パソコン絵画徒然草
== 9月に徒然なるまま考えたこと ==
9月 3日(火) 「落書きへの投資」 |
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私は全くの下戸で、酒は一切飲まないのだが、日本酒やワイン、ウイスキーなどの醸造酒が出来る過程というのは中々興味深い。例えば、ワインの原料となるブドウは、我々が普段食べるものとは種類が異なり、生食では渋くて食べられなかったりする。それが、発酵作用によって何年もかけてああいう味になる。また、日本酒も発酵する前の状態では、あの日本酒の味は思い浮かばない。発酵・熟成という過程を経て、大化けするわけである。 何故そんな話をしたかというと、時々、醸造酒の製造と同じような絵の描き方をすることがあるからである。例えば、習作第5室に「河原にて」という絵があるが、解説にも書いたように、ここに描かれた岩は、実はお台場の海辺で波に洗われていたものである。私は最初、この岩の形に惹かれて、岩だけを描いた。そのときには背景も何もなく、習作ともいえないシロモノだった。そして、そのままパソコンの中で放置されていた。あるとき、何のきっかけだったか忘れてしまったが、子供の頃に遊んだ河原のことが思い出されて、それが、この岩の絵と結びついたのである。 またあるときは、描きかけの絵を長らく放置していたことがある。風景画第5室に「星々を仰ぐ」という絵があるが、最初この絵には、中心部分に描かれている一本の木がなかった。実を言うと、私は、ここに何か人工の建造物を描きたかった。広々とした荒野に家か小屋を描き、日が暮れて星がまたたく情景を想定していたのである。しかし、モデルになるいい建物が思い浮かばなくて、荒野の宵の風景を描いたまま、ずっと放置していた。それがあるとき、荒野を行く旅人というイメージを思いつき、建物を描かずに、道と一本の木を描いた。 私の経験では、こういう描き方は、絵具を使った絵では中々難しい。パソコンの場合には、レイヤーという便利な道具があるので、後で背景を描き加えることは容易だし、先に描いたものの色合いを変えることも簡単に出来る。事後調整がこれ程簡単に出来る画材は他にない。お蔭で、ふと目に付いたものだけを描きかけのまま残しておくことが可能なのである。 私は、元来描き急ぐ方なので、こういう試みは今までしたことがなかったのだが、一度やってみると面白いものだな、と思うようになった。お蔭で、ふと目に止まったものを落書きのように描きつけておくことが多くなった。そうして描かれた落書きは、樽に詰め込まれたばかりの原酒のようなものである。それが、いつどのような形で絵になっていくのか、描いた本人にも分からない。原酒が発酵・熟成を待つように、落書きはパソコン内で放置される。やがて時が来れば、思ってもみなかったような絵に発展することがある。勿論、どうにもものにならなくて消えていくこともあるのだが、それは致し方ないと諦めざるを得ない。ワインだって、同じ畑で採られたブドウを原料にしても、年によって出来、不出来が大きく異なると聞く。パソコン内の落書きは、いうならば投資のようなものであり、成功もあれば失敗もある。割り切りが肝心である。 パソコンで絵を描かれる皆さんも、一度こういう描き方を試してみられたらどうか。小さな投資がいつか傑作に発展するかもしれない。そんなことを夢見ながら、落書きをするのも楽しかろう。 |
9月 6日(金) 「情熱と計算」 |
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ビジネスの世界でよく語られる言葉に「Warm Heart and Cool Head」というのがある。自分が取り組む仕事には熱い情熱を注ぎ込むことが必要だが、同時にそれを冷徹に計算しながら進めて行ける沈着冷静な頭脳も併せ持っておかなければならない、という教えである。芸術の世界は、感性、つまり感情的な要素が支配すると思われがちで、クールな頭脳に基づいた冷徹な計算など縁がないと考える向きも多いかもしれないが、私は、絵を描く際にもこの言葉は当てはまるものと思っている。 「芸術は爆発だ」という岡本太郎氏の言葉もあるし、情熱だけで描いたような作品も現にある。私が直ちに思い出すのは、ニューヨーク近代美術館にあったアクション・ペインティングの大御所ジャクソン・ポロックの作品である。彼が巨大な画面に絵具を垂らしたり、叩きつけたりして作り出した作品は、岡本太郎氏ではないが、一見感情の爆発だけで創作したように見える。