パソコン絵画徒然草
== 11月に徒然なるまま考えたこと ==
11月 3日(木) 「思えば遠くに来たもんだ」 |
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この「休日画廊」は、今日で開設以来4年が経ったことになる。よくここまで続いたものだと感慨しきりである。私が最初にパソコンで油絵や日本画のような絵を描いてみようと考えたときには、思いつきの域を出ておらず、著名な制作例も聞いたことがなかった。恐る々々手探りで始めたというのが率直なところであり、自分自身の制作方法も確立していなかったため、本当にものになるかどうかも定かではなかった。であるがゆえに、当時ホームページを開くことなど夢想だにしていなかった。 私が描画ソフトとタブレットを買って帰ったときは、それで一体何が出来るのかと家族にいぶかられたものである。当時、ソフトが1万数千円だったろうか。タブレットは初代のインテュオスだが3万円弱した。合わせて4万円強の買い物で、趣味としては少なからざる額である。 「まぁ見ていろ」と家族に言い放ち、いざ描き始めてみると、これが思うようにいかない。原因は、目はパソコンの画面を追いながら手はタブレットの上を走らせるという、今まで経験したことのない違和感で、まるで左手で字を書くようなもどかしさである。油絵、日本画など様々な絵を描き続けて来た私だが、思うように線が引けない、色も塗れないという無残な有様で、とてもまともな絵が描ける状態ではなかった。思惑が外れてさて困ったと、最初は途方に暮れたことを思い出す。 そんな中、最初にまともな絵として描いたのは、実は風景画ではなくウルトラマンである(笑)。当時小学校低学年だった息子がウルトラマンのファンで、これなら描けそうだと息子を横に置いて、途中経過を見せながら描いた。パソコンの画面でウルトラマンが具体的な姿を取っていくのを、息子は興味津々で見ていた。そのときに描いたウルトラマンは今でも私のパソコンに保存してあるが、著作権の都合で残念ながら「休日画廊」には掲示出来ない。 その後も、線を引き面を塗る練習を何度もしているうちに、次第にこの不思議な感覚にも慣れ、ソフトの機能も分かって来た。その頃から少しずつ風景画を描き始めたのだが、今の水準から見ればかなり稚拙である。当時はハードディスクの容量がそうなかったので、(何と6GB!)多くの作品は削除してしまい、残っているものも小さく圧縮したファイルしかない。今になってみると、もっときちんとした原画の形で保存しておけばよかったと悔やまれる。 ちょうどその頃、もう1つ新しい試みを行った。絵本を作ったのである。これは我が家の子供達向けに作ったもので、勿論ストーリーも自分で練った。絵は、絵画調ではなくイラスト調で、明確な線とはっきりした色使いで描いた。この頃になると、かなり自由に線を引くことが出来るようになっていた。それをワードに取り込み文章を付けた。これは後に、小学校の父兄の文化祭にまで出品され、他の子供たちにも読んでもらうことになった。面白い試みだったが、その後は風景画の方に転向してしまい、第2弾の絵本は今もって出ていない。 この「休日画廊」で展示している初期の作品は全て、それよりも後に描いたものである。ただ、風景画を本格的に描き始めた初期の頃は、今に比べれば制作手順がかなり不安定で、試行錯誤の連続だった。勿論ホームページを立ち上げようなどとは、思ってもみなかった。全ては私的な趣味という割切りだったのである。 転機になったのは、あるサイトに作品の投稿ページがあり、色々な方の意見を聞いてみたくて、当時描いていた作品を投稿したことだろうか。CGといえばアニメやイラスト全盛の中、私のような作品は毛色が変わっていて、ちょっと人目を引いたのかもしれない。好意的なコメントを幾つか頂いて、何となく自分がやって来たことが独りよがりの産物ではなく、それなりに人々の共感を得られるものであるということが分かって来た。いつまでも投稿ページのお世話にならず、自分のサイトを開いてみようと思ったのは、その頃である。そして、「休日画廊」に掲載されている初期の作品の多くは、当時投稿していた作品をそのまま展示したものである。 こうして振り返ってみると、最初にパソコンで描き始めてから、実に様々な変遷を経て来た。「休日画廊」に至るまでは、優に1年以上の助走期間があったことになる。思えば遠くに来たもんだというのが、偽らざる心情である。