パソコン絵画徒然草
== 8月に徒然なるまま考えたこと ==
8月 5日(木) 「薄明の風景」 |
|
さて、夏と言えば怪談である。海外では、怪談は冬が旬のことが多いらしいが、日本では蒸し暑い夏をしのぐため、せめて肝を冷やしてもらおうと、夏に怪談を持って来たらしい。扇風機やクーラーのない時代の庶民の知恵であろう。 幽霊が出るのは、今や専ら夜とされているが、昔の人は、日が暮れる辺りの薄闇の頃も、物の怪と出会う危ない時間と考えていたようだ。「たそがれ(誰そ彼)」と呼ばれていた時刻である。向こうから歩いて来る人の顔の見分けがつかなくなる夕暮れ時に、果たしてやって来るのは、本当の人なのか物の怪の類なのか。遠目に判断がつかないがゆえに、昔の人達は恐れたということだろう。夜になると幽霊・妖怪の類に限らず何かと物騒なので、庶民は固く家の戸を閉ざして外には出なかったに違いない。従って、夜道を歩いていて幽霊に出会う機会は、今よりもむしろ少なかったのかもしれない。現代とは社会情勢が違うのである。 今でも、夕暮れ時は交通事故が多いと聞く。ライトを点けなくとも車は運転できるが、薄闇に紛れて色々なものが見えにくくなる。ではライトを点けると見えるかというと、そういう訳でもない。ドライバーには嫌な時間であり、いっそ夜の方が走りやすいという人もいる。夕暮れの時刻を言い表す言葉に「逢う魔が時(おうまがとき)」とか「大禍時(おおまがとき)」という表現があり、これは現代にも通用するかもしれない。 ちなみに、夜明け頃にも薄闇の時間帯があるが、こちらは「かわたれ(彼は誰)」と呼ばれることが多かったようだ。しかし、この時間帯と物の怪との関係は余り聞かない。夜明けの方は時々刻々明るくなり、物の怪は退散して行くからかもしれない。 そんなことを長々と書いたのは、夜明けや夕暮れといった時間帯の絵を、私はよく描くからである。私なりの感じ方では、その時間帯の薄明の風景というのは、妙に心誘われるものがあって好きなのだが、昔の人の受け止め方は、むしろ不気味という感覚の方が強かったのだろう。確かに、夕暮れや夜明けに、自然の静寂の中に一人たたずんでいると、ふっと引き込まれるような不思議な感覚に包まれることがある。私はそうした感覚を、自分自身が自然の中に同化していく瞬間と、前向きに捉えているのだが、自然科学の発達していない時代には、むしろ自然の闇の部分に呑み込まれるようなマイナス・イメージで受け止められていたのかもしれない。 昔風に薄明の時間帯を、人間界と異界・魔界との境目がなくなる時刻と捉えるなら、そこで見える風景にも、人の心を捉える静寂さと、ある種の不気味さとが同居しているということだろうか。「自然科学の発達した現代にそんな迷信みたいなことを言ってみても」と思われるかもしれないが、人が心の奥深くに持っている原始的な畏怖というのは、自然科学とは無縁のものである。高度に科学が発達した現代でも、例えば、昼なお薄暗い原生林の中にただ一人いると、何がしか原始的な恐れの念が湧いて来たりする。自然の中にぽつりと置かれた人間というのは、今昔を問わず意外と弱いものなのである。 実は、そこのところをよく認識して薄明の風景を描かないと、出来上がった作品は、時として不気味な雰囲気をたたえることになる。私なりに思うに、薄明の静寂には魔力がある。その魔力が画面の中で余りに勝つと、作品は不気味になる。しかし、その魔力の味付けなしには、薄明の風景が持つ独特の雰囲気を表すことは出来ない。その微妙なさじ加減が、作品を作るうえで決定的な役割を果たす。不気味な絵なら誰でも描けるが、それをファイン・チューニングして魅力的な絵にするには、それなりの腕が求められる。 しかし残念ながら、そのファイン・チューニングのコツは、私にも未だに分からない。分からないまま薄明の風景を題材に絵を描き始め、時に暗い画面構成になり四苦八苦していると、何かのきっかけから、ふっと絵の雰囲気が変わる。不気味さとの境目はほんのちょっとしたことなのだなぁとそのときには思うのだが、次回同じようなテーマで描き始めると、また同じように道に迷い四苦八苦する。「キツネにつままれる」という言葉があるが、まさにそんな感じである。いや実際に、絵を描くのに夢中になっているうちに、薄明の世界に住む物の怪に化かされているのかもしれない。 |
