パソコン絵画徒然草

== 8月に徒然なるまま考えたこと ==





8月 2日(火) 「絵画鑑賞」

 私は、履歴書のような書類に趣味を書く欄があると、「読書、絵画鑑賞」と書くことにしている。「絵画制作」ではなく「絵画鑑賞」である。社会人になりたての頃は、僅かの余暇時間を見つけては細々と絵を描いていたから「絵画制作」と記入していたが、そのうち余りの忙しさに音を上げて殆ど筆を取れなくなり、趣味欄の記述を「絵画鑑賞」に変更した。やがてパソコンで描く方法を見つけ絵画制作を再開したのだが、やはり趣味欄は「絵画鑑賞」のままである。「パソコン絵画制作」なんて書いたら、これは一体何だといぶかられるに違いない。色々考えて、そのままにしている。

 では、どの程度趣味の絵画鑑賞をしているのかと問われると、実のところお寂しい限りである。絵を見るより描く方が遥かに好きなので、むしろそちらに時間を割きたいというのが本音である。従って、展覧会を見に行くより、自分の画題探しに自然の中を歩くのに時間を使ってしまう。ちょっと絵の好きな人なら、私の何倍も展覧会に足を運んでいるに違いない。いずれにせよ、私の趣味欄は正確ではないということになる。

 ところで、この絵画鑑賞という趣味は、決してメジャーな趣味ではないように私は感じている。音楽を鑑賞している時間と絵を鑑賞している時間と、どちらが長いかと問われれば、一般の方はまず間違いなく前者に手を上げるだろう。また、持っている音楽CDと画集の数を比較すると、明らかにCDの方が多いと思う。勿論、そのCDの大半は歌謡曲やポップスなどの現代音楽だろうが、それでも立派な音楽鑑賞である。絵画だって持っている画集の全てが歴史的な名作集というわけではなかろうから、同じことだ。

 それにしても、どうして絵画鑑賞の方がマイナーになってしまうのだろうか。音楽と美術は学校の授業では対等だったはずなのに、社会人になりどちらが好きかと問われると、音楽の方に軍配が上がる。テレビ番組だって、美術系より音楽系の方が幅をきかせている。確かに、音楽というのは、日常生活の至るところで流れていて、クラシック、現代音楽を問わず自然に耳に入って来るから、一般の方にとって親しみが湧く存在だということは言える。大人になっても絵を描く人はまれだが、音楽の方はカラオケがあるから、いまだに現役(?)という人も多かろう。また、画集よりCDの方が入手が容易とか、音楽だと何か別のことをしながら気軽に鑑賞出来るといった点も、音楽ファンを増やすうえで貢献しているのかもしれない。

 しかし、それだけではあるまい。私は、どうも絵画鑑賞の方が敷居が高いと思われているのではないかという疑いを持っている。その敷居の高さを感じさせる原因を私なりに推理すれば、絵画に対する知識というヤツかもしれない。

 音楽は耳で聴き、心で感じている。メロディーの美しさは直感的なものであり、予備知識も解説も必要ない。しかし、絵画についてはどうだろうか。この絵は後期印象派の代表作で、それまでの絵画にはない○○という特徴を持っている云々…。こんな解説を、私は今まで山ほど見たり聞いたりして来たが、この種の講釈をイチイチ勉強したうえでないと鑑賞出来ないなら、普通の人は嫌になるだろう。挙句の果てに、絵画は難しいということになりかねない。我が身を振り返ってみると、趣味の話題になって「趣味は絵画鑑賞です」とこちらが言うと「高尚ですね」といった反応を受けることが多かったが、その高尚さのゆえんは、美術関係の豊富な知識がないと絵画鑑賞は出来ないという思い込みがあってのことかもしれない。

