パソコン絵画徒然草

== 11月に徒然なるまま考えたこと ==





11月 3日(水) 「開設3周年によせて」

 ふと気付くと、この「休日画廊」も開設以来3年が経った。何やら、あっという間だった気がする。この3年、ほぼ毎週のように展示作品を更新し続けた。私自身が言うのも変だが、よく続いたものだと思う。続いたといえば、この「パソコン絵画徒然草」もよく続いていると思う。

 「パソコン絵画徒然草」は、パソコンで絵を描きながら思ったことを覚書きのようにつづったもので、趣味を同じくする人が作品を制作するうえで、何がしかのヒントにでもなればと考えて始めたのだが、当初の思惑からは次第に外れ、絵画全般、あるいはそこから更に脱線して文化論的な話まで、幅広くつづる結果になった。どうせアマチュアが書く気軽なエッセイだからと、あまり自己制約せずにやっているのだが、かといって絵画とは全く無縁なことまでは題材にせず、一応、あるかなきかの細い境界線は守っているつもりである。

 文章にするというのは、思い付きや考え方を整理していく作業である。自分の主張を論理立てて文章にすることが出来て初めて、筋の通った議論になる。仮にきちんと文章に出来ないのなら、その考えは、未だモヤモヤした思い付きに過ぎないのである。そして、文章に書きながら、自分の思いも肉付けされて深まっていく。ときとして、書き進めていくうちに矛盾に気付き、自分の論理の誤りを発見する。そうなると、文章としてはものにはならないが、自分の考え方の問題点を発見できたのだから、決して無意味な作業ではないはずである。要するに、書くことは思考能力を維持し、あるいは高めていくことになる。

 これは絵の世界でも同じである。自分のモヤモヤしたイメージを絵にしてみて、初めて分かることがある。季節や時間を設定し、画面構成を考えていくうちに、自分が抱いているおぼろげなイメージの本質があらわになって来る。自分は何が描きたかったのか。こだわっているのは、その中の何なのか。何故そんなふうに描いたのでは気に入らないのか。そんな自問自答の中から、自分の心の中にある真のイメージが明確な形を持ち、主題の核心に触れることが出来る。それがうまく出来ないのなら、未だ期が熟していないのである。

 また同時に、心の中のイメージを絵にしていく過程で、自分の絵画技術のどこが足りないのか次第に分かって来る。別に、絵というのは全般にわたってうまい必要はない。自分が描きたいと思うものを正確に描写出来ればいいわけで、そもそもあまり描くつもりのない分野まで腕を研く必要はないのである。例えば私の場合、もっぱら風景画を描くから、風景画を描く技術を高めれば事足りる。めったに描くことのない人物画の技量など考慮に入れる必要はない。私が人物画を描けば、風景画を描くよりはるかにヘタな描写しか出来ないだろうが、だからといって、人物画の技量を高めなくてはと焦ったりはしない。そういう意味で私は、教本の実技指導にあるような、与えられた課題を好き嫌いにかかわりなく唯々諾々とこなして腕を磨いていくというやり方は、一切取らずに今日まで来た。自分が描きたいものを描きながら、未熟な部分、足らざる部分について技術を磨いていくという方法を貫いて来た。この「休日画廊」に掲げた作品は、そうした一歩々々の積み重ねの上に成り立っているのである。

 何度も言うようだが、絵はまず描いてみることである。自信がなくてもヘタでもいい。好きなら、まずは描きたいものを自分なりに描いてみることである。この3年間、手探りでパソコン絵画を描き続け、つくづくそう思う。全てはそこから始まり、あるいはそこに結実していく。

 ある意味、それがこの3年間の収穫かもしれない。




11月10日(水) 「秋山図」

 絵というのは不思議なもので、同じ作品でも、2度、3度と見ると印象が違って来ることがある。最初に見たときには深く感動したのに、2回目に見るとそうでもなかったとか、逆に、最初見たときにはあまり心に残らなかったのに、暫くぶりに見てみると深く感じ入ったとか…。勿論、人間だからその時々の気分や体調の違いが絵に対する感じ方に影響を与えることは否定しないが、そればかりが原因ではないような気もする。

 私がふと思い出すのは、高校生の頃に読んだ芥川龍之介の「秋山図(しゅうざんず)」である。昔の中国で、裕福な絵の収集家達が出会った幻の名作にまつわる話で、短編ながら何とも不思議な余韻の残る佳作である。

 この話に出て来るのは、絵に造詣の深い、地位も富もある人々で、お互いに会っては画談にふける仲である。そのうちの一人「煙客」が、中国南部のある町に出掛ける際、その地には並ぶものがないほどの名作を秘蔵している者がいるという話を聞く。そして、その絵を見られるよう、知り合いが紹介状を書いてくれる。期待して訪ねてみると、構えは立派ながら、やや荒廃した雰囲気の漂う家だった。いぶかりながら主人に取り次いでもらうと、主人は快く噂の名作を見せてくれた。それは神がかった雰囲気を持った素晴らしい傑作で、あらゆる名作を見尽くしたと自負していた絵画収集家の「煙客」も立ち尽くすほどの出来だった。「煙客」はどうしてもその絵が欲しくなり、色々人を介して頼むが、ついに譲ってもらえず、諦めて帰路につく。その後50年を経て、仲間の一人がその名作を手に入れる。「煙客」は喜び勇んで駆けつけるが、どう見ても同じ絵なのに、あのときに見た、神がかった雰囲気は失せ、別物のようだった、という話である。

