パソコン絵画徒然草
== 9月に徒然なるまま考えたこと ==
9月 3日(水) 「星座」 |
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私の住んでいる東京都心部では、この季節、中々星を見ることが出来ない。夜空に目を凝らすと、漸く一つ二つと、僅かにまたたく星を確認することが出来る程度である。都会の夜の明るさは、夜空から星を消してしまうほど強力なもので、子供の頃にキャンプで見た満天の星空など、望むべくもない。ただ、冬になると、風が強く空気も澄んで来るせいか、幾つかの星座を確認出来る程度にまでは改善する。 そんなわけで、夏場はめったに夜空をしげしげと見上げることがなかったのだが、最近、火星大接近のニュースに接し、久しぶりに家族で夜空を見た。ベランダから見上げると、南東の空にひときわ明るく輝くオレンジ色の大きな星があり、すぐにそれと分かる。ただ、他の星は見えなかった。 東京の空では中々星が見えないので、以前、子供達を連れて何度かプラネタリウムに足を運んだ。東京が真っ暗だったらどんな星が見えるのかをドームに投影し説明してくれるのだが、見渡す限りもう満天の星空である。説明員の人が季節ごとの星座の見付け方を教えてくれたうえで、星座にまつわる伝説なども話してくれる。子供にとっては初めて聞く話だろうが、私は小学校の頃に星座の話を聞いたり本を読んだりしたことがあるので、多くの星座物語は懐かしい昔話である。 しかし、大人になって改めて星座にまつわる伝説を聞くと、昔の人達の想像力のたくましさに驚かされる。あの夜空にひしめく星々をつなぎ合わせて無数の星座を作り、そこに1つ1つ物語をかぶせていくこと自体、すごい創作力だと思うが、星座にまつわるそれぞれの話の奔放さには感服させられる。こういう破天荒なストーリーは、現代人には中々作れないのではないか。 我々は科学の発達のお蔭で、星というものが、太陽と同じ燃え盛る恒星であり、その明るさの違いは、星の大きさ、新しさ、地球からの距離などによって生じることを知っている。また、天の川は、銀河系にある無数の恒星が大きな輪になっていて、その帯を横から眺めているので、星の川のように見えることも知っている。そうした知識は、たゆまぬ科学の探求の賜物なのだが、同時に、そういう事実を知ってしまうと、昔の人達が自由奔放に巡らした想像力は、急速に萎えてしまう。 想像力というのは、事実を知らぬがゆえにたくましくなる面がある。真相を知ってしまうと、想像はそこで止まる。おそらく、天の川を見上げて七夕の織姫・彦星の物語を作り出すような想像力を、現代人はもう持ち合わせていないのではないか。 あるいは、絵についてもそうかもしれない。近代絵画が誕生する以前の、歴史や文学に題材を取った絵画の構成の奔放さは、現代の画家には中々描けないのではないか。神話や伝説を素直に信じていた画家達の想像力が、あんなに自由で生き々々とした作品群を育んだのだと思う。科学が発達し、皆が神話や伝説に疑いを持つようになってから、こうした分野の絵のイメージは成長しなくなった。最初から嘘だと分かっている話をリアルなタッチで描くのは、もはや芸術ではないと現代の画家達は思っているのかもしれない。お蔭で、神も天使も、昔の画家達が作り出したイメージのままである。 科学の発達に伴って、我々は多くの知識や技術を得たが、同時に失ってしまったものもある。七夕の夜にかささぎが天の川に橋をかけ織姫と彦星が一晩だけ会えることも、火星に火星人がいることも、誰も本気で信じてはいない。その真実が分かったことが幸せだったのか、知らずに信じていた方が幸せだったのか、おそらく意見は分かれるだろう。しかし、少なくとも人類が長らく共有していた夢物語の幾つかが失われたことは事実である。 あるいは、そういう夢物語を今でも真実と信じて星空を見上げられる子供達が、一番幸せなのかもしれない。 |
9月 9日(火) 「実と虚との皮膜」 |