 私は何も、美術関係の薀蓄を語ることが鼻持ちならないというつもりはない。自分の経験でも、知識は鑑賞を助け、作品の世界を深く理解出来るというメリットがある。ある絵を描いた画家が、どういう遍歴を経てその作品にたどり着いたのか、その絵に何を込めたかったのかを知れば、作品の味わいはその分深まる。場合によっては、表面的には見えなかったものが浮かび上がることもある。だが、留意しなければならないのは、そうした知識は所詮補完的なものであって、絵画鑑賞にとって必須ではないということである。

 音楽鑑賞が、耳で聴き心で感じるように、絵画鑑賞も、目で見て心で感じる。それが本質であり、ある意味、全てである。皆がそんなふうに考えてくれれば、絵画鑑賞ももう少しメジャーな趣味になるのかもしれない。




8月10日(水) 「弟子入り」

 今、絵の世界で弟子入りという風習は、どの程度いきているのだろうか。徒弟制度なんて言葉を昔歴史の授業で習ったが、それは中世ヨーロッパの組合制度の中で行われていた過去の遺物ではない。日本においてもつい最近まで、様々な分野で同じことが行われていた。

 何かの技能を修得するために、志願者はその道のプロの家に住み込みで弟子入りする。親方や師匠の身の回りの世話をし、ときには家事万端まで引き受けながら、専門技術の教えを請う。今の学校のように、カリキュラムに沿って丁寧に教えてもらえるわけではなく、時には師匠や兄弟子の技術を盗み見るようにして、技術を磨いていく。今聞けば、何とも前近代的な教授方法だが、現在でも一部にそんな風習が残っているともいう。少なくとも、この風習が一般的でなくなったのは、そう昔のことではない。

 弟子入りして技術を習得するのと、専門の学校で教えを受けるのと、どちらが効率的な勉強の方法なのか、私には分からない。弟子入りには、専門技術の習得以外の苦労が多々あり、そういう部分で回り道をしているような印象があるが、芸術家や技術者の回顧録を読むと、そんな身の回りの世話だの家事の手伝いだのの機会に、表面的な技術ではない精神論的な教訓を師匠や兄弟子から得たといった記述に出くわすことがある。そうして見ると、効率の良し悪しは別にして、回り道的な苦労も無駄ではないことになる。

 ただ、いずれにせよ弟子入りはもうはやらない。このご時勢、住み込みで教えを請うなんてことを素直に受け入れる人が多くいるとは思えないし、年々家が狭くなっている現状で、師匠の方だって弟子を受け入れるのは大変だろう。今、大家といわれる画家で、住み込みの弟子がいる人というのは、一体どれくらいいるのだろうか。国民画家と言われた東山魁夷でさえ、生涯弟子は取らなかったと聞く。そういう意味で、長らく行われたこの教授方法は、今度こそ息の根を止めるのかもしれない。

 そうなると、今まで徒弟制度の中で引き継がれた技術はどうなるのか心配になるが、最近では師匠格の技術者が、専門学校や大学の講座で手取り足取り親切に教える例があると聞く。自分は長い間師匠に弟子入りし、時には盗み見しながら苦労して覚えた技術を、単に教室に座っている見知らぬ若者に、惜しげもなく教える気持ちというのは複雑なものがあるのではないか。自分の修行時代を振り返れば、表面的な技術だけでなく、生き方やものの考え方など、根本的なところから学んで欲しいという思いもあるのかもしれない。ただ、教室での座学だけでは、そこまでは伝わらない。だからといって技術を伝えないわけにはいかない。師匠の脳裏には、そんな苦悩と葛藤があるに違いない。

 芸術家や技術者が後世に残すものは結局2つあるのだと思う。1つは作品、もう1つは技術である。そして、後者の技術とは、材料やその使い方、コツといった表面的なものだけでなく、生き方や哲学といった精神的なところまで含んだかなり深いものである。おそらく、世に「奥儀」と言われるものは、表面的な技術だけで成り立っているわけではないはずだ。師匠達にしてみれば、弟子がいなくとも師匠の作品は残るから、後世忘れ去られてしまうわけではない。しかし、技術が引き継がれないと、将来誰もその作品を再現することができず、芸術や技術の一分野としては滅んでしまう。連綿と続いて来た技術を引き継いだ者としては、それは耐えられないことなのだろう。

