パソコン絵画徒然草

== 8月に徒然なるまま考えたこと ==





8月 2日(木) 「入道雲」

 最近空を見上げることが少なくなった。いや思い返せば、最近というより、社会人になってからずっとそうだったのかもしれない。

 最初に荒川のサイクリング・コースに行ったとき、ここはなんて気持ちのいいところだろうと思ったが、そう感じた最大の理由は、堤防の上から広々と空が見渡せたからだと後で気付いた。どこまでも建物の続く都会では、見上げる空は極めて狭い。これは致し方ないことだろう。

 そんな空の狭い生活をしているせいか、夏になっても久しく入道雲に出会ったことはない。東京でもたびたび夕立はあって、それを作り出しているのは発達した積乱雲、つまり入道雲だから、ホントはあのムクムクした巨大な雲を見られるはずなのだが、積乱雲が盛り上がっていく様子は、残念ながら遠くまで見渡せる開けた土地でないと観察できない。東京の狭い空の下では、自分の見上げる範囲に入道雲が来た時には、既に厚い雲の中で、やがて土砂降りということにあいなる。

 入道雲は、暑い日に上昇気流が出来て雲が上へ上へと発達することによりできる。やがて成長した入道雲は、成層圏にぶつかる辺りで今度はてっぺん部分が冷やされて下降気流が生じ、激しい雨となる。上昇気流と下降気流がぶつかり合い摩擦から電気が生じ、これがカミナリとなる。これは昔、理科の授業で習った。つまり、雲の形が入道のようにムクムクと天高く駆け上がるのは、雨が降る前の雲の成長期ということになる。

 子供の頃、遠くに入道雲が見えたらやがて夕立が降るから、家に帰る用意をした方がいいと言われた。たいていそれは当たっていたし、それゆえ子供たちも空の変化に敏感だった。

 だが今ではどうだろうか。我々は全てを天気予報に頼る。その日の天気、週間予報、更には長期予報などを見て、傘を持っていくかどうか、あるいは遠出をするかどうかを判断する。子供たちにも「天気予報だと今日は夕方から雨が降るから傘を持って出掛けなさい」なんて指図する。確かにその方が科学的だし、当たる確率は高いのかもしれない。しかし、その分、空をじっくり見る機会は減った。

 小学校の夏休みに、入道雲の発達する様子を窓ガラスに印を付けて観察しなさいという宿題が出た記憶がある。夏休みは長いから、そのうち入道雲がムクムク湧き出る様子に出会うことがある。私も部屋のガラス越しに、入道雲の湧き出すさまを暫く見ていたことを思い出す。今になって見ると、なかなかしゃれた宿題だったかもしれない。

 私の場合、夏休みの思い出の幾つかには、大きな入道雲が登場するし、当時の定番であった夏休みの絵日記にも毎度のことながら入道雲が出て来た。今でも夏と言えば入道雲の写真やイラストを見るが、果たして今の子供たちが夏休みの宿題で描いた絵には、どれだけ入道雲が登場するのだろうか。少なくとも、都会で暮らす子供たちの思い出の中には、なかなか登場しない気がする。

 夏の夕立は今でもかなわないと思うが、あのムクムクと伸び上がっていく入道雲の姿は、夏のイメージそのものである。一年のうち最も輝かしい季節、全ての生命が輝き、躍動感に溢れた季節。衰えなど微塵も感じさせないそうしたもろもろのイメージを具現するかのように、入道雲は空高く伸び上がり、我々の前にそびえる。

 今年の夏に、あの夏の巨人に出会うことがあるかどうか知らないが、出来れば見てみたいものである。それを見上げている間、私は子供時代に帰れる気がする。




8月 8日(水) 「はかないもの」

 梅雨が明けたとたん、東京は猛暑となった。夏が暑いことは毎年分かってはいるのだが、実際にその中に身を置くと、こんなに暑かったのかと改めて思う。「継続は力なり」なんて言うから、猛暑にもかかわらず休みの日にはウォーキングに出掛ける。暫く歩くと全身汗まみれで、さすがにスポーツドリンクなしには歩けなくなった。

 ウォーキングの折り返し地点はどこかの公園にしていて、そこで一休みしつつのんびりと画題を探す。これがウォーキングのささやかな楽しみである。それにしても、梅雨明けと共に急にセミがやかましく鳴くようになった。

