パソコン絵画徒然草

== 11月に徒然なるまま考えたこと ==





11月 4日(火) 「開設2周年を迎えて」

 いつの間にやら時が過ぎ、「休日画廊」はこの11月で開設2周年を迎えた。光陰矢の如しというが、その通りかもしれない。3年目に入るに当たり、取り立てて抱負のようなものがあるわけではない。今まで通り淡々とやっていこうと思っている。

 振り替えれば、2年経っても「休日画廊」には目立った変化がない。始まった頃とあまり変わらず、1週間に1回程度のペースで新作を追加している。変わったことと言えば、途中から、この「パソコン絵画徒然草」という駄文コーナーを追加したことぐらいだろうか。それ以外は、ページ構成やスタイルなども含めて、殆ど変えずに今日に至っている。これは、私自身が意識してそうしているせいである。

 ネットの世界は変化が激しい。当然、サイトの流行り廃り、栄枯盛衰も著しい。人気のある華やかなサイトでも、あるとき突然消えてなくなってしまう。そうした中にあって、流行から離れて、地味であっても長く続くサイトを作ろうと思い、今日までやってきたつもりである。「もう消えてなくなってるだろうな」と思ってアクセスしてみると、意外なことに未だあった、というのが、私が思い描く「休日画廊」の姿である。

 たゆまぬ変化の時代にあって、昔通りに変わらず存在し続けるものには、何か人の心をホッとさせる側面がある。ビル街の谷間にひっそりと残る古い街並み。毎年行われる都心部の秋祭り。大通りから一歩入った、昔ながらの静かな路地。いずれにも、時を経ても変わらぬものがもたらす何がしかの安息感がある。

 世間では、絶えず変革していくことが美徳という風潮があって、活力維持の観点からは、それは正しいと思うのだが、日々変わることを求められ、あるいはそうした変化を追い続けていると、人は疲れてしまう。そんなときに、変わらず存在し続けるものに憩いを求めるのもいいような気がする。出来ることなら、「休日画廊」はそんなサイトでありたいと思う。

 ただ最近、1つの不安要因を抱えている。ホームページの掲載容量である。「休日画廊」はプロバイダーの無料ホームページ・サービスを利用しているのだが、既に限度量の3/4程度を使い切っている。1週間に1回程度の更新でも、チリも積もれば山となるの喩え通りということだろうか。まぁそうであっても、なるべく長く続けたいという気持ちは変わらないので、今後とも宜しくお願いしたい。




11月12日(水) 「うまい絵」

 「絵を描くのがうまい」というのは、一体どういうことだろうか。同じリンゴを描いても、くるりと円を描いて上にヘタを付けただけの簡単なものもあれば、質感まで含めて緻密に描写した絵もある。この場合、両方を見た人は、後者の作品を「うまい」と評するのだろう。ただこれは、絵を描くのがうまいかどうかの区別というより、丁寧に描いたか否かの違いのような気もする。時間をかけて克明に描けば、誰でもかなり本物らしく描写できる。昔、学校の美術の授業で、自分の左手を見ながら、鉛筆でデッサンするという課題をやらされたが、授業時間一杯かけて丁寧に描くと、クラス全員それらしく様になった絵に仕上がっていた。

 しかしたまに、極めて簡単な筆致ながら、対象物がありありと思い浮かぶような達者な絵に出会うことがある。例えば、漫画風の似顔絵で、単純な線を幾つか組み合わせ、相手の特徴を見事に描き出しているものや、一筆書きのようなざっくりした線で、自然の有り様を活き々々と描写している作品である。これらの作品は大抵、必要最小限の描き方で無駄な線が全くない。対象物の特徴を的確に捉えて、それを表す線のみをきちんと描いているからだろう。時間をかけて克明に描くのと違って、こうした技量は、他の人には容易に真似が出来ない。これこそまさに「絵のうまさ」ではないかと思う。

 単純な筆致で絵を描く技量の中で、私が特に面白いと思うのは、見る人の想像力や錯覚をうまく利用しているという点である。例えば、水墨画の一筆で木の枝を表現するとしよう。そのために墨で一気に書き下ろされた線は、習字の際に書く字の一部とさして変わりがない。別に、木の表面材質が細かく描き込まれたり、色が着いたりしているわけではない。単に墨で引かれた一本の線に過ぎない。しかし、僅かの線の加減や、他の線との巧妙な組合せで、見る人は、その一筆を字の一部ではなく木の枝と見るのである。そして、そう思わせる線の引き方が、筆のうまさなのである。一度、木の枝だと思い込んでその線を見ると、後は頭の中で想像が補ってくれる。見る人ははっきりと、木の枝の活き々々とした姿を、その墨の線に見るのである。