 ただ、そう考えて来てふと思うのだが、専門学校や大学でカリキュラムに沿って技術を学んだとしても、なお抜け落ちているものがあることになる。師匠達が弟子入りの日々の中で得てきた生き方や哲学といったものである。その全てが作品に影響を与えるものではないにしても、幾つかは技術と深いところで結びついている可能性がある。そして、そういう師匠と弟子とのウェットなつながりの中に、何か核心がひそんでいるのだとすれば、仏作って魂入れずではないが、表面的な技術だけがまことしやかに伝えられていく危険性すらある。

 私は、弟子入りという制度を賛美するつもりはない。今の時代に如何にも非効率で不合理な部分を多く含んでいるのは確かだろう。しかし、忘れてはならないのは、そうした過去の遺物を、学校という制度が完全には代替できないことである。学校で技術を教えることは簡単かもしれないが、奥儀を伝えるのは難しい。そんなふうにして、伝わらないまま滅びていく部分がある。時代が変化していく中で、ものごとを後世にあまさず伝えるというのは、なかなか難しいものである。




8月18日(木) 「祈りの風景」

 8月は祈りの月であると昔から思っている。その多くは戦争にまつわるもので、たび重なる本土空襲、沖縄戦の悲劇、南方の島での相次ぐ玉砕、広島・長崎への原爆投下といった太平洋戦争の影を引きずりながら、テレビや新聞で人々が祈る姿が繰り返し報じられる。そして旧盆があり、また人々は先祖に手を合わせる。1年のうちで最も気温が高く活動的で明るい8月が、これほど祈りに満ちた月だということに、私は不思議な感慨を覚える。

 8月に限らず、人は様々な場面で祈る。初詣などは典型だろうが、ちょっと出掛けた先の神社仏閣で手を合わせるといったことは、日常茶飯事の光景であろう。更に、そうした宗教行事とは別に、日常生活の中で祈らずにはおられない場面がある。ひいきのスポーツチームの優勝がかかった試合を前にしてのこともあれば、肉親の病気治癒を願って天を仰ぐこともあろう。

 「私は全くの無神論者です」なんて人も、思わず手を合わせたくなる場面が、一生のうちに何度かあるに違いない。仕事がうまくいかず絶体絶命のピンチに陥ったときとか、何かのはずみで事故を起こしそうになったときとか…。自分の力ではもうどうにもならないと感じたとき、人は無意識のうちに心の中で手を合わせる。それは、神も仏も関係ない、まさに心の底からの自然な祈りである。

 いずれにせよ、そうした祈りには、かなえてほしい何らかの願いが込められている。それは、自分の利益にまつわるごく個人的な願い事の場合もあれば、家族の健康や幸運、あるいは世界平和といった大きな望みの場合もある。内容はともあれ、何かの成就を求めているのであり、それが普通の祈りの姿である。

 しかし、何の願い事もないのに、ふと心の中で手を合わせたくなるような、おごそかな場面に出くわすことがある。私の場合、ある特定の風景を見たときに、そんな厳粛な気分になる。

 それは、名所旧跡や名勝の地を前にしてということでもない。もちろん、有名な景色には、人をそんな気分に誘う何かの要素が含まれていることが多く、目の前に立つと敬虔な思いが湧き立つ場合もある。しかし、名も知れぬありふれた景色でも、特定の時間、特定の条件で見たときに、ふと祈りたくなるような不思議な雰囲気を漂わせていることがあるものである。