8月18日(水) 「在来線の旅」 |
|
今年の夏休みは例年より長めに取り、私と女房、両方の故郷に帰省した。日本の交通網は、東京や大阪などの大都市から地方都市に旅行するときにはスムーズだが、地方の都市同士を行き来するときには、格段に不便になる。お蔭で、飛行機、新幹線、在来線、車と、あらゆる交通機関を駆使しての旅となった。 いつ乗っても思うのだが、新幹線はとにかく速い。そのうえ、座席もゆったりとしていて快適な乗り物である。今回は、山陽新幹線で初めて「ひかりレールスター」という車両に乗ったが、片側二席で座席幅がゆったりしているうえ、座席前が広めに取ってあって足が伸ばせる。長旅でも疲れを感じさせない心地よさであった。 しかし、新幹線だと、その速度ゆえ車窓を流れる風景はかなりのスピードで過ぎ去る。また、高架が主体のせいか、高い位置から遠くに風景を眺めることになる。車窓に流れる景色も、心なしか味気ない。何となく見てしまうのは富士吉田辺りからの富士山の眺めと、名古屋に着く前の浜名湖の景色くらいである。それ以外の時間は、手元の文庫本に目を落とすことになる。お蔭で、旅の間に何冊かの本を読むことが出来た。 新幹線に比べて在来線の旅は、速度が遅くてよく揺れるし、座席も窮屈である。また、1つ々々の車両が新幹線より狭いため、何となく空間的な圧迫感がある。今回はそれに加え、冷房が効き過ぎた列車があって、必ずしも快適な旅というわけにはいかなかった。 ただ、車窓の風景は、新幹線では見られないような味がある。高架ではなく、市街地や田畑、林、山の中を縫うように走る。また、カーブが多いせいか速度もゆっくりで、沿線の風景が細やかに見て取れる。窓のすぐ横を小川が走り、列車の風に揺れる花もはっきり見える。田で働く農家の人々、自転車をこぐ郵便配達人、家を建てている大工さん達、そして列車に手を振る小さな子供達。みんなはっきりと見える。私は、本を開いたもののそのまま膝に置き、飽かずに車窓を眺め続けた。 日本の地形は平地が少なく山が多いので、在来線の旅は、山の中を縫うように走ることになる。新幹線ではスピードアップのために、なるべく直線を多く取れるよう線路を敷き、山にぶつかると迂回せずにトンネルを掘るが、昔ながらの在来線はそこまで効率化されていない。 駅も同じである。新幹線の駅は、どこも同じような機能的な造りになっているが、個性がない。従って、駅名表示を見ないと、どの駅なのか周囲の景色からは分からない。それに比べて在来線の駅は、古くてみすぼらしいものが多いが、それぞれに味がある。しかも田舎の駅になればなるほど、手作りのような人間味のある風景になる。私は特に、田舎の無人駅の風景が好きである。単線のローカル線だと、行き違いになる列車を無人駅で数分待つことがあるが、乗っている列車が無人駅でディーゼル・エンジンを切ったときの静寂感は特に良い。 私は今回の旅で、在来線の車窓から、小川を見つけ、そこにつながれた古い小船を眺めた。田に稲穂が実り黄色く色づき出している様子も見た。ひなびた農家の風情を楽しみ、田舎の駅舎の脇に咲くひまわりを見た。いずれも、東京ではお目にかかれない魅力的な風景であった。 ただ、そうして眺める風景は、在来線の速度がいくら遅いとは言え、写真を撮れるほどゆっくり見られるわけではないし、ましてやスケッチを取る時間的余裕などない。ただチラッと見て心に留めるだけである。立ち止まって眺めてみたいと思う光景を見つけることもあるが、勿論列車は止まってくれない。もう少しゆっくり見たいと思っても、たちまち景色は後方に流れる。 かくして私は、在来線の車窓から魅力的な風景を次々に見たが、今となっては、その全てを覚えてはいない。ひととき私の心を捉えた風景は、やがて心の底に沈んで行き、奥深くに沈殿する。正確に記憶できていれば、それがすぐに絵の題材に結び付くのであろうが、スケッチも写真もないのだから中々難しい。 しかし、私はそれでもいいと思っている。心の底に溜まった風景は、やがて時を経てその断片がゆっくりと心に浮かんで来る。私が「想像で描いた」と解説している風景画の幾ばくかは、こうして心の底から浮かび上がって来た遠い昔の風景ではないかと思う。私が懐かしいと思う風景は、実際遠い昔に車窓から眺めた景色の面影を、幾らかなりとも引きずっているのであろう。 「想像で描く」とは、必ずしも無から風景を生み出すことではない。形のないおぼろげな記憶の風景に、想像で肉付けして出来る風景画もある。もっとも本人には、それがいつどこで出会った風景なのか、あるいは本当に見たことのある風景なのか定かではないのだが…。 |