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私は時々、常識をわざと外れて絵を描くことがある。影が差すはずのところに影を描かず、そういう色になるはずがないところに私なりに感じた色を置いてみる。そうした絵は、確かに科学的ではないし、人によっては「実際の風景では、そうは見えないはず」とお叱りを受けるかもしれない。だが、その方が何故か心に響く絵になることがある。 そのわけを、私は何度か考えてみたことがあるのだが、結局のところ、有名な近松門左衛門の「虚実皮膜論」が、一番しっくり来るように思う。 近松門左衛門はご存知のように、江戸前期の有名な浄瑠璃・歌舞伎作者で、浄瑠璃では竹本義太夫と、歌舞伎では坂田藤十郎と組んで、数々の傑作を世に送り出した。近松門左衛門と交友を持った穂積以貫という儒学者が、近松の浄瑠璃に対する考え方を聞き取り、「難波土産」という本にまとめている。近松はその中で、浄瑠璃を創作する際の心得として6つのポイントを挙げているのだが、その6番目が、「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」で始まる有名な「虚実皮膜論」である。 近松の考えによれば、浄瑠璃は、この世の現実に沿って作られているが、百パーセント現実というわけではなく、どこかに虚構を入れてある。そうした「現実(実)」と「虚構(虚)」との微妙な組み合わせ(近松流に言えば「境目」)にこそ、観客を惹きつける芸の妙味がある。手短に言えば、これが「虚実皮膜論」の言わんとしていることである。 おそらくこれは浄瑠璃に限らず、小説や演劇、映画などにも通じるストーリー作りの基本なのだろうが、絵画においても、同じような側面があるのではないかと時々思う。つまり、私が常識をわざと外れて絵を描いているときには、近松の言う「実と虚との皮膜の間」を無意識のうちに探っているのではないか、ということである。 我々が、芝居や映画、テレビドラマに求めているのは、実際にはないのだが、ひょっとしてありそうに思える話である。人々は単に、ありふれた本当の現実が見たいわけではない。しかし、現実を無視した、おおよそあり得ないストーリーだと、見ていてバカバカしくなり白けてしまう。映画やテレビドラマにおいて、細部の作りの丁寧さやリアリティーが重視されるのは、虚構に真実らしさが求められるためである。見る人は虚構だと分かっていながら、あたかも本当にあった話を見るかのように感情移入していく。それは、作る側と見る側の間に結ばれた暗黙の約束事である。 絵の場合でも、描く人と見る人との関係は、同じことではないだろうか。鑑賞する人は、絵に描かれた風景の、真実の姿を見たいわけではあるまい。仮に実際の風景を見たいのなら、絵ではなく、写真や映像を見ようとするだろう。その方が正確だからである。つまり、見る側は、その絵が本当の風景を寸分たがえず再現しているとは思っていない。構図なり、色なり、形なりに、作者独自の解釈、言い換えれば虚構が入っていることを、無意識のうちに知っているはずである。それでいいのだし、むしろそうでなければ、わざわざ絵を見に美術館まで足を運ぶ必要はない。 そんなことを考えていると、絵画と写真との違いが、少し仄見えて来るような気がする。「現実(実)」を写し出すのが写真、そこに「虚構(虚)」を加え、「実と虚との皮膜」を探るのが絵画。そう考えると、写真を機械的に加工しても絵にならない理由が、少し分かったような気になる。カメラという機械では「虚」を加えられない。人間だからこそ「虚」を加えられる。つまり「虚」とは、極めて人間臭い演出なのである。おそらくそれが、絵の本質なのだろう。 |
9月18日(木) 「自然と向き合う」 |