 これは線の引き方に限らない。例えば、淡い灰青色の背景に、それより少し濃い色でゆったりとした模様を描いたとしよう。それを遠くにそびえる山の稜線と見るのか、単なる模様と見るのかは、描いた側の腕の問題となる。一度山の稜線だと思って見れば、模様は山の稜線となる。頭の中で、想像が補ってくれるからだ。見る人にそんなふうに思わせる技量が、絵のうまさなのである。

 しかし、どうすれば、見る人が一本の線を木の枝と見てくれるのか、あるいは、描いた模様を山と見てくれるのか。残念ながら私は、それを分かりやすく説明出来ない。もっとも、それが簡単に説明できるなら、誰しも絵の技量に苦労することはないだろう。

 ただ、こういうことは言える。

 我々は今まで、実に多くの風景や人物、モノ、動植物などを見て来ており、その映像は記憶として脳の中に仕舞い込まれている。そして、何か似たようなものを見ると、「○○に似ている」として、記憶の倉庫から、そのものの本当のイメージが引き出される。舞い散る紙ふぶきを見て、雪を思い出すが如くである。更に言えば「幽霊の正体見たり枯れ尾花」も、これと同じ類の想像力であろう。つまり、人の記憶の中から、あるものを確実に呼び出すことが出来る「鍵」となるものを描きさえすれば、人は記憶の倉庫をまさぐり、紙やキャンバスの上にそのもののイメージを勝手に見るのである。一筆描きした線が木の枝に見えるマジックのタネは、そこにある。

 高校時代に、体育の授業で柔道を習ったのだが、教えてくれた先生によれば、柔道の投げのコツは、自分の腕力だけで投げるのではなく、相手の力や勢いを使って投げることだそうである。絵のうまさというのも、同じことかもしれない。




11月21日(金) 「レイヤー」

 パソコン絵画の制作課程は、筆と絵具で描く普通の絵画と概ね同じなのだが、明らかに異なった部分もある。典型的なものを挙げれば、レイヤーの存在がある。

 レイヤーは、油絵や水彩画を描いている人には馴染みがないものだが、アニメの制作方法を知っている人ならピンと来るかもしれない。アニメでいうセルとほぼ同じ物だからだ。透明なシートの上に、何かの絵が描かれたものを思い浮かべてもらえば、分かりやすいだろう。パソコン絵画では、そうした透明シートが幾層にも重なって1枚の絵が出来ている。このそれぞれの透明シートを、「レイヤー」と呼んでいる。

 レイヤーをどれくらい使うかは、描く人の好みの問題である。特に必要ないと思えば、1枚のレイヤーに全てを描いて済ますことも出来る。この場合は、普通に筆と絵具で絵を描くのと同じことになる。しかし、絵のパーツを何枚かのレイヤーに分けて描いておくと、色々便利なことがある。例えば、1枚の風景画を、空、遠景の山、中景の森、近景の草原といった具合にレイヤーに分けて描いたとしよう。こうしておくと、後になってから、中景の森だけを簡単に描き直すことが出来る。また、遠景の山の色合いだけを瞬時に変更出来る。これは、筆と絵具で描く普通の絵画では中々面倒な作業であり、パソコン絵画で最初にこれを試したときには、正直言って感動した。

 それだけではない。一般の絵画では絶対出来ない、次のような作業も簡単に出来る。

 例えば、背景に風景を描いて、手前に人物を入れるとしよう。この人物の大きさやポーズ、服の色合いなどを、色々変えてどう背景とマッチするのか試してみたいとしよう。通常の絵画なら、幾つもの試作品を事前に描いて比べてみるしかない。しかし、パソコン絵画では、試作品を作らずとも、レイヤーを使えばこうした比較が簡単に出来る。幾つものレイヤーに異なった人物を描き込み、それぞれのレイヤーの表示・非表示を順番に切り替えて比べれば良いのである。更に、パソコン絵画は幾らでもコピーが作れるので、異なった2つのバージョンを並べて表示し、比較することも出来る。

 もう1つ驚くべき制作方法としては、別の絵に描いたあるパーツを新しい絵に持って来て、使い回すことが出来る。以前に描いた絵の特定のレイヤーだけをコピーして、新しい絵に新規のレイヤーとして貼り付ければいいからである。もし、コピーしてきたそのレイヤーの色合いが、新しい絵にうまく合わないのなら、そのレイヤーの色だけ独立して変更出来る。大きさだって、自由に変えられる。こんなことは、筆と絵具で描く普通の絵では絶対に出来ない。

 私はパソコン絵画を始めてから、こういう特殊な制作手法を使って、随分絵の勉強をさせてもらった。どういう色合いがうまくマッチするかを幾つもの作例で学び、パーツ配置を様々に試してみて構図取りの微妙な加減を知った。何より、失敗を恐れず実験的な制作が出来るようになった。

