稲荷」も四谷に現存する。ちなみに、この「お岩稲荷」のある場所は「四谷左門町」という地名なのだが、鶴屋南北は、お岩の父親の名前を「四谷左門」と付けている。他方、「番町皿屋敷」も番町にあった青山家の旗本屋敷を舞台にした怪談で、これは現在の「千代田区○番町」という地名に名残りを見つけることが出来る。この話が有名になったのは、大正時代に岡本綺堂が戯曲にしたからだが、正確に言えば、岡本綺堂の「番町皿屋敷」は、昔からある皿屋敷の伝説を下敷きにした恋愛ものであり、怪談ではない。

 ところで、怪談と絵とは一見関係ないように思われるかもしれないが、明治以前の日本には、幽霊を描いた一群の絵があった。売れない貧乏絵師が日銭稼ぎのために描いたものではなく、著名な絵師や浮世絵師が沢山の幽霊画を描いている。その中でも有名なのは、円山応挙だろうか。円山応挙は、京都を中心に活躍した江戸時代中期の有名な絵師である。応挙を祖とする「円山派」の系譜からは、多くの著名日本画家が輩出しており、古くは菱田春草、最近では東山魁夷、杉山寧などがいる。そうした名門の開祖であり、時の天皇からも寵愛された円山応挙だが、幽霊の絵でも後世に名を残している。

 私が面白いと思うのは、それまで単に話として伝わっていたに過ぎない幽霊を、江戸時代の絵師達が想像で描き、その絵が日本の幽霊のイメージや怪談話に大きな影響を与えたという事実である。江戸時代に「四谷怪談」を歌舞伎で上演した際、お岩のイメージを作るのに円山応挙の幽霊画が大きな影響を与えたと言われている。お岩の衣装が、裾を長く引き摺って足がないように見せているのも、円山応挙の幽霊画に足が描かれていなかったからと言われている。この「四谷怪談」は大当たりし、その後、幽霊には足がないという概念が定着したようだ。

 ところで、その後、三遊亭圓朝によって作られた古典的怪談「牡丹燈籠」に出て来るお露の幽霊には足がある。夜な々々、萩原新三郎の家にやって来るとき、下駄の音を鳴らしながら近づいてくる場面は有名である。何故足があるのかという点について、作者の圓朝が、足がないものとされている幽霊が下駄をはいて歩いて来るという演出が斬新で面白いから、と解説していた話をどこかで読んだ覚えがある。よく考えると、ここに至るまでの話は複雑で、昔足があった幽霊が、円山応挙の幽霊画と「四谷怪談」によって足がないものとされ、それを圓朝がもう一度逆手に取って、足をつけて演出しているのである。そう言えば、この「牡丹燈籠」も、舞台が我が家からそう遠くないところにある。お露の生まれた飯島家の屋敷は新宿区の牛込にあり、母方の里は文京区水道端とされている。萩原新三郎の家は文京区根津にあったという設定で、幽霊となって通って来るお露の別邸は、墨田区柳島にあった。

 怪談のように、絵とは一見関係ないと思うような分野でも、さりげなく絵の影響を受けて歴史が作られているというのは面白い。日本の文化は、それなりの歴史的積重ねを経て今日に伝えられて来たように思うが、そのきっかけを遡ると、意外と些細なものであったりする。あるいは、そのこと自体が一種の怪談と言えなくもない。




8月20日(水) 「花火」

 少し前のことなのだが、今月9日に晴海埠頭で開かれた「東京湾大華火祭」を家族で見に出掛けた。午後7時から始まって、8時25分までの間に1万3000発の花火を打ち上げるもので、都内でも屈指の規模を誇る花火大会である。一大イベントなので、数十万人の人出があると言われ、晴海会場だけでは見物客を収容出来ないため、幾つもの観覧ポイントが用意されている。

 晴海をはじめ、幾つかの観覧ポイントでは混雑を避けるため、事前に整理券を抽選で発行する方式になっているのだが、あいにく我が家はクジに外れてしまった。しかし、この花火大会の初期の頃に夫婦で見物に行った経験からすると、整理券を持たない人にも臨時の見物場所を確保しているはずだと思い、昔の記憶をたどりながらJRの三田駅で降りて、「日の出埠頭」に向かった。