繰り返し言うが、私は最初から現在の水準の絵をパソコンで描けたわけではない。たび重なる試行錯誤と長い寄り道を経て、何とかものになったというのが本当のところである。「休日画廊」開設に至るまでの道のりは、訪問者の方には見えないのだが、誰かが敷いてくれた道を迷わず着々と来たわけでは決してない。 それに比べれば、今からパソコンで絵を描き始めようとする人は恵まれていることになる。巷にある程度の情報はあるし、関連の書籍も増えている。それにもかかわらず、思ったように描けず悩んでいる人もいるのだろうが、そんな時期は多かれ少なかれ誰にもある。焦らず暫し立ち止まり、鷹揚に構えるくらいの気持ちが必要ではないか。やり続けている限り、道は必ず開ける。それが分かったことが、「休日画廊」4年間の1つの収穫と言えば収穫だろう。 |
11月15日(火) 「途切れがちの徒然草」 |
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どうも最近忙しさが増していっているものだから、この徒然草も途切れがちである。趣味の世界のことゆえ、それも致し方ない。もう少しの辛抱だと思いつつ、長い文章を書いている余裕はないので、最近ポツポツと書き溜めたものを、オムニバス形式で幾つか・・・。 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+ 時々、仕事の依頼やらイラストレーターとしての登録やら、メールでお誘いを頂く。私は純粋の趣味としてパソコンで絵を描いているので、全てお断りしているのだが、インターネットが普及してから、プロとアマチュアの垣根が一気に低くなった気がする。これではプロの皆さん、相当の緊張感を持って仕事しないと、腕のいいアマチュアに市場を侵食されるおそれがあるのではないか。バブル崩壊後、何でも市場原理が幅を利かすようになったが、ついに美術の世界もプロ・アマ入り乱れての競争時代ということか。美術で価格競争というのは如何なものかと思うが、プロの世界ならばそれも致し方ないのかもしれない。しかし、くれぐれも「良貨が悪貨を駆逐する」がごとき事態にはならないよう、節度をもって競争して欲しいものである。 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+ 最近、水墨画が懐かしく心に響くことが多い。墨の世界は白黒なのだが、描かれた風景は無限の色の諧調を持っている。鉛筆画も白黒なのだが、墨ほど雄弁ではない。パソコン絵画を描き続けて、色を見すぎたのだろうか。釣りはヘラブナ釣りに始まりヘラブナ釣りに終わると聞く。絵も同じかもしれない。 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+ 通勤途上の木々の葉が色づいて来て、紅葉の季節になったことを伝えてくれる。ここ数年、晩秋は仕事が忙しくて思うように紅葉見物はできないのだが、紅葉というのは何度見ても美しい。人間が作った流行は、如何にヒットしたものでもいずれ飽きられるが、紅葉は、毎年同じ木を見ていても飽きが来ない。あれは何故だろうか。人間は決して自然にかなわないということなのか。かくして毎年この季節になると、自然の偉大さを思い知るのである。 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+ 今やすっかり絵具と筆の世界から遠ざかり、パソコンで絵を描く世界にひたっているが、実は今でもネット上の画材店のメルマガを購読している。今の私にとって無用の長物と言えなくもないが、妙に懐かしい気持ちになって読んでしまう。あぁこれはお買い得だなとか、こんな新製品が出たのかとか…。絵描きにとって画材店は、夢の一杯詰まった場所である。 私は絵具のコーナーに並んだ色とりどりのチューブを見るのが好きである。筆のコーナーで実際筆を手に取ってみるのも好きである。画材店の狭い通路で画材に囲まれていると、今でも様々な思いが湧き上がってくる。きっといくつになっても、画材店に行けば同じ気持ちになるのだろう。 +-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+ 次回いつ徒然草が書けるのか知らないが、日々思うことは心に溜まっていく。また余裕のあるときにでも文字にしたい。 |
11月23日(水) 「バランスとアンバランス」 |