 ただ他方で、失ったものもある。筆と絵具で描いていた頃の真剣勝負の緊張感である。普通の絵画では、描き直しは中々難しい。出来ないわけではないが、跡が汚く残るケースもある。微妙な色の組み合わせを盛り込んだ作品だと、その痕跡は致命傷になりかねない。だから、色を塗るときには、決定的な色を間違いなく配置していく必要がある。その最初の一筆を降ろすときの緊張感は中々のものであり、であるがゆえに、慎重に色を選び、迷った挙げ句に塗っていた。しかし、そのときの緊張感はある意味で心地よいものであり、一筆入れてみて、期待した通りだと分かったときの高揚感は、描いた当人にしか味わえない快感である。

 パソコンで絵を描くようになってから、私は久しくこの緊張感というか快感を忘れている。そんなものなしに気軽に描ける方がいいという見方もあるし、絵の入門者にとっては参入障壁が低くなるというメリットもある。しかし、今となってみれば、あの最初の一筆を降ろすときの感触が、妙に懐かしいのである。




11月27日(木) 「イヌの日」

 コンラート・ローレンツという動物行動学者の名を初めて知ったのは、大学の教養過程だった。それまで、生物の本か何かで読み、動物は生まれて初めて見たものを親と思い込むという「すりこみ」理論のことは知っていたが、それを発見した学者の名前までは知らなかった。

しかし、大学の教養課程でローレンツ博士の名前を聞いたのは、生物の授業ではなく文化人類学の授業だった。前後の脈絡は忘れたが、「この本は面白いから読んでみて下さい」と先生が勧めていたのが「人イヌにあう」という、イヌの行動原理を書いた本だった。そのときは読まなかったのだが、その後選択制のドイツ語の授業の中に、この本の原書を購読するという講座があるのを発見し、何かの縁だと思い登録した。授業の準備がてら、漸く本を買って来て読んだ。勿論、日本語で…。

文化人類学の先生が自信を持って薦めただけのことはあって、本の内容は面白かった。ノーベル賞を受賞した高名な学者の著作のわりには、一般人向けに分かりやすく書かれていて、イヌとの日々の関わりや事件の中から、イヌが何故そうした行動を取るのかを説き起こし、合わせて、人にとってイヌとは何なのかを解説している。私はイヌを飼ったことがないので、感情移入の度合いは少なかったかもしれないが、それでも感銘を受けた個所は多かった。更に興味をそそられたのが、各ページに描かれているイヌのイラストである。特徴が巧みに捉えられていて中々よく描けているのだが、このうちの幾つかは、ローレンツ博士自身の手になるものと知って驚いた。動物行動学者というのは、動物のしぐさを的確に捉える才能を持っているのだと、感心した覚えがある。

さて、その「人イヌにあう」だが、中に「イヌの日」という一篇がある。そこには、愛犬と過ごすローレンツ博士のある一日が描かれている。愛犬と野原に出掛け、川を一緒に泳ぎ、砂地にねそべる。別に大きな事件が起こるわけではない。ほのぼのとした平凡な一日が淡々と記されているだけである。しかし、私はこの話が妙に好きで、何度も読み返した覚えがある。本の中には、感銘を受ける個所が他にも沢山あるのだが、このさりげない一日を記した一篇が、どうしてこうも私の心を捉えるのか、最初に読んだときには分からなかった。

しかし、社会人になって読み返してから、「イヌの日」の魅力がちょっと分かった気がした。あの淡々とした一日を記した掌編は、一言で言えば、平凡な日常の中にある静かな「くつろぎ」を記してあるのである。それは、天気のよい日に公園のベンチに座って過ごすひとときのようなものであり、あるいは、休日の朝、のんびりと飲むコーヒーのようなものである。わくわくするようなことも、エキサイティングな出来事も、何もない。しかしそれでいて、冬の日だまりのように、ゆっくりと我々を暖めてくれる心地よさがある。

実は、私が描いている絵も、本質は同じことではないかと思う。見る人に強烈なインパクトを与えるわけではないし、感情を昂ぶらせる何かがあるわけでもない。静かで平凡な風景がそこにあるだけである。ただ、私は、自分自身が描いた絵の中に暫したたずんでみたいと思うことがある。現実逃避というわけではないが、そこでひととき、心の休憩が出来るような気がするのである。

世の中には、様々なタイプの絵がある。そのどれが一番優れているかについては、絶対的な基準があるわけではない。同じ絵でも見る人によって感想は違って来る。私の絵を気に入ってくれる人もいれば、つまらないと思う人もいるだろう。世の中、十人十色である以上、それはごく当たり前のことである。結局絵を描く側としては、誰にどう気に入られるかではなく、自分自身が一番好きなだと思える絵を描くしかない。私は、私なりの「くつろぎ」を風景に託し、絵にしている。強烈なインパクトも、エネルギッシュな躍動もないが、私にとっては、それで十分だと思えるのである。




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