しかし、その作品の前に立って受ける力強いイメージは、単に感情を叩きつけた以上の、何かの意図を感じる。絵具が垂れた跡や、絵具を叩きつけて出来る飛沫を完全にコントロールすることは出来ず、そういう部分は偶然の産物に違いない。ただ、一見無秩序に見える画面の中にある、ある種の統一感、あるいは雰囲気といったものに、私はポロックの計算を感じてしまう。それは、幼稚園児が図工の時間に同じことをして作った作品とは明らかに違う雰囲気を持っている。どの色の絵具をどういう順序で垂らしていくのか、どういう方向からどれくらいの勢いで絵具を叩きつけるのか。そういう作業手順に関しては、彼なりの計算が働いているに違いない。ついでに言えば、岡本太郎氏の「爆発」も、計算された爆発なのであろう。 絵を描く以上、モチーフに対して感情移入があるのは当然である。絵の対象に込めた思い入れが深いほど、描かれた絵の奥行きも広がって来る。しかし、おそらく思い入れの深さだけでは、いい作品につながっていかない。自分なりの思い入れを上手く画面に表現するために、描く側の計算が必要になって来る。絵画という精神的な高みの世界に、計算という俗な道具を入れたくないと思う方もおられるだろう。また、計算を取り入れていくと、モチーフに対する純な気持ちが色褪せてしまう、と危惧する方もおられるかもしれない。その気持ちはよく分かる。だが、画家達が歴史上の名作を描いた際に、冷徹な計算を働かせていたのもまた事実である。 例えば、朝もやの草原に生える一本の木を見たとしよう。その風景に感動し絵にしたいと思ったときに、見たままを描くというのも一つの方法である。最も素直で、直感的な絵の描き方だと思う。しかし、自分の感動が見る人により的確に伝わるように、色合いを現実のものとは変えてみるとか、構図に工夫を加えることにより、いい作品に仕上がる場合がある。その風景の持つ寂寥感を表すために、画面全体を青系統の色にしてみるとか、構図を変えて一本の木の持つ孤独感を引き出すとか、あるいは、本当はその場になかったものを描き加えるということもあるかもしれない。それは作り物の風景を描くということではない。作者なりのモチーフへの思い入れを壊さずに、それを画面上で純化していくための計算を組み込んでいくという作業である。 ただ、これも大切なことだが、計算だけではいい絵は描けない。上手い絵は描けるかもしれないが、見る者に伝えるべき魂が抜け落ちた絵は、人の心に長くは残らない。モチーフへの思い入れと計算、この2つのバランスは中々難しいが、名作と呼ばれる絵には、両者が上手く同居している。ビジネスの世界で偉大な仕事を成し遂げた人間がWarm Heart と Cool Head を持っていたのと同じことだと思う。 |
9月11日(水) 「公募展の楽しみ」 |
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秋といえば「芸術の秋」。公募展の季節の始まりである。私は、日本画を描いていたせいか、日本画系公募展に目が向く傾向があって、以前は「創画展」「院展」「日展」の3つは、毎年必ず行っていた。最近では、「創画展」は会期が短いこともあって中々行くことがなく、「院展」は行ったり行かなかったり、「日展」は必ず行く、という行動パターンになっている。 有名な画家の作品展とか海外の有名美術館の作品展は、作品が粒ぞろいで安定感があり人気が高いが、公募展には公募展なりの楽しさがある。超有名画家から駆け出しの新人画家まで幅広い層の画家が一同に作品を出展していて、画題、画風も様々である。いうならば、デパート的な品揃えの面白さがある。ウインドーショッピングをする感覚で、その中をキョロキョロと歩く。一枚々々じっくり見て回る人も多いが、私の鑑賞速度は速い。各室に入ってざっと見渡し、気に入った絵があるとツカツカと歩み寄る。時には、展示室全体をパッと見て、そのままスーと抜けて次の展示室に行ってしまうこともある。 私のような見方をしていると、展示室入り口で品定めしている段階では、それぞれの絵が誰の作品か名札が読めない。気に入った作品の前まで近づいて初めて、作者の名前と絵の題名が確認出来る。従って、高名な画家も無名の新人も全く同じ扱いで、有名か無名かで先入観を持つことがない。鑑賞している人の中には、絵を興味なげに一瞥した後、作者の名前を読んで、突然感じ入って作品を見直す人がいるが、私はそういうことがない。高名な画家でもその年の作品の出来が気に入らなければほぼ素通りだし、感じ入った作品があれば、名前の知らない画家のものでもじっくり見入る。