パソコン絵画徒然草

== 9月に徒然なるまま考えたこと ==





9月12日(火) 「ステレオタイプの罪」

 最近始まったことではないが、我々はともすれば人々をグループ分けし、特定のグループに属する人達を十把一絡げに「彼らはこういう人達だ」と決め付けがちである。例えば、「政治家ってみんなこうだ」とか、「芸能人なんて所詮こうなんだ」とか。他にも「血液型がA型の人は云々」というのも、これに当たるかもしれない。私もそうだが、皆さんも覚えがあるはずだ。

 こういう物事の捉え方を、悪い意味で「ステレオタイプ」と呼んでおり、「あなたの主張は如何にもステレオタイプな捉え方だ」と言って批判したりする。しかし、あまり良くないこととはいえ、こうした決め付けが多用されるのは、何となく当たっているように見えることが多いし、何より自分で個々の事例について分析し判断する必要がないからであろう。要するに、思考停止型の行動なのだが、その方が手間がかからず楽なのである。

 ただ、全く当たっていないと思うステレオタイプな捉え方も世の中には沢山ある。彼らはこういう人達だという前評判を聞いていたのに、そこに属する人に実際会ってみると、全然違っていたなんてことは、私の経験に照らしても相当ある。勿論、いずれのグループにも例外的な人がいるし、何よりグルーピングして特徴を決め付けるという手法自体が、あまりに人間というものを単純化し過ぎているという問題もあろう。しかし、私がここで言いたいのは、グループの中には例外的な人もいるということではない。全く捉え方が間違っているステレオタイプの作り方が、世の中には沢山あるということである。

 そういったステレオタイプなイメージが作られたのには、それなりの原因があるのだろう。元々、共通の特徴なんて持っていない人達を勝手にグルーピングしてしまったといった初歩的なミスもあるかもしれないし、何かのきっかけで対象となるグループに誤ったイメージを持ってしまったというケースだってあり得る。後者のケースでは、グループの中でたまたま例外的な人が目立ってしまったという場合もあれば、故意にイメージを捻じ曲げたいという意図の下に、特定の人が現実とは違うイメージを喧伝したといった悪質な場合もあるだろう。いずれにせよこれらは、グループの特徴を根本から間違えて定義しているのである。

 上記のいずれのケースに属するのか、あるいはもっと別のケースなのか定かではないが、芸術の世界でも間違ったステレオタイプな捉え方がある。「優れた芸術家は立派な人格者でもある」というのがそれである。

 例えば、今の日本で芸術の各分野、すなわち絵画などの美術に限らず音楽、華道、茶道などのトップにいる人々はいずれも徳の高い人格者だという前提でマスコミは扱う。普通の人もそう受け止めているし、そうした第一級の芸術家の書いた本も、崇高なものとして読まれている。そして、本人はおろか、その家族であっても、不道徳な行いがあると分かると、たちまちスキャンダラスなニュースとなるし、場合によっては、その人の芸術性そのものが否定されてしまう。

 確かに、優れた芸術家であり立派な人格者でもあるという例は沢山あるに違いない。しかし、それに劣らぬくらいの例外もある。それにもかかわらず「芸術家=人格者」と捉えようとするのは何故だろうか。その方がマスコミにとって、ストーリーを仕立てやすいという事情はあろう。特定の芸術家を取り上げたドキュメンタリー番組などを見ていると、立派なエピソードばかりが喧伝される傾向にある。そしてそうしたストーリーの方が、見ている方はふんふんと納得する。また、一般の人から見ても、いずれの分野であれ、芸術の道を極めた者である以上、そこに至るまでの過程で相応の修行を積み人格が磨かれているはずだと想像するのは、ある意味当然のことだろう。更に、そうした捉えられ方をしていると知った芸術家の方に、自分の置かれた立場をわきまえて振舞わなければという無言の圧力がかかるのかもしれない。かくして、この不思議な先入観が生まれ、人口に膾炙しているということだろう。

 しかし、冷静に事実を見れば「芸術家=人格者」というイメージは、根拠薄弱である。歴史を振り返ってみれば、過去の偉大な芸術家達が、皆人格者だったかというとそうでないことは、多少絵に興味のある人なら誰でも知っていることだろう。近代絵画の礎を築いて来た画家達は、今ではそれなりの尊敬を集めているが、当時はむしろ世間の非難・嘲笑の的だった。ゴッホ、ゴーギャンのように世間からドロップアウトした人達もいる。酒びたりだったユトリロを人格者と思った人はいないだろう。

 芸術の才能がどういう魂に宿るのかについては、おそらく特定の法則はない。人格者に宿ることもあれば、人格的に問題のある人に宿ることもあるだろう。長くつらい修行に耐えた人格高潔な人の作品が、必ずしも世の中で認められるわけではなく、多少ちゃらんぽらんでも素晴らしい作品を残す人もいる。要するに、高潔な人格から素晴らしい芸術が生み出されるという関係にはないのである。モーツァルトの死を題材にした映画「アマデウス」にあるように、それはある意味で残酷な話なのだが、事実は事実として認めなければならない。

 そういえば、芸術の分野ではないが、スティーブン・キングの小説を原作にした映画「グリーンマイル」も、同じようなテーマを扱っていた。私は小説は読んだことはないが、映画は見た。そして色々考えてしまった。

 少女殺しの罪で死刑囚房に移送されてきた黒人の大男に、病や傷を治す不思議な力が備わっていたという話で、その大男は定職にも付かず、知能もあまり発達していない。やがて刑務官達は、彼が少女を殺したのではなく、死にそうになっていたのを、その不思議な力で救おうとしたということに気付く。しかし、彼は決して真実を主張して無罪を勝ち取ろうとせず、やがて遺族の罵声の中、判決通りに死刑になる。どうして神はこんな恵まれない身寄りの男に聖なる力を授けたのかという問いかけがなされる。

