パソコン絵画徒然草
== 12月に徒然なるまま考えたこと ==
12月 5日(水) 「本質」 |
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絵は、突き詰めれば作為の塊である。 私が描く絵のうち、花の絵はかなり実物に忠実だが、実際に咲いている通りに描いているかというと、決してそんなことはない。花の位置、数、葉の伸び具合、そのいずれか、または全てを変えて描いている。 自然の造詣は美しいし、そのまま見ていて感嘆することが多いが、そっくりそのままを狭い画面の中に持ち込むことは出来ない。目の前にある美を画面の中に置き換えるときに、どうしてもある種の意図的な変換が必要になる。それは、対象物のエッセンスを抜き出すための加工作業である。 自然は、まさに自然のままそこにあるのが美しいとよく言われるが、それはその通りだと思う。その場に行ってそこにあるがまま鑑賞しないと、本当の美しさは分からない。忠実にそのまま写真に撮ったり絵に描いたりしても、何分の一かしか感動は伝わらないだろう。だから絵にする場合、そのままには描かない。エッセンスを抜き取って画面に再現しようとするのである。 結局、絵に描かれた美は、対象物に触発されて制作者が創作した美に過ぎない。あるがままではなく、加工された美である。 私はそんなふうに割り切って絵を描いているのだが、その演出が時々嫌になることがある。描いていて、作為的だなと思ってみたり、ちょっといじり過ぎかなといぶかってみたり。風景画、静物画と称しつつ、それらはしょせん作り物なのである。 そういう思いを打ち消すには、「創造」という言葉を持ち出してくるしかない。演出も作為も、美の創造だというわけである。言葉って、ある意味便利な道具だと思う。ただよく考えると、ある種のごまかしなのであるが…。 芸術の世界には、様々に高尚な言葉が並んでいる。立派な美術雑誌のページをパラパラめくってみれば分かると思う。そうした修飾句に彩られて作品は否が応でも凡人の手の届かない高貴な世界に押し上げられるのであるが、私は時々この言葉の裏に隠された制作の本質について考えてみる。そこで語られている美の正体とはいったい何であるのか、作者は結局何をしたのか、などなど。そのとき、何度も思い出すセリフがある。高名な工芸家の茶碗を見て、主人公が軽口をたたくシーンで出て来た。 「こんなもん、じいさんがただ土こねて作っただけじゃないか」 そう確かに仰るとおりである。これほど作品の本質を言い当てた言葉を、私は知らない。美術評論家の褒め称えた陶芸作品は、もしかしたら、ただの土くれなのかもしれない。それを分かったうえでなおもその作品を美しいと思うのか、あるいは、そこのところがよく分からずに評論家の言葉を信じて高尚な美術作品だとありがたがるのかでは、雲泥の差があることになる。 人の言葉というのは、時として本質を覆い隠してしまう。高尚な言葉ほどそうである。子供が時として本質的な美意識を発揮できるのは、あるいは言葉をよく知らないからかもしれない。 |
12月11日(火) 「師走に思う」 |
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東京もまだ紅葉を楽しめるところがあるものの、枯れ木が目立つようになり、いよいよ本格的な冬の訪れかと思わせる風情になった。 そして12月。今年も残り2週間少々となった。毎年師走の声を聞くと、今年なし得たこと、あるいはなし得なかったことなど、様々な思いが頭の中を巡ることになる。ただ、サイト運営に関して言えば、年を追うごとに、なし得なかったことの方が多くなっている気がする。 インターネット上には、世界に冠たる有名企業のサイトや一日のアクセス数が驚くほど多い人気サイトから、仕事の合間に細々と運営している私のような零細個人サイトまで、実に様々なサイトが同居しているのだが、恐ろしいことに、1つのURLをふられたサイトということでは、みな平等である。 現実の世界では、トヨタの本社ビルの隣に私の家が建っているなんてことはあり得ないわけだが、インターネットの世界ではそれに近い状態になっている。大企業の本社ビルに行くのと個人の家を訪ねていくのとでは、交通事情や場所の分かりやすさから言うと、圧倒的に前者の方がアクセスが容易なのが現実社会の常識だが、インターネットの世界では、有名企業のサイトだろうが個人のサイトだろうが、URLを打ち込めば同じように瞬時にアクセス出来る。 