パソコン絵画徒然草
== 12月に徒然なるまま考えたこと ==
12月 1日(水) 「作品解説」 |
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絵を描いた本人が自作について語るというのは、中々難しいものである。作者としては、うまく言葉で語れない感動があるからこそ絵に託している面があるわけで、絵の背後にある全てのものを、正確に語り尽くせるものではない。そして、絵の背景にある心の動きは時として微妙なものであり、本人にすら明確に意識されていないことがある。そうした曖昧な心の動きを正確に説明してみせるのは、たやすい仕事ではあるまい。 どんな絵にもそれを描いた動機はある。たとえ暇に任せて手慰みで描いた落書きにすら、描いた本人の心の奥深くに、その対象を選んだ理由が潜んでいるのである。そんなとき作者は「ただの暇つぶしに描いたもので、意味はありません」とか何とか言うのだろうが、実は意識に上って来ない奥深い理由が、作品の背後に潜んでいるのだと思う。要は、本人が意識していないだけのことである。 心理学の実験や精神医学の治療法で、被験者や患者に好きな絵を自由に描かせて、そこから表面に現れて来ない深層心理を探るというのがある。そうした方式の有効性が学術的に認められていること自体、無意識に描いた絵にも何がしかの心の動きが反映しているという1つの証左であろう。時間を持て余しているときに、手元のメモ用紙に幾何学模様のような落書きをする人をよく見掛けるが、一見絵には見えないこの種の落書きにも、何がしかの深層心理が影響しているのかもしれない。 しかし、作者自身がうまく言葉で表現し切れない感動や心の動きを、絵を見た第三者が作品から正確に汲み取ることが出来るものだろうか。心理学者や精神科医は現にそれをやっているのだから、まるっきり無理だと言うつもりもないが、私は、この問に対する自信ある答を持っていない。 仮に美しい風景を見たとしよう。その美しさをどう表現していいのか適切な言葉が見つからないとしても、絵に描いて他の人に見せることで、ある程度、感動を共有することは出来る。まさに「百聞は一見に如かず」の類である。ただ、その絵を見た人が「私も感動しました」と言ってくれたところで、絵を描いた人が感じた通りの感動を、絵を見た人も感じてくれたかどうかは分からない。絵を見た人は、また別の意味で、絵に描かれた風景の美しさに心動かされたのかもしれないからだ。そして、絵を描いた人と見た人とがお互い心に抱いた感動の中身が、果たして同じものだったかどうかは、結局のところ検証のしようがない。同じ感動を共有してくれたに違いないと、作者が自己満足するのがせいぜいであろう。 そんな曖昧な状況を考えると、絵によって作者の思いを正確に伝えるというのは、何と難しいことかと思う。と同時に、世の中に蔓延する、美術評論家の手による作品解説なるものが、一体どこまで作者の意図を正確に説明しているのやら、疑わしく感じられてしまうのである。勿論、実際に絵の制作者に会って話を聞いたとか、作者の手によって書かれた作品の背景説明の類を読んだということなら、話は分かる。しかし、既に故人となっている画家で、その類の文章を残していないとすれば、一体何を手掛かりに作者の意図を正確に探ったと言えるのであろうか。 私は常々、美術評論を参考にはさせてもらっているが、必ずしも金科玉条のようにありがたがってはいない。それが、一流の美術評論家の手になるものであったとしてもである。それは美術評論家をバカにしているということではなく、一流の評論家をもってしても、芸術の世界というのは解明しにくい微妙な問題をふんだんに含んでいると思うからである。 |
12月16日(木) 「サンタクロース」 |
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11月下旬から12月中旬にかけて猛烈に忙しい日が続き、土日も昼夜もなく働き続けたのだが、山場を越えてふと気付くと、世間はすっかりクリスマス・モードに変わっていた。繁華街やホテルではクリスマスの飾りが施され、街角ではクリスマス・ケーキの予約を促すチラシが配られている。そのうちサンタクロースの扮装をした店員が、ケーキの販売やバーゲンへの呼び込みに躍起になる日が来ることだろう。 クリスマスは、欧米では宗教行事だが、日本ではケーキを食べてプレゼントをもらう子供の行事である。欧米におけるクリスマスの主人公はイエス・キリストだが、日本では間違いなくサンタクロースであろう。あの姿を見ると、子供のみならず大人も幸せな気分になれる。 サンタクロースのイメージは、誰しも子供の頃から深く脳裏に焼き付いているはずだから、あんなものだと頭から決め付けているだろうが、よく考えると不思議な格好である。赤と白を組み合せた外套に赤いズボン、黒い長靴。頭にも、白い飾りの付いた赤い帽子をかぶっている。もともとサンタクロースは、貧しい人々に施しをした聖ニコラウスがモデルになっているが、4世紀頃に現在のトルコで活動していた司教が、こんな格好をしていたはずがない。 