 セミの成虫はひと夏しか生きられない。秋風が吹く頃には木の下に無数のセミの死骸を見ることになる。その僅かの生の時間を惜しむように精一杯セミは鳴く。そう思うと、セミの鳴き声にも何がしかの寂寥感がある。

 私は子供の頃、そのセミをよく捕まえた。捕虫網と虫カゴを持って出掛け、何匹ものセミを捕まえて凱旋した。しかし、捕まえて来ても飼いようがない。セミの成虫は木の樹液を吸って生きている。家の中だと、そんなものを用意できるわけがない。結局、虫カゴの中でセミは餓死する。僅かばかりの生の時間を奪い取っていたわけである。今にして思えば、随分哀れなことをしたものだと思う。だがその当時は、そっとセミの背後に忍び寄って捕まえるスリルが堪らなかった。子供というのは残酷なもので、そのスリルのために、無数のセミの命を奪っていたわけである。

 今でも夏になると虫採りの夢を見ることがある。あるときはセミだったり、あるときはカブト虫だったり。いずれの場合も、どういうわけだか昔と違ってうまく捕まえられるのである。そして、夢の中ではそれがとても嬉しかったりする。けれど、現実の世界でセミやカブト虫を捕まえたいかと言われれば、もうさすがに興味はない。

 以前ゴルフをやっていた頃、ティーグラウンドで待っているときに脇の木をふと見上げると、大きなクワガタ虫がいた。こんなところにクワガタ虫がいるねぇと友人と話をしたが、それを採って帰ろうとする者はいなかった。私はむしろ、誰かに見つからずに生き延びてくれればよいがと思った。

 夏に山登りに行ったときも同じような経験をした。前方の山道をのっしのっしとクワガタ虫が這っていた。私は立ち止まり、彼が道の脇にたどり着き枯葉の下にもぐりこむまで傍らで見守っていた。

 子供の頃たくさん殺生した分、大人になって慈悲深くなったのだろうか。あるいは、たくさん殺生をする過程で、自然の命のはかなさを学んだのだろうか。大人になってもカブト虫やクワガタ虫を飼うのを趣味にしている人がいるから、誰でも歳をとると虫に哀れみを感じるようになるわけではないのだろう。私の場合はたまたま、どこかの時点で何かを卒業したのである。

 何を卒業したのかは正確に説明できないが、卒業して得たものは、実は絵を描くときの自然の見方と深く結びついているような気がする。自然のはかなさを知り、そのはかなさの中に美を感じるようになって、私の絵は変わった。表面的な自然を写実調に写し取るのを最善とするではなく、その奥にあるものを描こうとするようになった。

 毎年、夏の終わりになると、私が時々立ち寄る公園の大木の下に、無数のセミの死骸が転がる。子供の頃には虫の死骸を見ても、昆虫標本に役立つかなぁなんて考える程度だったが、今では、その死骸に無常を思い、何がしかの美学すら感じることがある。子供の頃に比べ自分自身の絵が成長したなぁと思い始めたのは、はかなく転がる虫の死骸に何かを感じるようになってからのことである。




8月21日(火) 「極楽と地獄」

 先週田舎に帰って墓参りをした。菩提寺の本堂に上がってご院家さんにも挨拶し、別の寺にある親戚の墓にも足を伸ばした。お寺に行くのはお盆の時だけで、それも毎年帰省しているわけではないから、めったに菩提寺に行かない計算になる。

 我々日本人の多くは仏教徒ということになっているが、普通の人ならそれは、お寺に行って先祖の墓参りをするのと同義である。それ以外の宗教行事は、親戚や知り合いに不幸があると葬儀に出るだけ。要は、先祖供養が宗教行事の全てである。

 このように、多くの日本人にとって仏教と先祖供養は切っても切れない関係にあるが、元々仏教と先祖供養は別物のはずである。仏教の開祖である仏陀は葬儀を禁じた。そもそもの仏陀の教えは一種の人生哲学のようなものであり、煩悩を払拭して悟りを開けば、人は永遠の境地に達せられるといったものだ。従って、初期の仏教には葬儀はない。奈良時代に建立された東大寺や法隆寺の境内のどこを探しても、墓地はない。