しかし、サイト運営に割いている労力や資源などのエネルギー量に関して言えば、経営の一環として企業体がやっている場合と、個人が趣味でやっている場合とでは、ケタ違いに差がある。例えば私の場合、日頃仕事をし、休みの日にも色々なことに時間を割きつつ、その合間を探して絵を描き、駄文をしたため、サイトにアップしているわけで、使える時間はごく限られている。従って、あれをやりたい、これも試してみたいなんて思ってみても、そのための時間が捻出できす実現できないケースが多い。 かくして、今年も思いだけが空回りして、結局やり残したままになっていることはたくさんある。以前は、年始に新しい試みを宣言して、それを実現することを目標にサイト運営をしていた時期があったが、年を追うごとにサイト運営以外のことにも趣味の時間を振り向けるようになって、そんな余裕がなくなってしまった。 そんなわけで1年の終わりに、心残りの未完仕事を幾つか記しておきたいと思う。 一つは、企画展が途絶えたままになっていることである。最後に企画展を追加したのがいつだったかすら、ややおぼろげになっている。一枚の絵を描くのと違って、企画展は何枚かを組み合わせて一つの集合作品に仕上げているので、それなりに時間もエネルギーもかかる。それだけの余裕がなくなっているということだろう。 もう一つは、「パソコン絵画のすすめ」のコーナーが長らく放ったらかしになっている点である。以前は、少しずつ加筆・修正したり、新しいコーナーを作ったりしていたが、最近では絵を描くのが精一杯になっており、中々手が回らない。以前、チュートリアルを付け加えて欲しいというリクエストを頂いたが、その企画すらまとめられていない体たらくである。 私のサイト運営のモットーが「無理をしない」ということであり、出来ず仕舞いになっていることを心の重荷として抱え込まないようにしているため、未済事項はドンドン増えていく。企業のように、経営の一環としてスタッフや予算を付けて運営しているのと違い、個人のサイトには処理能力に限界がある。だから仕方がないと言えばそれまでだが、ウェイティング・リストが長くなっていくことにはやはり悔いが残る。 今年なし得たこと、なし得なかったことを指折り数えつつ、1年が終わろうとしている。所詮は趣味の世界のこととは言え、中々悩みは深いものである。 |
12月20日(木) 「大人のクリスマス」 |
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そろそろクリスマス・シーズン本番となった。クリスマス用のデザインで飾った店を見かけることが多くなったし、繁華街に出かけるとクリスマス・ソングを耳にする機会も増えた。慌しい歳末の繁華街で、クリスマスは一服の清涼剤のように感じる。 昔はクリスマスを楽しむのは子供と決まっていた。だから、こんなに街をあげてクリスマス一色の飾り付けにはなっていなかった気がする。それが今では大人もクリスマスを楽しむようになり、大人向けのクリスマスの演出も増えた。レストランもこの季節、特別のクリスマス・メニューを用意するし、クリスマスをテーマにした大人向けのショーや催しも盛んになっている。 おそらく我々の親の世代は、子供時代にクリスマスを楽しむなんてことがなかったのだろう。考えてみれば、親の世代の子供時代は、戦争と戦後の食うや食わずの混乱期に重なっていて、おおよそクリスマスを楽しむような雰囲気も余裕もなかったはずだ。そういう意味では、クリスマスは戦後の平和な時代の産物とも言える。 私の小学校のクラスに、親がキリスト教の信者という同級生がいた。彼は、クリスマスになると親に教会に連れて行かれ、厳粛な儀式に陪席しなければならないことを嘆いていた。それを聞いて初めて、クリスマスがキリスト教のきちんとした宗教行事であるということを思い知らされた覚えがある。当時の私にとってクリスマスとは、大きなケーキを食べてプレゼントをもらえる子供のお祭り以外の何ものでもなかった。 そんな話を聞いたあと、私はたまたま家の裏手にあった小さな教会の前をクリスマスの夕方に通りがかった。みんなで賛美歌を歌う声が聞こえて来て、窓からは信者の人たちが白いベールを頭からかぶって集まっている姿が見えた。「あぁ、これが本当のクリスマスか」と思った覚えがある。 クリスマスと言えば、そんな実にさりげない思い出しかないのだが、それでもこの時期にクリスマスの飾りや音楽を見聞きするとほのぼのとした気分になるのは、あの頃、ケーキとプレゼントが輝いていたからだと思う。 