以前、知り合いのイギリス人から、現在定着しているクリスマス行事−例えばサンタクロースやクリスマス・ツリーがどういうルーツを持っているのかを解説した雑誌の特集記事のコピーをもらったことがあった。それによれば、元々サンタクロースのイメージには様々なものがあり、服装も背格好も統一されていなかったようである。そして、今のようなキャラクター・イメージが完成したのは20世紀に入ってからで、それを決定づけたのはコカコーラ社が宣伝用に作ったポスターだったと解説されていた。 何と影響力のあったポスターだろうと私は思った。多くの人々に長い間受け継がれていた宗教行事の有名人物のイメージを、この1枚のイラストが決定づけたのである。それ以後、どこの民族衣装とも知れぬこの不思議な格好について、首をかしげる者は誰もいない。更に言えば、聖人と仰がれたニコラウス司教が、こんな丸々と太って白髭をたくわえた陽気な人だったのかという点に疑問を抱く人もいないし、トルコで活動していたのに何故トナカイのそりに乗っているのか不思議がる人もいない。いやそもそも、サンタクロースが実は4世紀頃に実在した司教だったということすら忘れ去られ、北極辺りからトナカイの引くそりに乗ってやって来る、子供達のヒーローになったのである。言い換えれば、このときからサンタクロースは、セント・ニコラウスではなく、まさに我々が思い描く紛れもないサンタクロースになったのである。たった1枚の絵が、ここまで全世界の人々のイメージを決定づけた例はあまりないのではないか。 では、このコカコーラの宣伝用ポスターがなかったら、サンタクロースのイメージはどうなっていたのだろうか。その雑誌の記事では、それ以前のサンタクロースのイメージは統一されておらず、青や緑の服を着ていたり、痩せていたりと様々だったとあったし、中には白雪姫に出て来るような小人と信じられていたという話まで紹介されていた。宣伝用にイメージ・キャラクターを多用する現代の風潮からすれば、コカコーラの宣伝用ポスターがなかったとしても、遅かれ早かれサンタクロースのイメージは誰かによって統一されていたのだろうが、仮に別の姿のサンタクロースが採用されていたら、年末の街角の風景は、一味違ったものになっていたかもしれない。 もしサンタクロースのイメージが緑の服を着た小人になっていたらと思うと、それはそれで楽しい。おそらく小さな子供が競ってサンタクロースに扮するようになっていただろう。いずれにせよ、クリスマスは夢多き行事である。 |
12月22日(水) 「風景の奥深さ」 |
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ある瞬間に見える風景というのがある。目の前の見慣れた風景なのに、あるとき、何かのきっかけから違ったふうに見えて、ハッとするのである。そのきっかけは様々であり、天候や時間、季節といった自然現象から、その日の心の有り様といった精神状態まである。いずれの場合も、予期せぬ風景の変化を垣間見て、「この風景はこんな表情を見せることがあるのか」と驚くことになる。と同時に、風景の奥深さを改めて知るのである。 私は大学時代を京都で過ごした。今から25年近く前の話であり、住み始めた頃には市内に路面電車が走っていた。京都駅も古い建物で、地下鉄もなかった。 下宿は銀閣寺の近くで、山の方向に少し歩くと、有名な「哲学の道」があった。「哲学の道」は、銀閣寺から南禅時までの間、東山のふもとの疎水沿いを通る散歩道で、どちらかというと地元の人の生活道の色合いが濃かった。昔、哲学者の西田幾多郎がここを散歩しながら思索にふけったということで有名になったが、今や桜のきれいな観光地のイメージの方が強い。実際に西田幾多郎が散歩したのは、現在の「哲学の道」ではなく、疎水の対岸だったとも聞くが、観光客にとってはどちらでもよく、あるいは西田幾多郎が何者であろうと構わないのかもしれない。 私は下宿し始めてまもなく、この噂に名高い「哲学の道」を散歩した。観光客が三々五々歩いていて、結構混んでいた。さぞかし素晴らしいところだろうと思って期待していたのだが、沿道に目を見張るものは特にない。確かに落ち着いた風情ではあったが、疎水沿いに平凡な道が続くばかりである。南禅寺にたどり着く前に、途中で飽きて引き返してしまった。季節が悪かったのかと思い、翌年、桜が満開の頃にも出掛けた。今度は更に混んでいた。しかし、私の見るところ、桜は、銀閣寺参道脇の並木になっているところの方が見事だと思った。そんなこんなで、結局4年間の大学時代、「哲学の道」を歩いたのは数度である。勿論、歩いていて哲学的思索にふけることは皆無だった。 私は大学卒業後、めったに京都を訪れていないが、何年か前、子供を連れて家族で年末の京都を観光したことがあった。底冷えのする季節で、旅行シーズンから外れているため、どこも空いている。竜安寺の石庭など、いつまでも縁側に座って見ていられる程ガラ空きだった。