会場を出る辺りで「そういえば今年は○○氏の作品が目に入らなかったなぁ」と思ったりする。 私の見るところ、公募展で高名な画家の作品が常に無名の新人の作品を圧倒しているわけではない。号当たりの作品の値段ほどには、出来・不出来は開いていないように思う。そういう中から、キラリと光る新人の作品にめぐり合うのは、公募展だけの楽しみである。私はもう20年以上そうして公募展を見て来て、沢山の画家の名前を知った。ある程度の年数、同じ公募展に通い続けると、展示室入り口に立った瞬間、「あれは○○の作品だな」と遠くから分かるようになって来る。最初に知った当時はデビューしたての若手だった人が、やがて中堅、重鎮と言われるようになるのを見るのは楽しいし、その成長の足跡を毎年確認出来るのは、公募展ならではのことである。 外に出かけるにはいい季節になりつつある。皆さん、どうだろうか。無名の新人画家の素晴らしい作品を探しに公募展に出かけてみては。有名画家の名作シリーズもいいが、画集などで何度も見慣れた作品よりも、未だかつて出会わなかったような新鮮な作品を探しに行く方が刺激になる気がするが…。いうならば、未開の地に埋もれる宝探しである。 |
9月14日(土) 「絵にわがままであること」 |
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私は、注文に応じて絵を描くことが苦手である。「○○を描いて下さい」という具体的な指定は勿論、単に「部屋に飾りたいので何か描いて欲しい」という漠然とした注文にも難色を示すタチである。私は速筆なので、幾らでも絵を量産できるように見えるらしい。だから、こちらが難色を示すと、意外に思われる。まぁ無理からぬことではあるが…。 強制されることは勿論、何かの制約を受けながら描く、ということがそもそもダメなのである。自然と心に湧き上がるイメージに沿って自由に描きたいという思いが強いということであろうか。何日までに描かなければならないといった制約があると、それが心の負担となってイメージが湧いて来ない。どうしてなのか、私にも分からないが…。ましてや「○○を題材にした絵」とか言われると、時として煮詰まってしまう。 自分で描いた絵を展示しているインターネットのサイトで、キリ番を踏んだ人のリクエストに応じて絵を描くという趣向を実施している人が多いが、これも私には無理である。いや、そもそもそれ以前に、どういうリクエストが来るのか分からないのに、凄い度胸だと感心してしまう。実際に、管理人がどの程度リクエストに忠実に応じているのか知らないが、自分の守備範囲でない注文が来たらどう処理しているのだろうと、他人事ながら心配してしまう。芸大や美大の入試問題みたいに「3メートルの薄い紙テープが丸められて透明なコップに押し込まれている絵」とか「15個の透明なビー玉がビロードの布の上に無造作に投げ出されている絵」とか言われたらどうするのだろう(そんな注文出すヤツはそもそもいないか…)。 よく聞く話で、「趣味を仕事に出来たら幸せだ」というのがあるが、私はそうは思わない。そもそも絵で食っていける程の腕前とも思っていないが、仮に仕事として絵を描くとなると、様々な制約を覚悟せざるを得ない。絵を売って生活する以上は、顧客の受けや作品の売行きを気にしなければならないし、締め切りのある注文なら時間に追われながら絵を描かなければならない。スランプに見舞われれば、生活は立ち往生することになる。今のように、気に入ったものを気に入ったときに、気に入ったように描くという制作態度では、早晩立ち行かなくなるのは目に見えている。しかし、そういう気ままな制作態度でやっているからこそ、絵を描くのは楽しいし、こうしていつまでも続けていられるのではないかと思う。 私の絵の制作姿勢は、かくの如くわがままである。仕事で生じるストレスを解消する意味でも、趣味の世界でわがままを貫くことは、精神衛生上大変いいことだとも思っている。心の赴くままに気ままに描いていくことは、アマチュアだからこそ出来る特権である。趣味とは所詮個人的楽しみであり、そこから実益を得ようとしているわけではないし、ましてや人生修行や人格形成を目指しているわけでもない。だから、絵を描くことに無理に意義を見出す必要などないし、既存の価値観を盲信して自縄自縛に陥るのもバカバカしい。プロの画家みたいにそんなことに思い悩むより、まずは絵を描くことそのものを楽しむ方が、どれだけ日々の生活を豊かにするか分からない。 気楽に、気ままに、楽しみながら、私は絵を描き続ける。そうしているうちに、絵は私の生活の一部になった。何の制約も、何の気負いもない、あるがままの気ままな世界である。しかし、そういう気ままな世界を、わざわざこうして見に来てくれる人がいるというのは、大変ありがたいことである。皆様に感謝したい。 |