 この話には、それ以上の解説はついていない。芥川龍之介が、この作品の意味するところを読者にどう汲んでもらおうと考えたのかも、私には分からない。勿論、幾つも解釈は成り立つ。最初に見たときには、そんな名作を秘蔵しているようには見えない家だったから、あまり期待もせずに見たので感動が大きかった一方、その後長く心に留めているうちに絵が現実以上に美化され、50年後に見た時点では実物と心に残る作品とで大きなギャップが出来ていたというのが、最も単純な解釈であろう。ただ、そんな単純なことを言わんがために、この作品が書かれたとも思えない。その謎めいたところが、この作品の魅力なのだろう。

 ただ、「秋山図」ほどではないにせよ、同じ作品なのに、違った機会に見たところ、以前見たのと変わって見えたという経験は、多くの方がお持ちなのではないか。冒頭に述べたように、その日の自分の体調や気分、周りの雰囲気、誰と一緒に見たか、といった諸々の要素が、作品に対する感じ方に影響を与える。しかしそれだけではなく、様々な作品の鑑賞を重ねるうちに、鑑賞する力というか、眼力というか、そういう類の能力が高まっていくという要素もあろう。昔見たときには素晴らしいと感じたのに、今ではあまり感動しないとすれば、それは目が肥えて来たということかもしれないし、最初に見たときにはさして気にも留めなかった作品が、今になって輝いて見えるのは、鑑識眼が高まったということかもしれない。勿論、年を経るに従い好みが変わることがあり、若い頃はエネルギッシュな絵が好きだったのが、次第に枯れた味の作品に惹かれるようになったということもある。だから一概に鑑識眼のせいとは言い切れないが、作品を見る目が成長し続けるのは間違いないと思う。

 私は昔、自分の好きな画家の作品だけを深く鑑賞する傾向にあったが、いつの頃からか様々なジャンルの作品を幅広く見るようになった。初見で心に残らなかった作品でも、年を経て改めて見てみると、その魅力が分かるかもしれないと思うようになったからだ。お蔭で美術館の常設展示も、出来るだけ隅から隅へと万遍なく見るよう心掛けている。そんなふうにして、心惹かれる作品が何一つ見つけられなかったとしても、時間の無駄だったとは思わない。逆に、魅力的な作品を一つでも見つけられれば、それまでの渉猟の日々は報われたことになる。

 作品鑑賞というのはかくのごとく宝探しのようなものであり、その宝の価値は、人により、時により、あるいは場所により、変わっていくのである。そう言えば「秋山図」で、最初の絵の持ち主が、作品に感じ入る「煙客」に、こう言っていた。

 「実はあの画を眺めるたびに、私は何だか眼を明いたまま、夢でも見ているような気がするのです。なるほど秋山は美しい。しかしその美しさは、私だけに見える美しさではないか? 私以外の人間には、平凡な画図に過ぎないのではないか?――なぜかそういう疑いが、始終私を悩ませるのです。これは私の気の迷いか、あるいはあの画が世の中にあるには、あまり美し過ぎるからか、どちらが原因だかわかりません。が、とにかく妙な気がしますから、ついあなたのご賞讃にも、念を押すようなことになったのです」

 芸術の秋である。いつの日か、若き「煙客」が見た「秋山図」のような、素晴らしい作品に出会いたいものである。




11月16日(火) 「高い理想と困難な課題」

 高い理想と困難な課題が、よい絵を作り出す原動力になっていると、私は常々思っている。それは時に、絵を描く者を打ちのめし、自信喪失にさせるのだが、それにくじけず、自分の理想を追求し続ける者だけが、見る人を惹きつける素晴らしい作品を作るのである。

 これは絵に限らず、他の趣味でも仕事でも同じではないか。優れた仕事をする能力は、ビジネス書を読んだり、先輩の苦労話を聞いたりして育つのではない。困難な課題に直面し、それを自分で克服する過程で育っていくのである。素質や才能の多寡はあるとしても、生まれつき仕事が出来る人間はいない。自分が就いたポストや与えられた課題が、能力を作っていく。よく「苦労は買ってでもしろ」というが、それは価値ある苦労をしろということであって、しんどければどんな苦労でもいいというわけではない。価値ある苦労というのは、理想に向けて歩む力を得られる苦労である。