 葬儀や先祖供養が仏教と結びついたのがいつの頃なのか正確には知らないが、庶民まで含めて本格的に広まったのは、江戸時代の寺請制(檀家制度)に負うところ大である。これは宗教を使った一種の庶民統治であり、地元の寺に民衆の身分を保証させる役割を果たした。同時にこの制度は、人々を生まれた土地に縛り付け自由な移動をしにくくもした。先祖を敬わないと地獄に落ちる、そしてその先祖の墓は地元の菩提寺にある。そうなると、墓を守る家の当主はその土地から容易に離れられなくなる。

 私はこの歳になっても、仏陀の教えを詳しくは知らない。おそらく仏教徒を名乗る日本人の殆どがそうではないか。しかしこれは、他の宗教から見れば驚くべきことである。キリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがある。そこに書かれた教えを、教徒なら知っているはずだ。聖書の挿話の幾つかは、仏教徒である日本人だって知っている。なのに我々は、肝心の仏陀の教えが何なのか知らない。

 仏教の教えを書いた経典、つまりお経も殆ど読んだことがないはずだ。まぁ「般若心経」がせいぜいだろう。「四諦」とか「八正道」と言われてもそれが何か答えられないし、仏陀の説いた悟りを開くすべすら知らない。今やお経は、生きている我々のためにあるのではなく、死んだ先祖に僧侶が読経して聞かせるためにあるかのようだ。それを僧侶の傍らで聞くことがあっても、意味するところは知らない。そもそも今どんなお経をあげているのか分からないし、知ろうという気持ちもない。仏陀は、現世での生活規範を正すことが仏教の本質と説き、それを伝えるために書かれたのがお経だというのにである。

 正しい生き方を説いたお経を、死んだ人間に聞かせるなんて、一種のブラック・ジョークのようにも思えるのだが、そのおかしさに気付く人はあまりおらず、「ありがたいお経をあげて頂いて、ご先祖様もさぞお喜びだろう」なんて言っている。きっとご先祖様は「生きているうちに教えて欲しかった」と思っているのだろうが・・・。だいたい、キリスト教にせよイスラム教にせよ、宗教指導者は今現在生きている教徒に向かって教えを説いている。墓に向かって説教する牧師や神父なんて見たことがない。

 ただ、これは我々の不徳の致すところではない。そもそもどこかで仏教が変質したのである。原理主義の如く経典に書かれた教えを忠実に伝えるのではなく、民衆に分かりやすいように話の内容を変えた。変えたのは我々教徒ではなく、僧侶の方である。

 もちろん、読み書きも出来ず教養もない当時の民衆に、仏陀の教えをそのまま説いたところでチンプンカンプンだったろう。だから、念仏を唱えろと呪文のようなフレーズを教え、仏像の前で唱えさせた。このままだと地獄に落ちるかもしれないが、仏像に念仏を唱えれば極楽浄土に行けると説いた。考えてみれば、一種の威しである。教えられた民衆は、極楽浄土に行きたい一心で、形だけ習得した。かくして仏教の本質は知らないから、僧侶の言うがままである。いつの間にか、仏像が仏壇に変わった。それが今の仏教の姿である。

 この大衆布教の過程で、大いに力を発揮したのが仏画だったのではないかと思う。一般大衆は字が読めないから、極楽や地獄の様子を絵に描いて見せた。「地獄に落ちると、こんなひどい目に遭う」と絵を見せて脅した。また「極楽とはこんな素晴らしいところだ」と、民衆に夢を持たせた。

 今では仏画は日本美術の一角を占めるが、それはそもそも純粋な芸術として描かれたのではない。その果たした役割を思うと、私は何とも複雑な気持ちになる。現存する仏画を芸術として鑑賞した人の数よりも、そこに恐怖や夢を感じた人の数の方が、歴史的にははるかに多いに違いない。そして、その架空の世界の絵に魅せられた人々は、ついぞ仏教の本質を学ぶことはなかった。仏陀がその様子を見たら何と言うか、聞いてみたい気がする。

 昨今の倫理や道徳を欠いた社会の有様を見て、「欧米では宗教が道徳教育の役割を果たしているが、日本にはそれがないから社会秩序が低下しがちだ」と嘆く識者がいるが、本当は仏教にも、人間の生き方を諭す大いなる教えがあるのだ。