9月17日(火) 「芥子園画伝」 |
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「芥子園画伝」という名は、水墨画を趣味にしている人なら誰でも一度は耳にしたことがあろうが、一般には余り馴染みがない。で、これは何かというと、中国で17世紀に出版された全4巻の絵の教本である。名前の前半部分である「芥子園」は中国の書店兼出版社の名前である。後半部分の「画伝」は、画譜、あるいは絵の教本の意味である。この教本は、歴史に名高い有名本であり、日本では、原書が珍重されただけではなく、江戸時代に翻訳本まで出ている。更に言えば、今でも復刻版が売っている。 私はこの本の存在を最初に知った頃、17世紀の絵の勉強とはどういうものであったか、ちょっと考えたことがある。 我々は、絵の勉強をする際、歴史上の名画から感化されるところが少なくない。「ゴッホ風」とか「ミロ風」など、有名画家の画風を手本にする人も多い。現代では、世界中に散らばる傑作に比較的簡単に接することが出来るので、これは誰でも出来る絵の勉強法である。有名画家の画集は書店や図書館に行けば見られるし、現物だって海外旅行の際に美術館で見たり、向こうの方から「○○美術館展」みたいな催しとしてやって来たりする。我々は、子供の頃から「モナリザ」の写真を何度も見て知っているし、印象派の絵画思想を本で学ぶことも出来る。 しかし、17世紀においては、世界はもっと広く遠く、絵を学び始めた者が接することの出来る作品はごく限られていたに違いない。勿論庶民が気楽に行ける美術館などなく、傑作と呼ばれる絵も、その社会の支配層、金持ち層の自宅の奥深くに飾られていて、一般人が見ることはかなわなかったはずだ。従って、絵を学び始めた者にとって、自分が師事する先生の作品がほぼ全てだったに違いない。だが、その先生が本当に才能のある絵描きである保証はない。本当の傑作に接することもなく一生を終えた職業画家も多かったのではないか。 そんな時代に「芥子園画伝」が持つ力は計り知れなかったように思う。一流の画家が図録で描き方を解説する教本というのは、師に恵まれない画学生にとって極めて重要な意味を持つし、絵の先生達に対しても大きな影響を与えたと思う。紹介状を持って遠路はるばる絵を見に行かなくても、手本となる絵に接することが出来る。書店に行けば有名画家の画集や絵の教本が書棚にあふれかえっている現代では、きっと想像もつかないことであろう。 我々は、情報のあふれ返る現代で、少々鈍感になっているのかもしれない。遠い異国からの輸入品の包み紙に使われていた浮世絵を初めて見た時の、印象派の画家達の衝撃を、我々は中々理解出来ない。私は、パリのルーブル美術館で実物の「モナリザ」を見る前に、数え切れないくらいその写真、テレビ映像を見ていた。結局私が実物の「モナリザ」を見てしたことは、「どの方向から見ても『モナリザ』が自分を見ているように描かれている」というのが本当かどうか確かめただけだった。遠い昔、レオナルド・ダ・ヴィンチのその名作の噂を聞き、時間をかけて遠路はるばる訪ねて来て、初めてその絵に描かれた謎の微笑を見た人の感動を、我々は共有することが出来ないのである。 情報通信分野の目覚しい発展で、世界は一気に狭くなった。遠い異国の地にある名画を簡単に見られることに何の不思議も感じなくなった我々は、17世紀の人達に比べて絵に接して感動する心を少々失っているのかもしれない。それが喜ばしいことか悲しむべきことかは知らないが…。 |
9月20日(金) 「時代遅れのサイト」 |
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このホームページの体裁について、時々考えることがある。 「休日画廊」というホームページには、派手さがない。あるいは、やや時代遅れの体裁といってもいいかもしれない。長く縦スクロールするタイプの先頭ページを持っているサイトは、ごく少数派である。解説の文章も長く、展示している絵を除くと視覚に訴える装飾もない。読むタイプのホームページは、閲覧者には面倒なので人気がない、という声も聞く。こうして数え上げていくと、欠点はそこかしこに見られる。 人気サイトというのは、絵の展示サイトに限らず、先頭ページからして人目を引く工夫が凝らされている。