 私達も、「芸術家=人格者」というステレオタイプなイメージに引きずられて、本当に才能のある者を社会的に葬らないようにしないといけない。たとえその人が、人格者と呼ぶのにふさわしくなかったとしても、である。




9月20日(水) 「泣ける絵」

 感動して涙を流すような小説や映画が人気らしい。新聞やら雑誌やらで特集も組まれていて、「泣ける」ことが重視される理由について、専門家の分析も掲載されていた。

 手元に記事がないので曖昧な記憶に頼らざるを得ないが、人間というのは、涙を流すこと、あるいは涙が出そうなくらいの感動を味わうことで、ストレスが解消されるようだ。つまり、「泣ける」小説や映画を人々が求める背景には、それだけ世の中ストレスに満ち々々ているという事情があるのだろう。そんなふうに解説してしまうと、話が暗い方向に行ってしまうが、事実なら仕方ない。

 しかし「泣ける」という観点からみると、どうも絵は対象になりにくい。もちろん感動する絵はたくさんあるが、見ていて多くの人が涙を流すような古今東西の名作なんて、寡聞にして知らない。ある映画など、試写会から出て来た人の多くが泣いていたなんて報じられていたが、世界の傑作といえども、美術館を出て来た鑑賞者が一様に涙を流しているなんて話は聞いたことがない。

 小説や映画と、絵画との違いは、時間軸を持っているか否かである。小説や映画は、一定の時間や期間に起こったことがストーリーとして語られる。様々な段階を重ね、幾つもの伏線が張られ、感動的場面に向かって話を盛り上げていく。こういう複雑な時の流れは、一枚の絵では表せない。絵とは、ある瞬間、ある場面を切り取ったものであり、前後の展開を語ることはできない。そういう意味では写真と似ているかもしれない。

 絵が人を泣かせられないからといって、映画や小説に劣るというわけではなかろうが、ストーリー展開ができない分、不利なことは否めない。それを補うための方策といっても、なかなか妙案はない。時間軸の前後の絵を描き足していけばストーリーは作れるが、それでは漫画と変わらない。絵が絵であるゆえんは、それが1枚で成立しているということにあると思う。

 もちろん、絵が切り取って見せる一瞬の前にも後にも、連続して場面は存在する。ただ、表面的に見えないだけである。その見えない前後の場面は、結局、鑑賞者が想像するしかない。いや、絵を見る人は無意識のうちに、心の中でその前後の場面や、画面から見えない景色までも想像しているのではないか。描かれている人物がどんな境遇の人間であり、どういう生活を送っているのか、あるいは送るのがふさわしいのか。この景色は夕暮れや月夜にはどう見えるのか。この静物の置かれている部屋はどんなふうに広がっているのか、そしてその家はどんなところに建っているのか。そんなことをあれやこれや心の中で想像し反芻しながら、鑑賞者は絵を見ている気がする。もちろん、鑑賞者によって、思い浮かぶストーリーや場面は違うわけだが…。

 そうして考えると、絵を見て泣けるかどうかは、鑑賞者の想像力、感受性にもかかっている。ふと浮かんだイメージやストーリーが心揺さぶるものであれば、絵を見た人は泣くかもしれない。他方、平凡なことしか思い浮かばなければ、感動はしても涙までは流さないのだろう。

 ここまで書いて、突然思い出したことがある。もう随分前のことなので記憶が定かでないのだが、休日の夕方にテレビでローカル・ニュースを見ていたら、近隣の県の公共施設で開催される美術展のことを報じていた。ちょっと変わった内容で、第2次大戦中にアウシュビッツのユダヤ人強制収容所に収容された子供たちが描いた絵の展覧会をやるという。女性のアナウンサーによると、その絵を描いた子供たちはその後ガス室に送られ殺されており、絶筆とまでは言わないがそれに近いものである。アナウンサーの解説の後で、実際の展覧会場が映り、何枚かの絵が紹介されていた。おそらく小学校低学年か幼児の絵だろう。きれいな花の絵や、楽しい遊びの様子などが、クレヨンで稚拙に描かれていた。

 私はそれを見て、瞬間的に胸に迫るものがあった。強制収容所に送られたユダヤ人には裕福な家庭が多かったと聞く。子供たちには、幸せな家庭に育ち、家族や友達と遊びに興じた楽しい日々があったに違いない。おそらく彼ら彼女らは、苦しい収容所生活の中で、そうした楽しい思い出を反芻しながら日々の糧としていたのだろう。しかし、二度とその楽しい生活に戻ることなくガス室に送られ苦しみながら死んでいった。私には、その絵の前後の物語がありありと想像できた。幸福と悲劇との対比が鮮やかに胸に浮かんだ。たった一枚の稚拙な絵が、ここまでナチスドイツの人種隔離政策の凄惨さを物語ることができるとは、思ってもみなかった。

 テレビの場面は変わり、元の女性アナウンサーが映ったとき、彼女は明らかに泣いていた。声を詰まらせながらニュースの原稿を読んでいた。プロなのだからそれなりに訓練を受けていたのだろうが、そうした職業意識を吹き飛ばすほど、その絵の衝撃はすごかったのである。あとで上司から叱られるのだろうなと、そのアナウンサーに同情したが、同時に素直で感受性の強い人なのだなと好感を持ったのも事実である。

 泣ける絵もないわけではない。しかもそれは、プロの有名画家が描いたものとは限らないのである。




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