銀閣寺にも行き、その後、南禅寺まで「哲学の道」を歩いた。殆ど人のいない「哲学の道」は初めてだった。冬の午後は日暮れが早く、歩いているうちに陽射しは弱くなって行く。静かな散策の途中で地元の老婦人と行き会い、何となく言葉を交わしながら歩いた。おだやかでやさしい、昔ながらの京都弁が耳に心地良かった。南禅寺近くまで行くと、どこかでお寺の鐘が鳴った。老婦人とはそこで別れの挨拶をし、我々は森閑とした散策道を更に先に進んだ。 私はそのとき、全く突然に、「哲学の道」の魅力を実感した。何故、西田幾多郎がこの道を好んだのかも理解出来た気がした。ただ、それをうまく言葉で表すことは出来ない。私を惹き付けたのは、いわば、そのときの空気、雰囲気なのである。凛として澄んだ空気、翳りの見える午後の陽射し、冬枯れの静寂の道、しみじみと響くお寺の鐘の音、老婦人との何気ない会話、そこから浮かんだ学生時代の幾つかの思い出。それらが巧妙にブレンドされた果てに出来た雰囲気は、そのどれか一つが欠けても成立しなかった気がする。いずれにせよ、自分の知っているのではない、全く違った「哲学の道」が見えたのである。 我々は、よく見る風景をあなどりがちだが、実はある一面だけを見ているに過ぎないのかもしれない。私は、何度も見慣れた風景であっても、実は隠された魅力がどこかにあるのかもしれないと思いながら、折々に注意深く眺めることにしている。それでも、風景が真の魅力を垣間見せるのは、まるで予期していない一瞬のことである。それを逃さず見て取り、心に刻むことが出来るかどうかは、風景画を描く力と深いところで強く結びついていると、私は信じている。 |
12月30日(木) 「冬の日に」 |
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仕事の方は漸く一段落したものの、年末になると何かと慌ただしい。世の中が歳末モードになるせいか、街角を流れる空気もどこかそわそわとしている。繁華街のそこここに貼られている歳末大売出しのポスター、バーゲンを告げる店員の声。街を行く人の数も多いように見えるし、皆心なしか早足である。ついその忙しそうなリズムに乗って、こちらの気持ちも慌ただしくなるのだろう。 そんな年末の休日、久し振りに板橋区にある赤塚植物園に出掛けた。ここにはサイクリングを兼ねてたまに立ち寄るのだが、小さいながらも静かで居心地のいい場所である。最後に来たのは11月の中旬だったろうか。その頃は柿が実り、葉も色付き始めていたのだが、今やすっかり冬のたたずまいである。 以前文京区に住んでいた頃は、近くに小石川植物園があったので、散歩がてらよく立ち寄ったが、冬の植物園というのは訪れる人もあまりない静かな空間である。冬場に咲く花がまれであるため、花が目当てで植物園に来る人の足は自然に遠のき、入園者は激減する。かくして園内を歩いているのは私一人ということも多々あった。そんなときには、植物園というのは民間の商業ベースではなかなか成り立たない事業であることを痛感したものである。 赤塚植物園も同じような状況で、ここだけが世間から切り離された別次元のような静けさである。鳥の鳴き声すらなく、ただ聞こえるのは日本庭園風の一角に設けられている鹿追の響きくらいだろうか。さざんかとスイセンが咲いていたが、それを見る人もいない。秋に実っていた柿の木を見上げると、1つ2つ木守りの実が残っているばかりである。植物園に向かう途中に見た商店街の大売り出しの喧騒と、枯れ葉の敷き詰められた園内の静寂感はとても対照的であり、私は見知らぬ世界に迷い込んだような感覚で暫し散策を楽しんだ。 冬が本格化するにつれて、自然界は益々静かになる。木は葉を落とし、虫は姿を消す。活動するものがいなくなった森の中は、澄んだ空気と静かな時が流れるだけである。私はこの静けさがとても好きで、モノトーンの世界になった冬場の公園をよく散歩する。「冬枯れ」という言葉があって、冬のたたずまいは侘びしく淋しいというイメージがあるが、枯れ葉が敷き詰められた枯木立に冬の陽が柔らかく射す光景は魅力的である。私はそうした冬の光景から、過去幾つもの画題を得て来た。 自然はいつも自分達なりの時を刻む。師走になって人間があたふたしようが、ここだけは別世界である。自分達が作ったカレンダーに縛られてせっぱ詰まった人間に教え諭すように、いつも自然はおだやかな表情で迎えてくれる。その泰然とした様子が、年末を慌ただしい気分で過ごす私を惹き付けるのかもしれない。大晦日も正月も、自然界にとっては同じ冬の一日である。人間もかつては、こうした自然のゆったりした流れの一部であったはずなのに、いつからかそのリズムを忘れてしまった。冬の散歩は、そうした諸々のことを私に思い出させてくれるのである。 花が咲いていなくても、冬の公園に来ると教えられることが多い。いや、花がないぶんだけ心奪われず、自然の本質を見ることが出来るのかもしれない。 |
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