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今年の夏は、おかしな天候のまま終わってしまった。お蔭で農作物は不作らしい。10年前のコメ不足騒ぎが脳裏をよぎるが、たんまりと備蓄米があるから、コメが買えずに皆がスーパーマーケットに殺到するという事態にはならないのだろう。しかし、これが江戸時代なら飢饉になっていたに違いない。 この夏、我々はニュースを見ながら、涼しいだの寒いだの騒いでいたが、昔の人なら青い顔をして空を見上げ、加持祈祷などしていたに違いない。江戸時代なら、こういった異常気象は、多くの人々の命を直ちに脅かす一大脅威だったわけである。我々は幸い、こういう脅威からは解放された。しかし同時に、自然というものが我々の命とどう関わっているのか、少しずつ実感出来なくなりつつある。 以前こんな話を聞いた。中央アジアの小国を訪れた先進国の訪問団一行が、放牧民の村に招かれた。テントの周りに沢山の羊が放牧されている。一行が珍し気に見ていると、ホスト側の村の人が近寄って来て、メンバーの若い女性に「Which do you like ?」と尋ねた。女性は、足元にいたとびきりかわいい子羊を指した。その夜の歓迎の宴で出て来たメイン・ディッシュが、その子羊だった。村人から見れば最大級のもてなしだが、自分が指差したばっかりに殺された子羊を見て、その女性は泣き出してしまった。 この話を、野蛮だの残酷だのと言って片付けることは簡単だ。しかし、我々にとって、かわいい子羊は愛玩の対象かもしれないが、遊牧民にとっては生活の糧以外の何物でもない。彼らの命と羊の命は、直接つながっているのである。羊を殺して食べるに当たって、おそらく彼らには残酷という感情はないのだろう。「それでも一緒に暮らしているのだから悲しみにくれながら殺したに違いない」というのは、自分の命と自然の有様との関係が希薄化した我々先進国の人間の、感傷的な思い込みに過ぎないのではないか。ただ、彼らは、羊に対して何がしか尊厳の念を抱いているという気はする。それは自分達を取り巻き、時として自分達の命をも左右する自然の象徴としての羊に対してである。 我々人類の祖先達は、おそらく共同で狩をして捕まえて来た鹿や兎を、村総出で解体し、広場で火に炙ってそのまま口にしたはずだ。そこでは、その日自分達が殺した動物が、自分達の血肉となり命を支えているという実感があった。知識として教わるのではなく、日々食事をしながら、自分の命が自然と直接結び付いていることを学ぶのである。従って、森から動物が消えたり、実のなる木が枯れはてたりすれば、彼らの命も危うくなることは、火を見るより明らかである。異常気象などの天変地異は、その引き金になり得る危険な兆候だったに違いない。そして、そういう生活の中から、自然への畏怖、そして尊厳や感謝というものが湧いて来る。スーパーマーケットに並べられたパック詰めの冷蔵肉を食べる我々の日常生活からは、決して生まれて来ない感情である。 「自然を大切にしよう」という呼びかけは、ゴミを捨てないとか、川を汚さないといった、見た目の美しさを保つことと理解されがちである。確かに誰しも、自然を大切にしないと直ちに自分達の命にかかわるとまでは思っていない。食用の動物が殺されるのをまともに見られない我々には、命のレベルまで遡った自然との関わり合いを実感できないのは当然であり、致し方ないのかもしれない。 絵を描くために自然と向き合っていると、様々な自然の有り様を見ることになる。絵にするのは、そのうちの美しい部分にしか過ぎないわけだが、足元に転がる虫の死骸も、汚く枯れ果てた野草も、自然を構成する一部であることに変わりない。そして、アリが群がる虫の死骸や、腐葉土に変わりつつある枯れ草は、生あるものが死に、別の命を支えていく糧になることを、そっと示してくれている。目をそむけずそうしたものを見たところで、古代の人々が真剣に自然と対峙して生きていた頃の感覚を共有出来るわけではないが、命あるものと自然との接点を、少しでも垣間見ることにはなる。 我々は科学の発達で、自然災害や飢饉など、祖先の命を危険にさらして来た数々の災厄を切り抜けるすべを編み出したが、同時に自然と命との関わりについて考える機会も失ってしまった。異常気象をニュース・ネタの1つ程度に思って自然と向い合っていると、いつかは手痛いしっぺ返しがあるような気がするのだが、そんなふうに考えているのは、私くらいのものだろうか。 科学技術の粋を凝らした観測機器で自然を観察し分析するのもいいが、時々は、我々がまだ僅かながらに持つ原始的な皮膚感覚で、自然を見つめ直す機会を作らなければならないのかもしれない。 |