一人分にカットされたケーキではなく、ホールピースのケーキが食卓に上るのは、クリスマスくらいのものだった。また、クリスマス用の包装紙に包まれたプレゼントには、どこかしら夢があった。そんなささやかな記憶が、今でも心の片隅に少なからぬ比重でどっしりと根を下ろしているのである。 大人のクリスマスなんて、子供のクリスマスとは別に存在するのだろうかと時々思う。クリスマスとは、子供時代の記憶の上に成り立っている行事である。子供時代に楽しいクリスマスの記憶のない人には、大人になってから本当の意味でクリスマスは楽しめないのではないのか。我々の親の世代がそうであるように、クリスマスと言われても感慨が湧かないはずである。 もはやサンタクロースを信じる年齢ではないけれど、それをバカにする気分にもなれない。幸せな子供時代を過ごした人は誰しも、この時期、つかの間子供時代に帰る気がするのである。 Happy Christmas to you! |
12月27日(木) 「再び1年を終えて」 |
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また1年が終わろうとしている。 こうやって「徒然草」を書きながら、毎年年の瀬を迎え「来年の今頃は何をしているのだろう」と感慨にふけることになる。その年々で起きることは様々であり、「去年と同じ1年だった」なんてことはないのだが、どういうわけだか、年末はいつも同じ調子で迎えることになる。1年が終わり、再び自分自身の原点に戻っているということなのだろうか。 「休日画廊」も7年目に入っているのだが、最近では年の瀬を迎えると、サイト運営に関して色々考えるようになった。6年間も同じスタイルでやって来て、既にサイトのデザインや構成は古臭くなった。こんなアナログなサイトはあまり見かけない気がする。明らかに見劣りする我がサイトを見るに付け、来年はスタイルを変えてみようかなんて思いが頭をよぎる。 ただ、さはさりながら、明確なアイデアがあるわけではない。私の絵の傾向やスタイルが変わらないのに、サイトのデザインだけ変えるとちぐはぐな構成になるのではないかという不安も湧いてくる。作品あってのサイトだから、デザイン・構成も作品に合わせるしかない。作品が変わらない以上、サイトもスタイルも変わらないことになる。かくして、落ち着くところに落ち着いて、何もしないまま新しい1年がスタートする。近年はこの繰り返しである。 そうはいっても、毎年この時期に同じことを考えるというのは、自分自身、今のやり方に何がしか疑問を感じているということだろう。こういう疑問や違和感を放置したままサイト運営を続けていくと、いつか嫌気が差して関心が薄れていくのではないかという気もする。そう考えると、何とも悩ましい問題である。 もう一つ感じているのは、この「徒然草」の文章が長くなったなぁという点である。書き始めた当初は、極めて簡潔で短い文章を掲載するつもりだったのが、いつの間にやら長く書く傾向が強くなった。 私は「徒然草」を、一旦ワープロソフトで下書きした上で、それをコピー&ペーストしてサイトに掲載している。当初は、ワープロソフトの標準体裁でA4一枚以内に収めるというポリシーでやっていたのだが、最近では2枚以上に及ぶものまである。文章は長ければいいというものではないし、あまり長く書くと、閲覧者の方もご覧になった瞬間に読むのが面倒臭くなって飛ばしてしまおうとされるおそれがある。そんなわけで、もっと簡潔な文章で書きたいという思いが強くなって来て、こちらもスタイルを変えられないかと考えあぐねているところである。 そんなことを言いつつ、またしてもA4一枚の制約を越えてしまったので、この辺りで止めておこう。 まぁ、そんな悩みを色々抱えながら、「休日画廊」は新しい年に船出していくことになる。来年も無事に一年を全うできるのか分からないが、そんなことを今から考えても仕方がない。ただ淡々と絵を描き、文章を綴る。そういう積み重ねでここまで来たのだし、これからもそうありたいと思う。 この年末、原点に戻って来年のサイト運営にちょっと思いを馳せてみよう。新しいスタイルを思いつけば、サイトの手直しにもトライしてみよう。けれど結局、さして変わらないスタイルで新年を迎えることになりそうな気もする。それもまた自分らしくていいかもしれない。 皆様もよいお年を。 |
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