 駅には「整理券のない人は見学出来ません」という大きな看板や垂れ幕があったが、構わず人波に混じり、海岸に向けて歩いた。案の定、整理券のない人はこちらへという誘導があって、「ゆりかもめ」の下を通る片側2車線の道路に案内された。交通規制が敷かれて車はその辺りに入って来られないため歩行者天国状態で、みな道路に陣取って花火が上がるのを待っている。我々も適当な場所を見つけて、シートを広げ座った。

 周りを見渡すと、にぎやかな若者の集団や、小さな子供連れの家族、若いカップル、はたまた老夫婦2人だけと、実にバラエティーに富んでいる。ほどなく花火が始まると、人々から次々に歓声が上がる。次第に大きな仕掛け花火に移り、道路を埋め尽くした人達は、老若男女を問わず一体となって拍手喝さいの渦である。私も拍手を送りながら、老人から小さな子供まで、これだけ多種多様な人達が一緒になって自然と拍手を送れるような催しが他にあるだろうかと、ふと思った。

 遠い昔から伝えられて来た日本の伝統技術の多くは、明治期以降に輸入された西洋の最新技術に取って替わられたり、人々に飽きられてすたれたりしている。しかし花火は、むしろ逆に、どんどん成長して来たような気がする。元々中国から入って来たとされる花火を、日本人は江戸時代に文化の1つとして育て、隅田川では毎年恒例の花火大会も催された。今や花火大会は日本全国に広がっているが、毎年この季節にやり続けても、誰も飽きたりはしない。あらゆる階層、年齢層の人々が花火を愛し、夏の花火大会を楽しみにしている。これまで人類は、絵画、音楽、文学など人の心を豊かにする芸術分野を様々に育てて来たが、しかしそのいずれも、花火ほどには多様な人々から普遍的に愛されていないのではないかと思う。

 花火の美しさは、テレビ中継や写真、はたまた絵画と、様々なジャンルの映像技術によって再現されて来たが、私の見るところ、そのいずれも、花火が人の心に与える感動をうまく伝え切れていない。伝えているのは、見た目の色と形だけである。花火は絵の題材として扱いにくいと思うし、私自身、いい絵を描く自信はない。

 テレビや写真といったリアルな再生技術をもってしても伝えられない花火の素晴らしさの本質とは、一体何なのだろうか。あの、パッと華やかに広がり、ふっと消えるはかなさかなのか。空一杯に広がる雄大さか。あるいは、子供時代を思い出させるノスタルジックな美しさか。

 それがどのような要素によるものであれ、我々が絵画や写真で花火の素晴らしさをうまく再現できないことは、花火が単に火薬を使った日本の伝統技術の一つではなく、本当の意味での芸術だという証左ではないかと、私はひそかに思っている。そうでなければ、人々はあんなに自然に歓声を上げ、拍手を送ったりしないのではないか。おそらくそれが、すたれずに今日まで花火が生き残った理由ではないかと思う。




8月26日(火) 「朝顔の茶会」

 子供時代の思い出のせいか、夏というとひまわりや朝顔の花が思い浮かぶ。小学校で生徒に種が配られ、夏休みに家で育てて観察日記を付けた覚えがある。そのせいか、今でもひまわりや朝顔を見ると、遠い夏の日が思い出されて懐かしい気分になる。

 現在住んでいる辺りでも、フェンスや塀にツタをはわせて朝顔を育てているところがあるが、今年の夏は天候が不順なせいか、どうも元気に咲いていることが少ないように思う。朝きれいに朝顔が咲き揃っているのは、如何にも夏らしい風景で、子供時代に返ったような気分になる。そして、それと同時に、千利休の「朝顔の茶会」の故事をちょっと思い出したりもする。あれは昔から、私にとって、どうも謎なのである。

 「朝顔の茶会」は有名な話なので、ご存知の方も多いと思う。安土桃山時代の豊臣秀吉と千利休の話である。千利休は堺の豪商「魚屋(ととや)」の長男として生まれ、武野紹鴎に茶の湯を学んだ後、同じ堺の豪商にして茶人であった今井宗久の紹介で織田信長に仕え、信長の死後、豊臣秀吉にも仕えている。今井宗久、津田宗及とともに信長・秀吉の「茶頭(さどう)」(茶の師匠)となり、天下三宗匠と呼ばれていた。特に、秀吉の信認が厚く、茶の師匠という立場を超えて、側近として政治にもかかわったと言われている。