 早朝や夕暮れの情景に接して、あるいは人の気配が全くない自然の真っ只中で、私は人間の力を超えた何かを感じることがある。信心深い人、あるいは霊感の鋭い人なら、それを神の啓示と捉えるのかもしれないが、無信心な私には、太古の昔から先祖達が畏れ敬ってきた自然への厳かな信仰の記憶のように思えるのである。

 自分で食べ物を生産する技術を持たなかった古代の人々は、狩りをし木の実を採って生活の糧にしてきた。その時代、人々は自然によって生かされていた。彼らにとって自然は、自分達の生命を左右する絶対的な存在であり、畏れ敬う信仰の対象だったに違いない。そんな先祖の記憶が、何かの風景に接したとき、現代人である私の心にもふと頭をもたげるのではないか。私を敬虔な思いに誘う早朝や夕暮れの風景、あるいはあるがままの自然のたたずまいは、先祖の記憶と奥深いところでつながっている気がするのである。

 私は、そうした風景を自分なりに「祈りの風景」と名づけている。私が描く風景画の多くは、そうした祈りの風景のイメージを引きずっているし、世に残る名作の何割かも、おそらく描いた画家にとって、祈りの風景だったに違いない。描いた者が、思わず手を合わせたくなるような霊感を感じたからこそ、そしてその敬虔な気持ちを画面に込めようとしたからこそ、見た者に何かが伝わるのである。その絵を見た人が作者の祈りを感じてくれたなら、描いた者として、これ以上うれしいことはない。




8月23日(火) 「晩夏の海」

 子供の頃、夏になるとよく泳ぎに行った。小学校のプールを開放していたので、友達と連れ立って、週に2〜3回は通ったように記憶している。また、海にもよく出掛けた。最初は砂場で海水浴という、世間でよくあるパターンだったが、岩場で泳ぐことを覚えると、むしろそっちの方が楽しくなった。いずれにせよ、今と違ってゲーム機もないし、楽しいテレビ番組もそうないから、夏休みの遊びといえばパターンが限られていた。

 その頃、海水浴はお盆前までと言われていた。私の田舎では、旧盆で先祖供養をしていたから、8月13〜15日がお盆だった。その期間中は、海で泳いではいけないことになっていた。泳いでいると死人が海底から足を引っ張ると大人たちからおどされたことを覚えている。今にして思えば、墓の掃除やお参りをサボって海に遊びに行くなという戒めだったのだろう。しかし、死人が足を引っ張るという話は、子供心に充分怖かった記憶がある。

 ではお盆が終わると再び泳いでよかったかというと、そういうわけでもなかった。お盆があけた辺りから、海には波が高めに立つようになり、子供だと危ないと言われた。また、どういうわけか、その季節になるとクラゲが多く現れる。泳いでいると、小さなクラゲの大群に出くわすことが多く、避けようがないからそのまま突っ切って、胸や腕を幾つも刺された。岸に上がると、刺された箇所が赤くなってチクチクした。そんなわけで、海水浴が楽しめるのは、お盆までだった。

 ある年の夏、どういう理由だったかは忘れたが、お盆を過ぎてから海水浴に行ったことがある。親戚が遊びに来たのだったか何だったか忘れたが、とにかくいつもの習慣に反して海辺に出掛けた。お盆以降は海水浴に行かないという地元の習慣があったことに加え、大きな海水浴場ではなく、ちょっと穴場のこじんまりしたところに出掛けたものだから、海岸は閑散としていた。我々のほかに、あと1、2組いたかどうか。そんな具合だった。

 私は、いつものように水着を着て海に入ったのだが、海の雰囲気がどこか違っていた。浜辺は妙に静かで、風が多少吹いていた。空は突き抜けるように真っ青ではなく、どこかやさしい表情をしていた。波は多少高めだったが、泳ぎには自信があったから気にするほどではなかった。私は、長方形のビニール製ビーチボートを膨らませ、それを引っ張りながら沖合いまで泳ぐと、その上に這い上がって寝転び、ぼんやりと空を眺めた。その瞬間に、いつもと違う理由に気づいた。私が泳いでいたのは、もう秋の表情をしている海なのである。