 そんなことを書くと、「お前は常々、絵は楽しみながら描けと主張していたのではないか」という文句が聞こえて来そうだから、もう少し筋道立てて説明した方がいいかもしれない。私が高い理想を持ち困難な課題を克服すべしというのは、絵画制作の階段をもう一段登るために必要だからである。

 長らく絵を描いていると、途中で欲が出る。最初は楽しみで描いていた絵でも、もう少し高度な絵を描いてみたいとか、もっと難しい課題に挑戦してみたいとか、夢を見るようになる。しかし、楽しんで描いていただけでは、その夢は叶わない。誰もがそこで壁にぶつかるのである。そんなとき人は、絵は楽しいだけのものではないことに気付く。で、どうするかである。

 趣味で描いている以上、そんなところで苦しまず、高望みは諦めるというのも1つの手である。仕事ではないのだから、変な苦労を背負うことはない。そんなところでつまづいて、せっかくの趣味が楽しくなくなってしまっては、元も子もない。今まで通り、高望みせず自分のレベルに合わせて、自分らしい絵を描いていく。その出来に不満があっても、楽しみで描いていることゆえ、その程度のことは我慢する。それもいいだろう。

 しかし、仮に自分なりの理想として、そういう高いレベルの作品を夢見たのなら、趣味とはいえ、そこに近づくために苦労してみるのも価値あることではないか。困難な課題を自分に課して苦しんでみると、趣味の世界であっても、得るものは多々ある。そして、もし何がしかの解決策を発見して課題を克服出来れば、もう一段高みに登った自分に気付くはずである。

 所詮、趣味の世界のことではある。レベル・アップしたところで、それで出世したり、収入が増えたりするわけではない。「何のためにそんな苦労をするのか」と自問してみても、「理想のため」という答しか返って来ない。言い換えれば、自己満足に過ぎないし、自分が一歩前進したことに気付いてくれる人はいないかもしれない。要するに、得をすることは何もない。しかし、それだからこそ、この種の努力は尊い気がする。

 人は生きていくために、様々な苦労を背負っていく。その中に一つくらい、自分の理想のためだけの苦労があってもよいのではないか。そう思いつつ、今日も私は呻吟するのである。


「誰も称賛してくれる者がいなくても、自分のことは自身で称えよ」(リチャード・フランシス・バートン(探検家))




11月24日(水) 「霧の森」

 私の心の中には、いつの頃からか、霧に包まれた森と湖の風景がある。それはずっと昔からあるものであり、子供時代、既にその風景を心の中で反芻していた。

 うっそうとした森が湖のほとりまで迫り、何故か空は見えない。おそらく背後が緩やかな斜面か何かになっていて、視界を森が覆っているのだろう。あるいは、湖のほとりから、そのまま山になっているのかもしれない。朝早い時間帯なのだと思うが、日の光は射しておらず、薄明かりの中、薄い霧が辺り一面を覆っている。鳥の鳴き声も、森をわたる風の音も聞こえず、ただ静寂が辺りを包んでいる。

 私には、それが現実の風景なのか、空想の世界なのか、判断がつかない。仮に空想の風景であるとすれば、何をきっかけにそんな風景が心に棲みついたのか、まるで心当たりがない。「忘れ得ぬ風景」のようなものを語っている手記やエッセイを何度か読んだことがあるが、私の場合には「忘れ得ぬ」ではなく「思い出せぬ風景」ということになる。

 身近なところで思い起こしてみると、私の生まれ育った故郷の町は、確かに霧の多いところだった。町外れに大きな川が流れており、そこから霧が湧く。霧は川の周辺の野山を覆い、時として昼前まで霧の晴れないこともあった。子供時代に何度も、霧のかかった空に鈍く輝く太陽を見た覚えがある。しかし、そうした川沿いの風景の中に、私の心にあるような森はない。それにそもそも、私のイメージにあるのは、川ではなく湖なのである。

 中学時代だったか高校時代だったか、とにかく絵を描く技術をある程度身に付けた頃に、この心の中の風景を描いてみようとしたことがあった。しかし、実際に鉛筆を持って紙に向かうと、森と湖の風景はするりと私の手を抜け出して、捉えどころのない曖昧なものになる。そのくせ、何かの待ち時間の折りとか、所在なくぼんやりしているときには、ふつふつと心の底から、明確なイメージとなって浮かび上がって来るのである。

 私は今でも湖などに行くと、無意識にこの心の中の風景と似た景色がないか探している。しかし、ここだと思い当たる場所には未だ出くわしたことがない。また、そのイメージを絵にしようと何度か試みたが、どうもこれだという作品をものにしたことがない。仕方がないので、同じようなモチーフで繰り返し描いている。あるいは、このまま将来ずっと描き続けるのかもしれない。

 最近では、この森と湖の正体は、この先もずっと分からないのではないかという諦めが、少しずつ大きくなりつつある。それでもよいのかもしれないが、せめてその明確なイメージを絵に残してみたいという気持ちだけは、未だに衰えていない。絵を描く人それぞれに、生涯を通じたモチーフというものがあるなら、私の場合はこれかもしれない。




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