 人間の苦しみは、変転して常のない世の中に対して執着心を持つことから生じる。その執着心を捨てれば人は苦しみから解放されるとして、仏陀はそのための生活の在り方を説いた。それが仏教の本質である。そこには、人間と神の関係とか、奇跡とか、そんな超自然的なものは一切出て来ない。全ては実践的生活方法指南である。ただ、我々は葬式と先祖供養に忙しくて、その肝心のところは学んでいない。そんな人達が「仏教徒です」なんて平気な顔をしていることについて、仏陀は何と言うのだろうか。あるいは、御仏の広い御慈悲で赦してくれるのだろうか。

 抹香臭い話だが、久し振りに菩提寺の本堂に座って、そんなことをふと考えた。




8月29日(水) 「水車」

 我が家から歩いて暫く行ったところに、水車小屋のある公園がある。住宅街のど真ん中にポツンと存在しているのだが、昔その辺りは一面田んぼや畑だったのだろう。もちろん、当時のまま残っているわけではなく、公園を作る際に新たに建てられたようだ。単に景観を整えるためだけにあるのではなく、水車の仕組みを子供たちが学べるよう、内部を公開している。

 新たに作られたものなので古びた味わいがあるわけではないが、ゆっくり回る水車を眺めていると、風情があってなかなかいい。造り自体が新しいのに、渋く自然な味わいが辺りに漂う。

 同じような味わいは、水車のほかにも時々感じることがある。いずれも造りは新しいが、昔ながらの姿をとどめたものに同様の感慨を覚える。日本庭園などにしつらえられた「鹿威し」などはその好例だろうか。

 水車にせよ鹿威しにせよ、今や実用性は皆無である。水車を回して動力を得なくとも、電気でモーターを回して簡単に動力を得られる。また、庭に野生動物は来なくなったから、音を立てて動物を追い払う必要がない。従って、今残っている水車や鹿威しは学習用か観光用であろう。

 だが、今や実用性のないそうした道具に、郷愁だけでなく心穏やかな味わいを覚えるのは、どうしてなのだろうか。逆に、モーターやらエンジンやらの動力を使った農作業用具に同じ味わいを感じないのは何故なのだろうか。

 私は水車が回るのを見ながら、その答えをおぼろげに見つけたような気がした。その公園では、水車まで長い木造の樋が伸びていて、そこには組み上げた地下水が流れている。地下水が水車に落ちて、その力で水車は回る。今ではモーターで組み上げた地下水が流れているが、昔は用水路を流れる水や、斜面の途中から湧き出る地下水を動力源としていたに違いない。水車それ自体は人工のものだが、昔はそれが自然の中にうまく組み込まれ、水の流れを上手に取り込まないと、意図したとおりに作動しなかった。いわば自然に対して受身で水車は作られていたということになる。

 鹿威しも同じことで、永遠に続く水の流れがないと作動し続けない。それが可能な位置にしか、鹿威しをしつらえられなかったはずである。

 それに比べて、今の道具は大変便利で、たいていどんなところでも使えるように工夫されている。それは動力源として自然の力を利用しなくなったからである。たいていのものは電気や石油で動く。こうしたエネルギー源は、あらゆるところで調達可能だから、道具だけ据え付ければ独立して使え、時や場所を選ばない。言い換えれば、自然との関係は切断されており、自然と共存する必要がないのである。

 他方、昔の道具は電気も石油もなかったゆえに、そう便利に使い回せなかった。水車にせよ鹿威しにせよ、自然の力を借りなければ動かないから、自然と同化するように作られている。自然から完全に独立することは出来なかったのである。だがそれゆえに、しっくりと自然と調和し、一体感を持っている。

 昔の道具に感じる穏やかな味わいとは、それが自然と共存していたがゆえに醸し出される自然との一体感なのではなかろうか。それはつまり、人間がかつては自然と一体になって暮らしていたことを思い出させる象徴的な存在なのである。野生動物が自然の中で自然を利用しながら一体として暮らしているのと同じように、我々の祖先もまた、自然に抱かれながら共存共栄をしていた時期があり、そうした古い記憶が昔の道具を通じて呼び覚まされているのではなかろうか。

 思えば我々は、科学技術の発達と共に、自然に対して随分と傲慢になった。まるで自然もコントロールできるが如き言動を見聞きすることもある。そんな思い上がりを戒めるように、古い道具を通じてご先祖様が我々現代人に語りかけているのではないか。水車がゆっくりと回るのを見ながら、ふとそんなことを考えた。




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