 夏のある日のこと、豊臣秀吉が利休邸の庭の朝顔が見事だという評判を聞き、その朝顔を見るために千利休に茶を所望した。しかし、当日の朝になると、利休は、見事に咲き誇る庭の朝顔を全て摘み取ってしまう。秀吉が一輪の花もない庭の朝顔を見ていぶかりながら茶室に入ると、茶室の床の間に朝顔の花が一輪だけ、ひっそりと活けられていた。これが有名な「朝顔の茶会」であり、利休はこの一輪の朝顔をもって、利休流の美の在り方と侘び茶の心を秀吉に示したと言われている。

 利休が何故そうしたのか、利休自身の解説が残っているわけではないので、この話には、幾つもの説明が可能であろう。庭一面に咲き誇る朝顔ではなく、寂れた茶室に活けられた一輪の朝顔を愛でる心が、侘び茶の真髄であるというのが一般的説明なのかもしれない。何かと豪華絢爛を指向しがちな安土桃山時代の世相の中で、寂れた美を極限まで追求し続けた利休の感性というのは確かにすごいと思う。しかし、私はやはり、人間の手で作られた美を愛でるより、自然にあるがままの美を鑑賞する方が好きである。たとえそれが、侘びや寂びといった自然に近い質素な美を追求するものだったとしても、人工のものはやはり自然には勝てないという思いが私にあるからだ。それはまた、私が風景画や静物画で、自然の中に存在するものをもっぱら画題に選んでいる理由でもある。

 千利休には申し訳ないが、私が当時その場にいたとすれば、茶室に活けられていた一輪の朝顔より、利休邸の庭で夏の日を浴びて咲く朝顔の方を見たかった。いや、さらに厳しい言い方を許して頂けるなら、朝顔を見たいと言って来た者に対して、日を浴びて自然に咲く朝顔よりも、一輪活けた朝顔の方が美しいといって、庭の朝顔を全部摘むという行為は、傲岸不遜だとすら思う。

 そもそも、茶室でふるまわれる一杯のお茶は、庭に咲く全ての朝顔を犠牲にするほどの価値があるのだろうか。そんなことをしてまで利休が表そうとした侘び茶というのは、一体何だったのだろうか。秀吉流の豪華絢爛な人工美の対極にあるようでいて、その実、いとも簡単に自然の美を摘み取るその姿勢に、私はやや疑問を禁じ得ない。自然を犠牲にして作られたその美とは、形こそ違え、秀吉流の美と本質は変わらないような気もするのである。

 後年、千利休は秀吉の怒りを買い、堺で蟄居を命じられたのち、切腹を言い渡される。この辺りの流れは、テレビドラマや映画で何度も取り上げられているのでご存知の方も多いと思うが、実は、秀吉の怒りの原因が正確に何であったのかは分かっていない。茶道に絡む利休の振る舞いが秀吉の不興を買ったというのが1つの定説になっているが、側近として政治にもかかわっていた利休との意見対立が背景にあったという説もある。いずれにせよ、映画やドラマでは話を面白くするために、派手好きな秀吉と侘び・寂びを重んずる利休の対照的な人間像を浮き上がらせながら、両者の対立が深くなっていくさまを描く筋仕立てが多い。しかし私は、形こそ違え、この2人は根っこの部分でとてもよく似た人間ではなかったかと思うのである。

 「朝顔の茶会」の折、秀吉は茶室に活けられていた一輪の朝顔を見て、利休に感嘆したと伝えられている。豪華絢爛指向の秀吉を、利休の侘び茶が屈服させた瞬間と見る向きもあるが、私には疑問がある。その後も派手好きが直らなかった秀吉が、本当に侘びの心に感じ入ったのだろうか。私はむしろ、たった一杯の茶の演出のために、庭に咲く全ての朝顔を惜しげもなく摘み取った利休の振る舞いにこそ、秀吉は感じ入ったのではないか、と思うのである。言い換えれば、秀吉が惜しげもなく使う黄金の役割を、ここでは庭一面の朝顔が演じていたのである。

 貧農の出ながら成り上がり的な上昇志向の強かった秀吉と、豪商の家に生まれながら侘びや寂びの世界を追求した利休。出自とその後の生き方がものの見事に対照的な二人だが、自分の信ずる美のために、多大の犠牲を何とも思わなかったその姿勢は同じだったと言うのは、少々意地悪というものだろうか。いずれにせよ私は、朝顔の花が一輪だけ活けられた茶室で利休に茶を振舞われたとしても、あまりおいしいとは感じなかったと思う。




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