見出しなどは、私のようにテキストをそのまま使うのではなく、GIFやJPEGの画像が使われており、Flashを効果的に取り入れているサイトも多い。また、縦スクロールなどしなくとも、一見してコンテンツが分かるようなコンパクトな構成になっており、文章などの長々とした読み物は見当たらない。要するに、機能的で視覚重視のつくりになっている。 そこまで分かっていて何故直さないのか、と不思議に思われる方もおられよう。理由は色々ある。ただでさえ重い現在のページにこれ以上画像を増やしたくないとか、私のホームページ・サービスではカウンター設置以外のCGIの使用が禁じられているとか、高くてFlashを買えないとか。しかし、そもそもの理由は、私自身が「休日画廊」をそういう流行の体裁にすることに躊躇しているというところにある。 例えば、繁華街に行くと、表通りの一等地に華やかな店構えの人気店が軒を並べている。沢山の人が押し寄せ盛況なのだが、そうした表通りから一本奥の通りに入ると、そこにもひっそりと営業している店がある。さしたる飾り付けもない地味な店だが、ふと店内に足を踏み入れると、静かで、何故か心落ち着く。余り機能的ではない店内は時代遅れの観があるが、表通りの人気店にはない素朴なぬくもりがある。表通りの華やかな店々を見て回った後に、ふと思い出したように覗いてみる、休憩所のような小さな店。私は「休日画廊」というサイトをそういう位置付けのものと考えて、作って来た。だから、表通りの華やかな店を真似て改装することに躊躇がある。Flashを使った派手な演出や、ロゴに凝った華やかなページ構成は、何だか私が追い求めている絵に似合わない気がするのである。 現実の社会では、不器用で時代遅れの店は、この不景気の中で街の風景から消え去りつつあるが、ホームページはありがたいことに、本人にやる気と時間の余裕があればいつまでも運営できる。人気店ほどの人の来訪はなくとも、心の休日をここに見出してくれる人がいるのであれば、このまま時代遅れの体裁の素朴なサイトでいいのではないかと思ってしまう。かくして、ホームページの体裁についてあれこれ考え始めるのだが、いつも同じ結論にたどりつく。まもなく開設1周年となるが、「休日画廊」にそう大きな変化は起こりそうにない。 |
9月23日(月) 「機能主義の功罪」 |
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向井潤吉という画家をご存知だろうか。日本各地の農家・民家を描き続けた画家で、おそらく新聞、雑誌、テレビなどで、誰しも一度は彼の作品を見たことがあるはずだ。リアルなタッチで描かれた昔ながらの日本家屋が、見る人の郷愁を誘い、彼の作品は随分人気が高いと聞く。書店でも、彼の画集を目にする機会が多い。 しかし、彼の絵に描かれたような家を、東京で見つけることは出来ないし、ちょっと郊外に足を伸ばした程度でも望み薄である。彼が描く農家・民家は、絵としては皆好きなのだが、実際に住むとなると二の足を踏むということだろう。たしかに、古い藁葺きの木造農家より、大手不動産会社が作る「○○ホーム」の方が住むには便利だと思う。ただ、そういう「○○ホーム」を絵にしたところで、向井潤吉氏の作品のような味わいは出ないに違いない。今の家は、便利だが絵にならないということだ。 歴史的建築物ではなく人々が普通に生活している建物を描くということでは、もう一人、フランスの画家モウリス・ユトリロのことを思い出す。1883年生まれのユトリロは、独学で絵を学び、画壇から孤立しながらもパリの街角の風景を描き続けた。くすんだ白で描かれた建物が、第2次大戦前の哀愁に満ちたモンマルトルの風景を活写している。ユトリロの絵を見てからパリに行くと、彼が描いた戦前のパリの街並みと現在のパリの街並みが、それ程変わっていないように感じられる。勿論戦禍に遭って壊れた建物も多かろうが、モンマルトル辺りを散策していると、ユトリロの風景画に入り込んだような錯覚におそわれる。パリが街並み保存のために建築規制をしているのは有名なことで、今でもパリの人達は、昔ながらの外観を留める街並みに暮らしている。パリにある昔風の建物と、日本の不動産会社が得意とする「○○ホーム」と、どちらが便利なのかは知らないが、少なくとも、今でもパリの街並みは絵になるということだろう。 機能優先のように見えるアメリカの住宅はどうだろうか。私は一時期ニューヨーク郊外に暮らしていた。郊外の住宅地に建ち並ぶ家はとても美しい。1つ1つの住宅は、東京と同じように、住人の好みで建てられているが、日本の「○○ホーム」的な建物はなく、木の外壁の上にペンキが塗られ、家の形もどこかしらクラシカルである。