8月26日(木) 「ひまわり」 |
|
今年の夏は実に暑かった。東京では、7月に観測史上最高気温を記録した日もあり、その日は朝まで30℃を下回らない超熱帯夜となるなど、並大抵の暑さではなかった。しかも、そうした暑い日が長く続いた。ここ東京でも、日中の最高気温が30℃以上となる、いわゆる真夏日が40日間続き、こちらも観測史上最長記録となった。 そのジリジリと肌を焦がすような猛暑の中を外に出掛けると、至るところで植物が萎れていた。我が家の庭の花も、欠かさず水をやっていたにもかかわらず、ダメになったものがあるらしい。元気なのは雑草ばかりだった。 しかし、ひまわりは別である。青空をバックにすくっと背を伸ばし、太陽の方を向いて元気に咲いていた。背が高いから、遠くからでもよく目立つ。私の見るところ、ひまわりには屈託がない。素直に明るく、如何にも夏らしい花である。 ところで、私はパソコンで絵を描くようになってから、沢山の花の絵を制作してきたが、ひまわりは描いたことがない。いやそもそも、絵具と筆で描いていた頃にも、ひまわりは題材にしたことがない。画題としての花に得手、不得手があるとすれば、ひまわりは私にとって不得手な花である。それは技術的に描くのが難しいというより、どう捉え、どう表せばいいのか、私自身、うまく整理できていないためである。 子供の頃からの画歴ということになれば、ひまわりは誰でも描いたことがある花のはずである。桜とチューリップとひまわりは、子供が描く花の代表選手と言ってよい。夏の強い日差しを浴びて、真っ青な空の下にすっと立つひまわりは、夏の象徴であり、子供時代の様々な思い出とともに人々の心に刻まれている。私がひまわりに感じるのは、曇ることのない力強さと、眩しいばかりの明るさである。しかし同時に、その個性の強さが、ひまわりを画題にすることを躊躇させている原因かもしれないと時々思う。言い換えれば、確固たるイメージが既に出来上がっており、しかもそれがあまりに強烈であるがゆえ、私自身がアレンジする余裕がない花だということである。 秋の公募展で日本画の作品を見ていると、枯れてしおれたひまわりを題材にしている絵が多い気がする。枯れたひまわりの表すものは、過ぎ去った夏であり、かげりの見えた陽射しの強さである。栄枯盛衰に美学を見出し、無常観に感じ入る日本人の心にすぅーと染み入る画題選びだが、同時に、真っ青な空を背景に咲き誇るひまわりだと、あまりに力強くて絵にしにくいということかもしれない。 そう言えば、ゴッホの代表作にもひまわりがあった。あれは花瓶に生けられたひまわりであり、強い陽射しを浴びて戸外で咲いているものではない。その辺りの処理の仕方は中々うまいと思うし、画面を支配する黄色がひまわりの花の色とマッチして、花だけが突出しないよう工夫されている。 結局、画題を選ぶというのは、描く者としてそれをどう解釈し画面に定着させるのか、その見極めがないと中々踏み切れないものである。今年の夏は、蓮とアサガオを題材にして、自分なりの解釈で制作してみたが、ひまわりまでは手が出なかった。ひまわりがものになるのかどうか、今のところ確信はないが、せめて私なりに画題として解釈する努力だけは怠らないようにしたいと思っている。しかし、そんなことをぼんやり考えているうちに、今年の夏も終わろうとしている。さてそうなると、ひまわりの絵は、来年の夏休みの宿題か・・・。 |
目次ページに戻る | 先頭ページに戻る |
(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.