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長らく絵を描いていると、時として法則性を無視したくなることがある。色使いや構図の面で、従来使って来た安定的な手法から外れて、いくばくかの不安定さを取り入れたくなるのである。 昔から、画面を設定するうえで安定した構図の型というものがある。中学や高校の美術の教科書にも書かれていたと思うが、画面に配置されたアイテムを結ぶと大きく三角形が描けるような構図にすれば、画面に安定感が出るといった類の法則である。この「三角形構図」は、静物画を描かれる方にはお馴染みだろう。他にも、画面を2つに分けた構図を作るときの「黄金比」といったものもあり、どこに地平線や水平線を引くかを決めるときに、頭の片隅をこの単語が横切ったりする。 これらは、古代から視覚芸術に従事して来た人々が編み出した知恵であり、幾多の先人が好んで用いてきた教科書的鉄則である。この構図の取り方は、歴史上の名画、彫刻、建築物の類に、いくらでも好例を見出すことができ、そうした観点から名画を分析した解説書もあまたある。 私は日頃構図を組むとき、意識せずとも自然にこれらの法則に沿った構図を選んでいる。それは、長く絵を描いて来た過程で染み付いた癖であり、考えずとも自然に手がそう動く。ただ時々、そうした安定的な構図に嫌気が差すことがあり、ふと構図を崩したくなるのである。それが私特有のことなのか、誰しも長く絵を描いているとそうした思いにかられることがあるのか、よくは分からない。いずれにせよ、普遍的な鉄則を外れるのだから、保証なしの世界へ一人で足を踏み出すことになる。 しかし、鉄則の枠外に飛び出すことは、直ちに失敗を意味しない。勿論大きくルールを踏み外すと、画面は乱れて構図はメチャクチャになるが、鉄則の外周部には、バランスとアンバランスとの重なり合ったところがあり、その領域に存在する構図の取り方は、アンバランスのようでいてどこか調和した、不思議な雰囲気をかもし出す。私が狙うのはその辺りである。 例えば、平原に小屋と木を配置した構図で絵を描くとしよう。三角形構図に従うとすれば、画面の右手前に木の幹を描き、左寄りの中段辺りに中景として小屋を描き、更に視点移動を意識して、画面の右寄りの遠景に何本かの木を描く。この三つが安定した三角形を描くように配置すると、鑑賞者の視点は幹から小屋、更に木々へと移動し、全体としてうまくバランスのとれた画面が完成する。 しかしここで、画面左寄りの小屋をわざと描かないとしよう。どうなるだろうか。まず、画面左が大きく空く。見る人の視線は、この空間で宙に浮く。更に画面右が、手前の木の幹と遠景の木々のお蔭で重くなる。おそらくこのままだと構図上のバランスは崩れ、失敗作と成り果てる可能性が高い。そこでどうするかである。 例えば、手前の木の幹を微妙に左へ移動させる。そして、遠景の木々を、もう少し左に寄せる。問題はこの寄せ方の加減であり、それ如何で、画面はバランスとアンバランスの中間みたいな雰囲気になる。こういう構図は、必ずしも成功するとは限らないが、仮にうまくいった場合、そこで得られる不思議な安定感は、我々が日頃見慣れた、鉄則通りの絵より魅力的に映ることがある。まさにその微妙な雰囲気を得るために、私は構図崩しを試みていると言っても過言ではない。 私はあまりファッションの世界には詳しくないのだが、着こなしの技の中に「着崩す」というジャンルがある。鉄則通り、型通りに着れば充分美しく感じられるファッションを、わざと崩して着る。そうすると、普通では出せない不思議な美がかもし出される。ただ、崩し過ぎるとだらしなくなる。加減が大切なのである。 絵の世界でもそうだが、この崩す技というのは中々難しい。かくいう私もたびたび失敗する。そのときには、安定した構図にしておけば良かったと後悔するのだが、暫くすると、また冒険心がむくむくと頭をもたげる。チャレンジング精神を失わないと言えば聞こえはいいが、単に懲りない性格だけなのかもしれない。 ただ、一つ言えることは、崩し方を学ぶためには、原則通りに描くことをマスターできていなければならない。バランスしているものを崩していってある種の不思議な調和を見つけるのであって、アンバランスなものを整えていって、その領域に達するのではない。型が分かったうえで崩す。これなくしては、アンバランスな世界が広がるだけである。 |
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