9月27日(土) 「○○風の絵」 |
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美術展や公募展では見かけないが、雑誌などで時々「○○風の絵」と銘打った作品に出くわすことがある。「ゴッホ風」とか「セザンヌ調」といった類で、色使いや構図、タッチがそれらしく似せてある。ゴッホの絵が好きな人にアピールしようということか、作者自身がゴッホに心酔しているのか、事情はよく分からないのだが、ゴッホがこの主題を描くと、きっとこんな絵になったに違いないというのが、こうした絵の「売り」のようである。 私はこうした絵をどう評価してよいものやら迷う。ゴッホ風の絵は、どこまでリアルに描かれていても「風」に過ぎず、本物のゴッホの作品になるわけではない。表面的な型を真似ることが、どれ程意義のあることなのか、私にはよく分からないのである。 私は、プロの画家の絵を真似ることそれ自体を、悪いことだと言っているのではない。いやそれどころか、アマチュアが絵を練習していく過程で、自分の好きな画家の絵を真似て描いてみることは、むしろ有効な練習方法だと思っている。模写というのは、今でも広く行われており、色使いや描画技法を学ぶうえで、効果的な手段だと思う。しかし、それは、自分の腕を磨いていくうえでの、練習方法の1つに過ぎないわけで、幾ら精巧に真似て描いたとしても、自分の作品とはならない。 昔、こんな話を聞いたことがある。アフリカに近代化の波が未だ行き渡っていない時代に、ある部族の長がヨーロッパ諸国を歴訪した。彼は、最初の日にホテルに泊まって驚いた。部屋のスイッチをひねると、パッと灯りがともる。洗面所で蛇口をひねると、きれいな水が出る。早速彼はお供の者を呼んで、同じものを街で買ってくるよう命じた。部族の長は、お供の者が買って来た電球と蛇口を本国に持ち帰り、これを研究するよう部下に命じたという。 この話が本当の話なのか、誰かが作った寓話なのか、私は知らない。しかし、物事の本質を学ぶことの難しさを、巧みに表した秀逸な話だと思う。そして、「○○風の絵」に出会ったとき、決まって私はこの話を思い出すのである。ゴッホ風の絵が真似るあの独特のタッチは、アフリカの部族の長が持ち帰った電球に過ぎない。問題は、電球が何故光るのかまで深く掘り下げたうえで、ゴッホ風の絵が描かれているのか、ということである。 ゴッホのタッチの奥には、彼の思想、彼の情熱、数々の軋轢、挫折、絶望、そういった諸々の要素が潜んでいる。それらが積み重なって彼のタッチが生まれて来た過程を深く知ったうえで、ゴッホが仮にもう少し長生きしたら、こういう主題を選んでこんな絵を描いたのではないかということで、ゴッホ風の絵が描かれているのなら立派だと思う。しかし、彼だったら到底選ばない主題を対象に、ゴッホ風の絵を描いてみたところで、それが一体どういう意味を持つのだろうか。それは結局、ゴッホのタッチを表面的に真似た技巧だけの絵なのではないか。 「所詮遊びですよ」ということなら一向に構わないし、そういうおふざけにしかめっ面するほど大人げないつもりもない。また、ゴッホを逆手にとって、更に深い寓意を埋め込んだ作品を作ったのなら、すごいものだと思う。しかし、単にゴッホのタッチをそっくり真似て描けること自体が、あたかも上級者の証であり、素人には到達できない質の高い領域であるかのように扱われていると、どうも気にかかるのである。そんなところにこだわる辺り、私も頭が固いのだろうか。 |
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