しかも、そうした家々が集まって全体として作り出す雰囲気は、心安らぐものがある。よくそうした郊外の住宅の写真が、絵ハガキになったり、写真集や旅行雑誌に掲載されたりしているので、皆さんも一度はご覧になったことがあるかもしれない。こういう家を見ていると、近代建築だから機能一辺倒というわけではなさそうだ。 何故、日本だけが「○○ホーム」的な建物になってしまうのだろう。別に、日本人の美意識が、「○○ホーム」の外観に心の安らぎを見出しているわけでもあるまいし…。結局、向井潤吉氏の絵に皆が感じる郷愁というのは、我々が便利さや機能を追求するあまり失ってしまったものへの憧憬ということではないか。西洋の人々は、やすらぎを自らの家に求め、我々はそれを絵の中に見出しているのかもしれない。生活の豊かさという観点から、少々考えさせられる話である。 |
9月26日(木) 「『パソコン絵画のすすめ』再考」 |
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この「休日画廊」で、私は毎週のように作品を更新しているのだが、昨年11月の開設以降、ほぼ全く更新していないページがある。「パソコン絵画のすすめ」の本文である。これは、前から少しずつ気になって来ているのだが、どう直そうか確たる妙案が浮かばない。今回はその辺りの問題意識をちょっと書いてみたい。 何度も書いたことだが、パソコンを使って風景画を描くというのは、油絵や水彩画をやっている人から見ると、「何故わざわざそんなことをするのか分からない」という話になる。せいぜい好意的に見て「面白い試み」、悪く言えば「奇をてらっているだけ」、おまけに出来た絵を見て「やっぱりパソコンだとダメだね」と厳しい評価。予想される反応はそんなところだろう。 だから私は、「パソコン絵画のすすめ」の冒頭で、思いつくままに、パソコンで描くメリットを他の画材と比較しつつ書き並べ、それだけだと不公平なのでデメリットも挙げた。ただ、このメリット、デメリットの整理はやや突貫工事でやったので、個々の理由の軽重とは関係なく、読み物的にストーリーが流れるように構成してしまった感がある。内容的にも、比較的重要だが書くと長くなるので割愛した論点がある一方、油絵愛好家をニヤリとさせるような「パソコンだと臭いがしない」といったジョーク的話題を取り入れたりもした。要するに、論理よりも情緒を重視した文章構成になっているのである。 しかし、私が前々から気にしているのは、そうしたメリット、デメリットの並べ方の問題ではない。この文章が、油絵や水彩画、日本画など、既に趣味として絵を描いている人、あるいは今はやめてしまったが、かつて描いていた人を主な読み手と想定して書かれている点にある。冒頭に申し上げたように、そういう人達の問題意識に答えると言う視点から話が始まっているのだから、当然と言えば当然かもしれない。しかし、これは言い換えると、「学校の美術の授業以来絵筆は握ったことがない」という本当の初心者には、画材を比較する形で書かれているこの文章の意味は分かりにくいということを意味する。例えば、「1万円弱のタブレットと無料ソフトさえあればパソコン絵画は始められる」と言われても、油絵や水彩画の画材の相場や、紙やキャンバスなどのランニング・コストの水準がピンと来ない人には、どう安いのかが分からない。更に「臭いがしない」と言われても、そもそも油絵具やオイル類がどういう臭いをどの程度強く発するのか知らない人には、それがどの程度のデメリットなのか理解出来ない。 結局この文章は、初心者向けの案内という位置付けになっているが、実際には、既に趣味で絵を描いている人にしか、パソコン絵画の良さが伝わらない可能性が高い。また、画材比較を中心にした説明が、却って初心者に難しいイメージを植え付け、パソコン絵画の敷居を高くしているのではないか、という懸念もある。初心者にパソコン絵画の良さを伝えるには、もっと簡単で直感的な説明をしないといけないような気がする。 しかし、本当の初心者にも分かってもらえるように「パソコン絵画のすすめ」を書き直そうとすると、全面的な書き下ろしに近い形になりかねない。仕方ないので、年明け早々にQ&Aを新たに付け加えて、若干の補強をしたが、本文それ自体は手付かずのままである。もうそろそろ開設1周年になるので、何とかしたいと思う今日この頃である。 |
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