 私はビーチボートの上にむっくりと起き上がり、岸を眺めた。筋状の雲が空を流れ、その下に物静かな岩山が続いていた。岩山の向こうには、少し霞んだ山々が見えたが、その色は、真夏のように黒々とした緑ではなかった。私は過去海水浴に来て、沖合いからそんなふうにじっくりと海岸線を見たことがなかった。泳ぐことに夢中だったからである。いつもと違う海の雰囲気が、ふと私に岸辺を振り返らせたのである。秋の気配を感じさせる海辺の風景は、のどかで平和で、いつまでも見ていたいような静けさに満ちていた。

 私は今でも、あの晩夏の海辺の景色を思い出すことがある。ただ、どう伝えようとしても、うまく絵に表すことができない。世の中には、そんな風景がある。今に至るまでたくさんの風景画を描きながら、なお描き足りないという気持ちになるのは、そんな情景のいくつが、いつまでも心に残っているからかもしれない。




8月31日(水) 「見知らぬ町」

 今年は、夏場に途切れることなく仕事が続き、本格的な夏休みを取る機会を失したまま8月が終わった。例年お盆の辺りで1週間程度の夏休みを確保するようつとめて来たが、今年は例外となった。

 働きづめの夏になったこの8月、ガラガラになったお盆の地下鉄に乗って出勤した。いつもは途絶えることなく車が行き来する通りも閑散としていて、ひときわセミの鳴き声が騒々しく聞こえた。汗まみれになりながら人通りのない都心部の道を歩いていると、見知らぬ町を歩いているかのような錯覚に陥る。

 そういえば以前、雑誌だったか新聞だったかで読んだ記憶があるのだが、子供時代に町を駆け回っていて、見知らぬ土地に迷い込んだという話があった。コラムのような囲みに載っていた気がするが、こんな話である。筆者が子供時代に、一人で探検がてら町中をうろついていて、ふと眺めのよい空き地を見つけた。もう夕方になっていたのでその日は一旦家に帰り、その後もう一度行こうとしたのだが、どう探してもその場所が見つけられなかった。あれは本当にあった土地だったのか、それとも歩き回っているうちに、不思議な空間に迷い込んだのか、いまだに謎だと・・・。

 子供というのは、不思議な想像力を兼ね備えているもので、大人には思いもつかない空想をめぐらす。私も覚えがあるのだが、自分の住んでいる町の片隅に、未知の空間につながる裂け目があって、知らずに迷い込んでしまう可能性があるという空想にとりつかれたことがある。当時読んでいた本か漫画かの影響だったのかもしれない。そんな話ばかげていると思いつつも、ひょっとするとあるかも、という不安が心の片隅にくすぶる。子供とはそういうものだ。

 所詮それらは子供の幼稚な心が生み出す空想であり、大人になった今、お盆の閑散とした町を歩いていても、異次元の町に迷い込むなんて思いも付かない。冗談として話に出しても、誰も面白がってくれないだろう。しかし、あの自由奔放な空想力を今でも持っていたら、さぞかし世の中の風景は変わって見えるのだろうなとは思う。

 違う見方で風景を眺めるというのは、絵を描くうえで重要なことである。しかし、高度に常識が発達した大人の脳では、子供のような自由奔放さでものごとを見ることができなくなっている。できないからこそ、びっくりするような想像力で描かれた子供の絵にハッとする。同じ景色を見ながら、子供は、大人が想像もできないような発想で眼前の光景を解釈している。そして、それをそのまま絵にする。細工も演出もなくストレートに描く。あんな絵は、大人には描けないのである。

 失ってから初めて重要さに気づくものが世の中にいくつかあるが、絵描きにとっての奔放な空想力も、その一つかもしれない。もはや何の怪しさも感じない閑散とした街並みを歩きながら、ふとそう思った。




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